7,ゼロサム(7)
まだ一緒にいたいよ。
そう言って袖を掴めば、自分に弱い碧はすぐにほだされた。
『わかったよ』
あと10分な。囁き、額に唇をくっ付ける感触。くすぐったい。
『でも、あと10分経ったら起きるぞ。絶対な』
『ヤダ』
『ガマンって知ってるか?』
ベッドの中、隣に転がる兄が半眼になる。こらえていた笑いが吹き出した。せっかく、神妙な顔を作っていたのに。
『だって、まだ碧といたい』
『まだ寝てたい、の間違いじゃないのか?』
『行かないでよ。僕も英語のレッスンさぼるから、銃の訓練さぼってよ』
『無茶苦茶すぎ。先生に怒られるわアホ』
『じゃあ、先生誤射すれば?』
ぴたり。碧の動きが止まった。時間をかけ、じわじわとその表情が苦笑へと変わっていく。
『それは殺人って言うんだよ。宙』
『知ってるよ』
『お前って、いつか普通に人刺しそうで怖い。英語の才能じゃなくて倫理観ちゃんと磨けよ』
今度は頬に口付け、碧が微笑む。人を溶かすような笑みの仕方は、碧が「社交術」とやらを学び始めてから身につけたものだ。
面白くない。兄はいつも勝手に学び、勝手に成長していく。ほんの何分か先に生まれただけで、どうしてこうも違うのか。
『じゃあな』
ベッドが軽くなる気配。目を閉じれば、すぅっと冷たい空気が入るのがわかった。
兄は強く、優しく、頭が良かった。宙が不必要だと思うものを持ったまま、凛と生きている。
それが宙自身のためだと、碧は信じてやまない。そういう兄を知っていたからこそ、宙もずっと黙っていた。
「まだ一緒にいたいよ」
あの日のように駄々をこねれば、やはり自分に弱い相手は困った顔をした。
「っつってもお前、もう6時だぞ」
「今日くらい、大丈夫だよ。ちょっと遅くなっても」
「そう言って昨日もヤバかっただろ」
「碧は怒んないよ」
「そりゃお前にはな」
オレは殴られたっての。そう言い、獄寺が前髪をかきあげる。
急な仕草にどきっとした。同時に、うっすら赤くなった額が目に飛び込む。耐え切れず、吹き出した。
「ってっめーなぁ!お前はいーかもしんねぇけど、半殺しにされるのはオレなんだよ!」
「ゴメンね、碧は過保護だから」
「過保護の領域超えまくってるけどな。執念だろありゃ」
げんなり。世の末を目撃した人間のような顔で、獄寺がうめく。はらりと前髪が下りた。
前髪上げてもカッコいいんだな、と内心で思う。一生、口には出さないだろうが。
「執念、かぁ」
優しい両目を思い浮かべる。何年経っても、自分を見る兄の目は変わらなかった。
何かを切り捨て何かを抱えて生きる碧に、「執念」なんて固い言葉は似合わない。あの人の根本にあるのは優しさだ。
「幽霊が恨みを持って憑りつくみたいなもんだな」
「お皿にこびりついた汚れみたいな感じでしょ」
えっ、と驚き顔で見下ろしてくる相手に、ニッコリ笑う。
最早染みついた反射みたいなものだ。ちょっと綺麗に微笑めば、大抵の人間は自分が何を言っても許してくれる。
「隼人は買い被りすぎ」
「買い被りすぎ?お前を?」
「違う違う。碧のこと」
夕陽が沈みかけていた。最後の一辺が、血のように校舎裏の壁を照らす。
「碧の執着なんて、タガが知れてるんだよ。ちょっとガンコな汚れみたいに」
碧は、自分とは違う。
ほんの数分、先に生まれただけなのに。
獄寺隼人という人間に会ったのは、転校してきてわりとすぐのことだった。
「また君か。碧」
「あ?何だ、キョウヤじゃん」
