4,ゼロサム(4)
「君が考えることって、なんでこんなにえげつないの?」
何の躊躇いもなく、分厚いハードカバーを破りつつ雲雀が言う。
自分の行動を省みてから発言して欲しい。千切れるというより引き裂かれるに近い残酷な音がして、綴じ糸と白紙が飛び散った。
「参加してるキョウヤが言えた義理じゃないだろ」
図書室を祝福するように、紙吹雪が視界を埋め尽くす。実際、図書室からすればこれは祝福などでは無く、環境破壊もいいところだろうが。
「結婚式みたいだな」
「結婚式、やったことあるの?」
ふと、思い付いて言った。雲雀の切り込みに、また笑う。
「やったことあったら大問題だろ。俺いくつよ」
幼い頃は結婚できる年齢など知らなかった。ので、もちろん弟と指切りした。大きくなったら結婚しようね、と。
僕がお婿さんで碧がお嫁さんね。指を放した弟に、なんで俺が嫁、と抗議すれば、「だってお兄ちゃんでしょ」と丸め込まれた。そういうところも宙は強い。うっ、と自分が引く部分を知っている。
「俺が参加するのは、宙の結婚式が最初で最後って決めてるからな」
あの約束が叶わないと知ったのは、そのすぐ後の話だった。
叶わない。自分が嫁になることは、無い。
ならせめて、弟の晴れ姿だけは見たかった。
「残念だったね。それももう叶わないよ」
バッサリ切り捨て、ざっくり破る。雲雀の手付きは迷いが無い。
生き方そのものを表すような潔さだ。
「あと数時間以内に、俺が宙の手を取って教会に飛び込めばセーフじゃない?」
「弟の意向を無視してる時点でアウト」
「まず血縁者だからダメってツッコミは?」
「君、本気になったら戸籍から変えるタイプだろ」
鋭いご指摘だ。ニッ、と口角を上げる。
「よくお分かりで」
黒い目が、じっと自分を見つめた。気付けば手は止まっていて、紙切れが小雨雪の名残みたく落ちていく。
腕を伸ばせば届く距離だ。
「……汝、健やかなる時も病める時も、愛し合い敬い、なぐさめ助け、変わることなく愛することを誓いますか」
動いたのは衝動だった。
息を吸うように雲雀の指先を掴み、囁いていた。幼児の戯れみたいに、けれどあの日の指切りのように真摯に。
理性が伴わない行動は初めてだった。そもそも、弟以外の人間にこうして触れる機会はほとんどない。
「……急だね」
雲雀は咎めなかった。ただ、目を細める。
そこか?と思ったが、下手に突っ込まれたら死ぬのは自分なので有難い。
「弟のはもう無理だからなぁ」
世界は終わる。何より、弟には獄寺がいる。
幼い指切りはこの紙切れと同じだ。いつか、ごみに変わる薄っぺらな約束。
「だから、お前も誓えよ。キョウヤ」
指を掴む手が、震えた。熱い。
これは、戯れだ。世界が終わるからできる、ふざけた誓い。
突き放されるか、振り払われるか。どちらかだろうと踏んで、雲雀を見つめた。
「……汝、死が2人を分かつまで、変わることなく愛することを誓いますか」
息を呑む。一瞬、重力を失ったように体が支えを見失った。
繰り返した。この男が。こんな、くだらない、わけのわからない誓いを。
「……なんか、俺のより短くね?」
「そもそもコレは神父のセリフで、夫婦が言い合うものじゃない」
返した声が震えないよう、全力で気を遣う。
雲雀は平然としたものだった。いつも通りだ。一戦交えた直後のように、あっさりした態度で指先が離れる。どちらからともなく。
「そっかぁ」
笑えたことに安堵した。
どういう意図かわからない。それでも、今こうして誓えた事が嬉しかった。
おままごとみたいな約束でも、心には残るから。叶わなくとも。
自分と雲雀恭弥は似ている。
初対面でわかった。おそらく、向こうも同じように感じ取っただろう。
