5,ゼロサム(5)
「まだ一緒にいたいよ」
宙は夜が近付くとよく泣いた。いや、本当に涙を流すわけではない。
袖を掴んで、泣きそうな顔で駄々をこねる。それだけだ。
「っつってもお前、もう6時だぞ」
困り果て、なんとかなだめすかす。気分は完全に子供を慰める親のソレで、しかし獄寺もここで折れるわけにはいかなかった。
なんせ、この少年には恐ろしいナイトがついている。兄という名の愛情を盾に降臨する、魔王のごとき凶悪なナイトが。
「今日くらい、大丈夫だよ。ちょっと遅くなっても」
「そう言って昨日もヤバかっただろ」
「碧は怒んないよ」
「そりゃお前にはな」
オレは殴られたっての。そう言ってまだ赤いであろう額を見せれば、ワガママな恋人は普通に吹き出した。何て奴だ。
「ってっめーなぁ!お前はいーかもしんねぇけど、半殺しにされるのはオレなんだよ!」
「ゴメンね、碧は過保護だから」
「過保護の領域超えまくってるけどな」
あれは過保護なんかじゃない。執念だ。
ほんの半日前、拳を振り上げてきた顔を思い出して身ぶるいする。この世のどこに、笑顔で人間の鼻面をへし折ろうとする15の少年がいるだろうか。
「執念だろ、アレは」
「しゅうねん、かぁ」
舌で転がすみたく、宙がおかしそうに繰り返す。
「幽霊が恨みを持って憑りつくみたいなもんだな」
「お皿にこびりついた汚れみたいな感じでしょ」
エッ。さすがにぎょっとして、袖を掴む相手を見つめる。
「隼人は買い被りすぎ」
笑った顔はいつも通りだった。
「買い被りすぎ?お前を?」
「違う違う。碧のこと」
夕陽が沈みかけていた。最後の一辺が、それこそ執念みたいに校舎の奥から光を投げかけてくる。
「碧の執着なんて、タガが知れてるんだよ。ちょっとガンコな汚れみたいに」
そう言って微笑む宙の顔は、全く知らない人間のように見えた。
異質な双子が転入してきたのは、秋も深まる奇妙な時期だった。
転校するにしては微妙すぎる。しかし、この双子は実質、微妙どころか過激すぎた。
「宙に触ってんじゃねーよその指皮膚から剥いでやろうか?」
「ヒッ、ヒィィィイイイ?!」
「どこまで指紋認証できるか、お前のスマホで試してやるよ。おら出せスマホ!」
「ぼ、ぼくガラケーなんですぅう!!」
そこか。そこか?
カツアゲのごとく、襟首掴まれ目をむく男子生徒を横目に呆れる。カツアゲと違うのは、ここが並盛の廊下で、脅しの内容が非常に物騒だという点だ。
「チッ、命拾いしたな」
「ひ、ひい……」
「仕方ねーから爪に変えてやるよ。自分の血でマニュキアしたことあっか?」
さっきから絶妙な言葉のセンスだ。上手いのか下手なのか、ギリギリすぎる。
あー、しょうもねぇな。獄寺はため息をつく。さすがに割って入ってやるか。と、踵を返したところで、目の前を黒い背中が横切る。
「また君か。碧」
「あ?何だ、キョウヤじゃん」
風を切るトンファー、素早く避ける体。言葉面だけならただの挨拶だが、実際は武器と拳が混じり合うから大問題だ。
その隙に、「うわぁぁああ」と男子生徒が転がり逃げていく。賢明な判断だ、と獄寺は思った。わざわざ巻き込まれることはない。
「君は何でも問題を起こすね。ピアスだけじゃ飽き足らないのかい?」
「問題製造ボックスとでも呼んでくれ。痛くもかゆくもねーから」
「パンドラボックスとかどう?」
「えっそれ本気?えっ冗談だよな?なんか俺の厨二な黒歴史が刺激されるからやめて?」
アホだな。ガキーンガシャーン、と激しい音が響く中、心底痛感した。慌てて立ち去る何人もの生徒の姿が目に入る。賢い。カオスな会話しか飛び交わない、こんな危険空間は自分もゴメンだ。
背を向け、教室に戻ろうとした瞬間だった。
「逃げた方がいいよ?巻き込まれる前に」
さっと血の気が引いた。
全身が凍り付く。血管という血管が冷えたような感覚のまま、目だけ動かした。
「ええーと……誰クンかわからないけど、僕の兄さんは遠慮なく人を巻き込むから」
すぐ真横。袖を引き、顔を覗き込む大きな目。
小動物を思わせる瞳だったが、獄寺はごくんと唾を飲んだ。
気付かなかった。
全く。この自分が。気配に。
「……てめぇ」
なんだ?