風を切るトンファー、素早く避ける体。それらを廊下の端で眺めつつ、ああコリャ碧は帰ってこないな、と判断した。
馴れ馴れしく宙の肩を抱いた男子生徒をふっ飛ばし、すごむとこまで碧はいつも通りだった。違うのは、そこに風紀委員長が乱入してきたことだ。最近、その回数が目に見えて多い。
「うわぁぁぁあああ」
自分の前、風を切りピュウッと例の生徒が逃げていく。まあ、賢明だろう。本当はもう一度声でもかけて欲しかったが、繊細な男子中学生にそこまで望むのは酷だ。
「君は何でも問題を起こすね。ピアスだけじゃ飽き足らないのかい?」
「問題製造ボックスとでも呼んでくれ。痛くもかゆくもねーから」
「パンドラボックスとかどう?」
「えっそれ本気?えっ冗談だよな?なんか俺の厨二な黒歴史が刺激されるからやめて?」
ガキーンガシャーン、と激しい音が響く。廊下を通ろうとした生徒らが、蜘蛛の子を散らすみたく慌てて逃げていった。それをぼんやり眺めていれば、ふと、佇む生徒に目が留まる。
銀髪の男子だ。呆れ顔で目を細め、ヒバリと碧の乱戦を眺めている。一瞬、碧に見惚れているのかと総毛立ったが、踵を返した姿に違うと踏んだ。
一歩、前へ出る。
「逃げた方がいいよ?巻き込まれる前に」
声をかけたのは反射だった。ちょっと変わったこの男子生徒なら、戦闘に夢中な兄を引き戻すくらいのちょっかいをかけてくれるかもしれない。
ミイラ取りがミイラになる。そういう言葉が自分に降りかかるとは、まさか思いもせずに。
「お前はドMか?殴られんのが趣味なのか?」
笑った。同時に、少しだけホッとする。
たった今、5人の男子生徒を追っ払い、煙草に火を点けた少年に、自分が殴られるより酷い目に遭うところだったと知られずにすんで。
「なんでさ」
並中のような平々凡々な学校にも、校舎裏という鬱屈とした場所がある。人に表と裏があるのと同じだ。どこに行っても、面倒な輩というのは存在する。
「タダでさえこの前の乱闘騒ぎで目立ってんだ。んな物陰に立ち寄るんじゃねーよ」
首をすくめた。
物騒な目付きに怯えたワケでは、もちろん無い。可愛らしい仕草をすれば、女と間違えられるこの顔にころっとほだされる相手が多いからだ。たまに、その魂胆を見透かす理性的な人間もいるけれど。
そして、どうやら獄寺隼人は、その「たまに」側の人間だったらしい。
「助けてくれてありがとう」
うっとうしそうに舌打ちをされ、素直に礼を述べる方へ方針を変えた。
だが、相手はまずます目を三角にする。なんでだ。
「てめー、話聞いてたか?オレはお前の不注意に呆れてんだよ」
「聞いてたよ。こんな薄暗い校舎裏に行くなって心配してくれたんでしょ」
うっ。喉に煙が詰まったように、獄寺が顔をしかめる。
珍しい。素直にそう思った。自分の容姿じゃなくて言葉に戸惑う人間は、代表・碧をはじめ、極めて少数だ。
「すごい顔してる。コウモリみたい」
「……心配じゃねぇよ。てめぇの兄貴がまたキレんだろ」
怒るかな。そう思って言ったのだが、返ってきたのは意外にも言い訳だった。
不思議な人だな。そう思いつつ、問いかける。
「碧がキレるのと獄寺クンがカツアゲ止めてくれるのと、何か関係あるの?」
煙草が相手の指から落ちる。
あーあ、まだ吸い始めだったのに。もったいない。
「うっせーな!!そこは普通にお礼言って引き下がれよ!!」
「わぁ、絵にかいたような逆ギレ」
愛想が通じない事はもうわかったので、本心そのままにツッコみを入れる。途端、「うるせーよ!!」とチンピラさながらの暴言を喰らった。