他者に容赦ないところ。守りたい物だけ守る強さ。自分自身に従う本能。
けれど、自分と雲雀は同じ人間ではないので、時たま盛大にズレる。
「むしろ、今まであいてたのが奇跡」
「見回り役が怠慢だね。今度咬み殺そう」
理科室の鍵が開いていなかったことに対する、この反応。良い例だ。
「もう無理じゃん」
とは言いつつ、この男ならやりかねない。宣言通り、残りの数時間で見回り役を咬み殺しそうだ。恐ろしい事に。
スライド式のドアを蹴り上げる。ド派手な音が響いたが、さすがに鍵は開かなかった。
「ちょっと、うるさい」
睨まれる。ここでドン引きしないあたり、雲雀も常識が大概だ。
「ハイハイごめんね〜〜」
致し方ない。リングに炎を灯し、軽く流す。
「最初っからそうしなよ」
「ていうか、お前怒んないね」
「は?怒ってるよ。耳が痛い」
「そうじゃなくて、並中に乱暴なことするな、って」
校長室のあたりから、不思議には思っていた。
落書き。蔵書破り。そして今、扉を破壊している。
にも関わらず、この校舎性愛の異常者はお咎めナシだ。
「だったら本破りを許可してない」
「じゃあ、なんで許可してくれたんだ」
「君がやりたいって言った」
一瞬の逡巡も無い答え。
トンファーを一発キメられるより、驚いた。炎を鍵穴に押し付けたまま、体が固まる。
俺が、やりたいって言ったから?
「……ふうん」
僕と宿題、どっちが大事なの。昔、弟に袖を引かれたのが頭によぎる。馬鹿げた思い付きだったが、今、まさにそう問いたい気分だった。
俺と並盛、どっちが大事なんだよ。お前。
鍵が外れる。分解されたパーツが床に落ち、どこか恨めしそうに転がった。
「ッ、バカ!」
凄まじい勢いで手から薬品がぶっ飛ぶ。
同時に、バリンとガラスが砕ける音がした。顔を上げる。
「……わあ」
思わず、声が出ていた。
はあはあと肩で息をし、雲雀はこちらを睨んでいた。黒い瞳が怒った猫みたいにつり上がっている。視線の威力はレーザー光ばりだったが。
「ば、……馬鹿なの?君」
途切れ途切れの罵倒。雲雀が息を切らすとこなど初めて見た。
素直に安堵して、安堵した自分の安直さにおかしくなる。
「お前、凄いな」
「そうだね、僕の反射神経に感謝しなよ」
「いや、それもそうだけど」
破片が落ちる音がする。つられるように壁の方を見て、自分の机からの距離を目測した。
「飛躍距離、約2メートル」
「は?」
黒い瞳が苛立ちに歪む。
「片手でガラス瓶を教室の反対側まで飛ばした。その運動神経は誇っていい」
「咬み殺すよ。……ていうか、ナトリウムも皮膚は溶けるでしょ」
雲雀の目が、開けなかった瓶へと落ちる。
立て直しが早い。さっきの動揺は投げて捨てたかのように、雲雀の視線は揺らぎもしなかった。
「塩酸は痛いから」
「痛いのが好きなの?」
この男は自分を何だと思っているんだろうか。
「いや、嫌い」
「言ってること無茶苦茶」
スパッとツッコまれる。まあ確かに、とそこは認めた。自分でも自覚がある。
目を伏せた。
「でも溶けるのは本望」
弟は、こういう気分だったんだろうか。
雲雀が必死で止めてくれた時、本当は嬉しかった。安心したのだ。心配してくれる心が自分に向けられているという事実に。
人生初の無意味な駆け引きだった。人を試したり何かを仕向けたり、そういう行為に及んだことはなかった。自分はずっと、弟しか見ていなかったから。
宙の声が、脳内で虚ろに響く。
『愛じゃない?』
聡かった。人の心を見抜くのが得意な弟は、だからこそ人を縛りたがった。
見えるからこそ怖いのだろう。言葉で撃ち抜いて慰めて指を絡め、がんじがらめでいて欲しいと駄々をこねた。