そう問おうとして、口をつぐんだ。
「え?あ、僕?」
不自然に黙った獄寺をどう勘違いしたのか、目下の少年はへにゃりと笑った。
「宙。あそこで暴れてる、碧の弟だよ」
兄さんがゴメンね。さらっと言ったその笑みに、まるで得体のしれない生き物を相手にしているような気がした。
「お前はドMか?殴られんのが趣味なのか?」
「なんでさ」
校舎の裏で、お定まりのようなカツアゲ。
こっそり煙草を吸おうとして発見してしまった。見て見ぬフリをしなかったのは、囲まれた少年に見覚えがあったからだ。
「タダでさえこの前の乱闘騒ぎで目立ってんだ。んな物陰に立ち寄るんじゃねーよ」
相手が首をすくめる。怯えの滲む、というより、自分の可愛さをわかってやっている、というのが透けて見えて、獄寺は舌打ちした。
宙。碧という凶悪なブラコンを持つ、全然似てない双子の弟だ。
「助けてくれてありがとう」
ますます、自分の目がつるのがわかった。さらっと言われた事がまた腹立だしい。
「てめー、話聞いてたか?オレはお前の不注意に呆れてんだよ」
「聞いてたよ。こんな薄暗い校舎裏に行くなって心配してくれたんでしょ」
いきなり生卵を飲み込んだみたいな気持ちになる。詰まったこちらを見、宙が吹き出した。
「すごい顔してる。コウモリみたい」
こうもり。言うに事欠いて、コウモリ?
獄寺は途方に暮れた。サルとかブタならまだしも、動物のチョイスが際どすぎる。なんだこの双子、2人揃って言葉のセンスがギリギリなのか?
「……心配じゃねぇよ。てめぇの兄貴がまたキレんだろ」
苦し紛れに言う。実際、事実ではある。昨日も「弟に色目を使った」と、碧の拳が哀れな男子生徒に振り下ろされたばかりだ。
きょとん。大きな目をパチパチさせて、宙が口を開く。
「碧がキレるのと獄寺クンがカツアゲ止めてくれるのと、何か関係あるの?」
うっ。今度こそ、獄寺はたじろいだ。
うっすら察していたが、この少年はけっこう鋭い。
「うっせーな!!そこは普通にお礼言って引き下がれよ!!」
「わぁ、絵にかいたような逆ギレ」
「うるせーよ!!」
冷静に判断するなよ。こっちがますますいたたまれなくなるだろ。
もういいと背を向けた時、「獄寺クン」と笑う声が聞こえた。
「……あんだよ」
「ありがとう」
校舎と校舎の狭間。日の光が届かないそこに、ポツリと佇む少年。
闇がわだかまるような狭い通路の真ん中で、カクンとその首がかしいだ。人間味を感じない動きに、思わず足が止まる。
斜め下から上目遣いをするような格好で、宙がうっすら微笑んだ。
「本当は碧に見つけて欲しかったんだけど。獄寺クンが来なかったらもっと最悪だったから」
遠目に見れば美少女だとウワサされる顔立ちが、くっと歪む。ゆっくり持ち上げられた手の先に、カッターが握られているのを見て戦慄した。
白光りする刃。
後ずさる。ほんの数センチレベルの小さな刃先に、まるで銃口を向けられたような恐怖を感じた。
「こんな文房具にどれくらいの殺傷力があるか、試したくはないし」
ニッコリ笑われた瞬間、限界を悟った。
「隼人ー」
「んだよ」
「教科書貸して。国語の」
昼休み。ひょこっと顔をのぞかせた同級生に、躊躇なく教科書を投げる。
「わっ!ちょっと、僕の鼻が折れたらどうしてくれんの」
むっ、と綺麗な顔があざとくすねる。そう言いつつきっちりキャッチしているんだから、別に文句を言われる筋合いはない。
「その顔面が多少崩れれば、寄ってくる輩も減るだろ」
「なにそれ。嫉妬?」
吹いた。真昼間の教室で、コントのように。
「……っれが嫉妬だ!!」
「別に、僕に劣らず隼人も顔いいじゃん。何が不服なの?」
不思議そうに問われ、ん?と思う。違和感を感じた。何か会話が食い違ってる気が、と考え、原因に思い当たった瞬間、死にたくなる。
宙は普通に、モテる自分は羨ましいだろう、という意味で言ったのだ。それを獄寺が「宙に寄ってくる輩に自分が嫉妬している」と勘違いして取っただけで。
「不服だらけだっての……」
「え、ちょっと大丈夫?」
ぐったり机に突っ伏す。いつの間にか隣に立っていた宙が、心配そうな声を出した。
「大丈夫だろ。コイツ殺しても死なないみたいなトコあるし」
「その声はいけすかねー兄貴だな」
重たい頭を上げる。真横、宙の頭に顎を置き、湿気の塊みたいにジトッと見下ろす目があった。
「宙、トモダチは選べよ。何でこんなんとつるんでんだ?」
「ソックリそのまま返してやっからなテメー。ヒバリと毎日仲良くやってるくせに」
ガタガタン!と机が倒れる。他人の席を巻き込み咳込んだ碧を横目に、宙がくすっと笑った。
「ちゃんと選んでるよ。隼人は優しいもんね」
「え」
反応に困る。面と向かって「優しいもんね」などと言われて、積極的に肯定できるほどできた中学生じゃない。
「今でも覚えてるよ。僕が持ってたカッター、ふっ飛ばしてさ」
「ちょっ待て、ソレ今掘り返すか?!」
顔が赤くなるのは自分でもわかった。慌てて立ち上がり、余計な事を言う口を押さえにかかる。
「『ふざけんな、やめろ』って。アレ、むちゃくちゃぞくぞく来たよ」
「無茶苦茶笑いながら言うんじゃねーよ!」
ばしっ!と小さな唇を片手で塞ぐ。とりあえず喋る恥晒しは止められ、獄寺はほーっと息を吐いた。これでひと安心、と神経が緩む。
「……獄寺、お前は何やってんのかなー……?」
「ゲッ」
全然ひと安心じゃなかった。
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