くるっと銀髪が背を向ける。どうやら、煙草に未練はなくなったらしい。ていうか、落としたやつ片付けないのか。
「獄寺クン」
以前、聞き出した名字だ。呼べば、遠のいていた背中が止まる。
「……あんだよ」
「ありがとう」
獄寺が振り返る。敵を警戒する動物のような目に、思わず笑っていた。首を傾け、斜めからその瞳を見据える。
わかりやすいと思っていたのに、案外予想できない相手だ。そう踏んだから、本性を出す気になったのかもしれない。
いずれにせよ、反応を見たかった。綺麗だと称えられる容姿の下で、どれほど自分がキレイじゃないかを知った、その反応が。
「本当は碧に見つけて欲しかったんだけど、」
ゆっくり、後ろ手に隠していた手を上げる。
人間は動くものに目がいく性質だ。獄寺の視線も、例外なくこちらの手に移る。
「獄寺クンが来なかったら、もっと最悪だったから」
相手が後ずさる。宙がしっかり握りしめたカッターを見つめ、まるで今にも切りつけられるんじゃないかと言わんばかりに。
笑う。そうだ、そういう反応が見たかった。
君達が見惚れ、声をかけ、群がり、好奇心と欲情のまま「ちょっとくらい」とシャツの裾に手をかける綺麗な少年が、どれほど異質であるかを知り、慄く姿が。
知っているのは兄だけだ。知っていて、異質な自分を受け入れてくれる異質な人間も、碧だけ。
「こんな文房具にどれくらいの殺傷力があるか、試したくはないし」
ニッコリ、特別華やかな笑みを作る。
だが、次の行動は予想外だった。
「……っざけんな!」
パン、と軽く手が揺れる。思わず、目を瞬いた。
手の内にあったカッターが、無い。その代わりのように、目の前に獄寺の顔があった。
「やめろ。……そんな事、すんじゃねぇよ」
カシャン。遠くで、軽い文房具が転がる音がする。
襟首を引っ掴み、殺意に近い何かが燃える目で、獄寺が睨んでいた。ぎゅうっと力のこもった指先が、布に食い込んでいる。
それを、呆然と見つめていた。
「隼人ー」
「んだよ」
教室の扉をガラッと開け、顔だけ覗き込む。もう慣れたものだ。
首を回し、獄寺は席からめんどくさそうな顔で見てくる。貴重な休み時間だ、仮眠でも取るつもりだったのかもしれない。
「教科書貸して。国語の」
言い終える前に、ぶんっと教科書が投げられた。
わっ、と顔をしかめる。当然、優秀な反射神経がキャッチしたが、今のはあまりいただけない。
「ちょっと、僕の鼻が折れたらどうしてくれんの」
「その顔面が多少崩れれば、寄ってくる輩も減るだろ」
獄寺は頭が良いせいか、時々よくわからない言い回しをする。
もう少し感情的に話せばいいのに。というのは、宙の一方的な感想だ。こういうところ、獄寺は碧に似ている。
碧が自分に全てを捧ぐように、彼はボンゴレ10代目に尽くすところとか。
「なにそれ。嫉妬?」
とりあえず思った事を言う。
なぜか、獄寺はぶはっと吹いた。教室の何人かが、怪訝そうな顔で振り返る。
「……っれが嫉妬だ!!」
すごいタメたな、今。首を傾げつつ、猛烈な剣幕の獄寺を見つめた。
「別に、僕に劣らず隼人も顔いいじゃん。何が不服なの?」
途端、相手が奇妙な顔付きになる。レッグホルスターから銃を引き抜いたはずが、なぜかスマホだった時の碧に似ていた。
ゴンッ。1秒後、獄寺が机にダイブした。顔面から。
「不服だらけだっての……」
「え、ちょっと大丈夫?」
後頭部から殴られたような勢いだった。慌てて教室に入り、様子を窺う。