そういう歪んだ愛情を知っていた。知っていたから、応える事が正義だと思っていた。
大丈夫だよと背を叩く手の内で、くっつくように頭を寄せる。そうして、互いを互いで縛る事が、自分たちの最後の居場所だと。
「……腹の内で、宙とひとつになって生まれてこればよかった、って昔はよく思ったんだ」
「へえ」
ひとつになれたら、きっと自分達はこんなに不安定じゃなかった。
強くあろうとあればあるほど、しっかり繋いだ指先が怖くなる。子供の頃は無垢に契れた約束が、歳を重ねて法や世間に阻まれ無効と化す。
美しく育った弟は、その格差に愕然として、そして壊れていった。
「小学校の時、七夕で願い事を書きなさいって短冊渡されて」
「うん」
「弟とひとつになりたいです、って書いた事もある」
「大問題じゃないか」
「職員会議になりました」
自分は強かった。
自惚れでも思い上がりでもなく、客観的事実として自分は強かった。
壊れる前に、この社会の不合理を受け入れた。それはつまり自分を殺すということで、世間の言う「大人になる」ということでもあった。
けれど、それで弟を守れるならなんてことはない。宙の崩壊を遅らせられるなら。
「だからって塩酸かけるのはどうなの?」
「やってみたくなっちゃって」
雲雀が嘆息する。その横顔に、今更後ろめたくなった。
「好奇心猫をも殺す、って知らない?」
「ごめんね。キョウヤが止めてくれるかなって、ちょっと期待してたんだ。実は」
肩をすくめる。
突如バク転を披露されたように、向かいの男は眉をつり上げた。
「……そりゃ、止めるでしょ。目の前で人の手が溶けるのを見たくはない」
「人生最後なら1回くらい見てみたくない?」
「僕は君みたいに趣味悪くないから」
鼻であしらわれ、思わず吹きそうになる。お前が言うか?
何とか思い止まったが、顔に出ていたらしい。トンファーで殴られた。
例えば、水が水素と酸素に分かれないように、人が人と離れない感情は何だろう。
宙はそれを「愛」と呼んだ。
「夕暮れは綺麗だなぁ」
「感傷的だね」
屋上から見る夕陽は、本当に綺麗だった。
赤と薄紅とオレンジと、それから淡い藍色の混じった空。様々な時間帯の空から1番良い色だけ切り取ってつないだみたいなそれに、しかし隣の男は淡々としている。
「あと40分で世界終わるんだぞ。ちょっとはセンチメンタル浸れよ」
「人はいつか死ぬよ」
淡々、を通り越して無味乾燥だ。カラッカラだ。
けれど、素直に賛同した。
「そうだな」
赤い空を見つめる。弟は、ちゃんと満たされただろうか。
人生の今までに悔いなどない。ただ一つ、最後になってやっと互いの手を離せた事、それだけが気に掛かっていた。
「君も、世界の終わりなんて意識してないだろ」
君「も」。つまり、雲雀もか。
「まあな。むしろ死に方としてはラッキーじゃね?世界と一緒に存在も消えるってだけで、苦しむとか痛むとか無いらしいし」
道徳なんて今更だ。アッサリ本心を吐けば、相手は予想通り顔をしかめもしなかった。むしろ、満足げな表情をする。
「津波とか爆撃とかで死ぬよりよっぽど良心的だよなぁ」
「良心的って」
珍しく、雲雀が笑う。
「他者の悪意の元で刺されるわけでも首絞められるわけでもないし。ポップな自殺って感じ」
「君、その人格形成を根本から疑われる発言はやめた方がいいと思うよ」
「キョウヤに人格疑われるとか心外ー」
人格の破綻なんて元々だ。
別に自分が気狂いなんて思っちゃいないが、一般的な「普通」と物差しが違うことはわきまえている。
「今日の君を見てて思ったけど」
「うん?」
「君って、弟がいなければ今頃捕まってるよね」
捕まる。考えたが、そういう図は一瞬も浮かんでこなかった。
「まー、宙は俺の全てだしな」
おそらく、今この場にいない。
弟は自分の拠り所であり、救いだった。宙の歪んだ愛情が確かに好きで、けれどずっと怖いと思っていた。
いつか、壊れる。自分の在り方を自分で定義できない、美麗で脆弱な宙は。
「やっぱり、今からでも行けば」
唐突な突き放し。思わず、振り向いていた。
「……どこへ?」
視線が合う。心臓がバクバクしていた。
どこへ。今更、あと世界が数十分で終わるという、その時なのに。
「弟の元へ」
雲雀の目は自分をまっすぐ見据えていた。
神が人間を断罪するように、僅かな苦みをそこにたたえて。
ピアス、似合ってないよ。
そうだった。1番初めの時も、雲雀はそう言い自分を注意した。
この少年はいつも素直だった。己の考えに従い孤高に生きる彼は、良くも悪くも本心をそのまま口に出す。
意味の無い結婚式の言葉も、自分を許した時も、塩酸を跳ね退けた瞬間も。
けれど、今は違う。
その目は、如実に語っている。発した言葉と真逆の意思を。
理解した瞬間、全身を風が吹き抜けたように衝動が走る。一歩、前に出た。
体が軽い。夕焼けの光に祝福されたみたく、何でもできる気がした。
「……キョウヤ」
ガシャン。両腕で、雲雀を囲う。
金網に相手の背を押し付けて、顔を近付けた。「弟の元へ」と、初めて自分を試す発言をした口に、触れ合う寸前まで。
そうか。きっと、弟は一度試されたかったんだ。砂鉄が磁石を追いかけるように必死でくっつくんじゃなくて、突き放したり嘘をついたり、そうやって見せて欲しかったんだ。執着を。
タガがしれてるから。子供が気に入ったオモチャを抱き歩くように、離れない事でしか表せない愛情など。
「抱いて」
本当はずっと寂しかった。
2人きりの世界が怖い。先の見えない人生が怖い。
どうして自分達は幸せになれない。どうして誰かを受け入れることができない。
けれど思い切って誰かを受け入れてしまえば、それは互いへの裏切りな気がしていた。
「いいよ」
静かな声が、優しく腕を掴む。命綱のようにフェンスを握りしめていた手が、ゆっくり引き剥がされた。
「痛いのは嫌なんだっけ?善処するよ」
「わぁ、キョウヤさんノリノリですね〜」
腕が背中に回る。包み込まれるような体温に、思わず目を閉じた。
温かい。弟と潜り込んだベッドみたいに。
「やりたいことはやっておかないとね」
「何か、全部エロく聞こえる……」
「性根が腐ってるからだよ」
「エッお前が言う?」
顎を上げられる。え、と思う間もなくキスされた。
……うわ。手が早い。意外に。
「……お手柔らかにお願いするわ」
「構わないよ。どろどろにしてあげる」
手の早さを全く悪いと思わない、そんな自分も大概だけれど。
もう一度唇を合わせた瞬間、何かが決壊したように涙が溢れだした。
「恭弥」
「……何。碧」
「ずっと好きだった」
一瞬、雲雀の動きが止まる。
「……そう」
人の、それこそ文字通り一世一代の告白に、このそっけなさ。どうだよ。
悔しかったので、ひねくれた本心を付け加える。
「らしい。俺」
呆れるかと思ったのに笑われた。
「なんで客観的」
「いや、なんか今気付いたわ」
頬を指がなぞる。熱い指先に麻薬でも染み込まされているのか、どうしようもなく幸せだと思った。
「他の人間とは断ち切っても、お前とだけは繋がってたい」
「弟は?いいのかい?」
「あ、宙は別枠なんで。悪いな」
「台無し」
嘘でも僕が1番って言いなよ。そう言って笑った雲雀が、優しく額に口付けた。
あなたが僕の最後の砦
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