ぐったり机に埋まる頭。きらきら煌めく銀髪が、木製の机に映えている。そっと指を絡めたところで、ズシッと頭に重みが来た。
「大丈夫だろ」
上目に見る。むすっとした顔の碧が、宙のつむじを肘置きにして見下ろしていた。
視線は感じていた。そもそも碧は獄寺と同じクラスだ。いつもなら、獄寺が自分に教科書を投げた時点で殴りにきているだろう。
それが、最近はやけに大人しい。なぜか、獄寺限定で。天変地異の前触れだろうか。
「なんせコイツ、殺しても死なないみたいなトコあるし」
「ちょっと碧、隼人だって人間だよ?」
そして、それは自分も同じだった。
碧がかまってこないことに、さほど気落ちしない。なぜだろう。
「その声はいけすかねー兄貴だな」
獄寺がガバッと顔を上げる。慌てて髪に絡めていた指を引っ込めれば、碧が満足げに息を吐くのがわかった。なんだ、やっぱりそこは気にしてたんだ。
「宙、トモダチは選べよ。何でこんなんとつるんでんだ?」
「ソックリそのまま返してやっからなテメー。ヒバリと毎日仲良くやってるくせに」
途端、頭上の重みが消えた。ガタガタン!と派手に机を倒し、碧が泡を食ったように咳込んでいる。きゃあ、と近くにいた女子生徒が声をあげた。
珍しい、と思わず目を丸くした。口を押さえる碧の手の隙間から、徐々に赤く染まる頬を見つけて、今度は笑ってしまう。驚きが一定を越えたせいだ。
よっし今度ヒバリさん刺そう。
「ちゃんと選んでるよ。隼人は優しいもんね」
「え」
「反応に困ります」という顔で獄寺が固まった。
うんうん、この素直さがいい。獄寺隼人という人間は、八つ当たりするにはもってこいだ。
「今でも覚えてるよ。僕が持ってたカッター、ふっ飛ばしてさ」
「ちょっ待て、ソレ今掘り返すか?!」
赤くなった獄寺が目をむく。あの日の一件は互いの間で「黒歴史」と認定され、長い事、封印の域にあったのだ。
「『ふざけんな、やめろ』って。アレ、むちゃくちゃぞくぞく来たよ」
「ムチャクチャ笑いながら言うんじゃねーよ!」
熟れたトマトみたいになった顔。ホント面白いなあ、なんて思っていた罰だったのかもしれない。
次の瞬間、肩を掴まれ、ばしっと唇を手で塞がれた。
「え、」
目を見開くが、ほーっと息を吐き出す獄寺は全く気が付いていない様子だ。ほぼ鼻先が触れ合う距離と、肩を抱くポージングの意味に。
あ、キスできそう。額に落ちてきた銀髪をぼうっと眺め、そう思った。
「……獄寺、お前は何やってんのかなー……?」
「ゲッ」
地を這う碧の声に、獄寺がカッと目を見開いた。
遥か昔、やさしく言われたアドバイスを思い出したのはこの頃だった。と、思う。
碧にひっつき離れたがらない宙を見て、笑った人。
『キモ。ありえねー。お前ら磁石のSとMなの?』
笑顔でそういうことを言う人だった。
『それを言うなら、SとNだと思うけど』
『1回、碧以外にも目を向けてみれば?』
控えめにツッコむ。
全然気にしてません、みたいに細く笑った瞳が印象的だった。
『どういうこと?』
『碧を壊すよ。そのままだと、お前』
あの時、頭を撫でた手を覚えている。
そういう人だった。口が悪くて情に厚い。異国の砂地に立つ城みたいに、強くて遠い人。
見た目も仕草も何も覚えていないのに、思い出の切れ端だけが残っている。碧に、少し似ていたからだろうか。
名前のわからないその人のアドバイスに従ってみようと思ったのは、世界が終わるレベルの気紛れだった。
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