#88

車内では、互いに終始無言であった。煉獄は何かを考えていたようだし、なまえも、回る視界と睡魔に教われ意識がギリギリである。


ガチャリ、という開錠の音で、意識が戻る。どうやら歩いてここまで来れたらしい。‥よかった、女を抱えて移動する姿など見られたら‥彼のマンション内での評判が、どうなるか分からない。


「あ、煉獄さんの匂い‥」
玄関から大好きな匂いに包まれ、幸せな気持ちになる。お邪魔します、などと言いながら‥ふらつく足で、靴を脱いだ。

「わっ」
途端に膝裏に手を差し込まれ、持ち上げられる。煉獄に密着できて幸せ‥などと思っていたら、そのままソファに下ろされ、座位を保てずに座面に顔が激突した。ぐふぅ‥勿論痛くないけど。

煉獄がどこかへ行き、バタンと扉が閉まる音がする。


「水だ」
隣に掛け、優しく肩を抱いた煉獄が、水を飲ませてくれる。これ、介抱ってやつじゃないかなぁ‥恥ずかしい‥

「煉獄さん、ごめんなさい‥」
冷たい水が熱い体に染み渡る。今日は私と会う予定では無かったのに、忙しい彼の手を煩わせてしまって非常に申し訳ない。うぅ、こんな時でもぐらぐらする。

「何故謝る!初めは加減が分からないものだ」
優しい声に、ほっとする。調子に乗って飲みまくり、転び、千鳥足‥。引かれたかと思っていたので‥よかった‥。
なまえは内心ほぅとため息をついた。


「男との距離感は、もう少し気を遣ってほしいがな!」
「!」

煉獄の声に、思わず顔を上げる。
それは‥宇髄か、伊黒か、それとも後半ぐらぐら寄りかかってきていた善逸か‥。


‥いずれにせよ、煉獄がこのような事を咎めるなど、初めてだ。それはまるで、

「彼女だから‥?」
自分のものと、言われているようで。


「彼女だからだ!‥将来を考えている、大切な人だからだ」
「!!!」
煉獄の言葉に、なまえは目を見開く。え、そんな凄い事、普通のトーンで‥ちょっと待って‥脈拍が‥あああ視界が回る。


「‥君の家だと勝手が分からない。心配だから、連れてきてしまった。」
嫌だったか、と、真剣な顔で見つめられ。感謝の気持ちを伝えたかったが、胸がいっぱいで、首を左右に振るしかできなかった。私は赤べこか?






風呂は危ないからシャワーを、ということで、浴室に案内される。あの煉獄の自宅にいるという事実だけで、素面であれば卒倒する大事件であるのに‥目が回るほど酔っていたおかげで、無心でいることができた。

服を貸して下さるというので、Tシャツだけお願いし、洗面所の扉を開ける。(パンチラ防止の)ホットパンツはある。


「うぅ‥回る‥」
シャワーに打たれながら、知らない石鹸類で必死に全身を洗う。洗顔料だけでメイクを落とすのが、とても大変だった‥

浴室に充満する石鹸の匂いに、あぁ先生からこんな匂いするなぁと、嬉しくなってしまう。
ここで、煉獄はいつも‥‥‥考えるな!
酔っているせいで思考の内容がいつもより酷い。

何とか洗い終え、髪を絞り。ガチャリと浴室の扉を開くと、洗面所に湯気がむわりと流れ込んだ。

私、泊まるのか‥初めての、お泊まり‥。
煉獄の匂いのするタオル(欲しい)で、体を拭く。

あぁ、こんな酔っていて勿体無い‥憧れの煉獄の自宅だ、隅から隅まで拝み倒したいのに‥‥‥いや何だこの欲望気持ち悪っ


「‥‥‥」
扉の向こうから、足音や、物を移動させる音がする。自分が裸であるのに、扉一枚隔てて憧れの煉獄先生がいるという状況が‥何故か酷く緊張した。


(ブラ‥は、しなきゃな‥)
回る頭で、ギリギリ思考する。寝る時はノーブラ派だが、借りたのはTシャツだ。AVじゃあるまいて、そんな状態で出ていったら色々なシルエットが浮き上がって痴女決定である。

(‥先生のシャツ、大きいなぁ)
鎖骨周りがかなり開いており、下着の紐が見えないよう前をひっぱると谷間が見え‥‥酔った頭でどっちつかずのベストポジションを探す。お尻の下まですっぽり隠れる丈は、まるでワンピースのようだ。このままだとパンモロなのでホットパンツを履くけれども。


「シャワー有難うございました‥」
ふらり、ふらりとリビングに戻る。
歯磨きをしたら、少し頭がスッキリしたが‥まだ平衡感覚は戻らない。

「‥‥‥‥髪が濡れている!」
「え?」
謎の沈黙の後、とんでもないことを指摘された。あぁ、ドライヤーしてない‥ダメだ今の私‥

呆然としていると、煉獄が洗面所に行き、ドライヤーを持って戻ってきた。

「座るんだ」
「え?あの‥わっ」

ブォォォォン‥
促されるままソファに座ると、煉獄が髪を乾かし始めた。温風が当たり、煉獄の大きな手が優しく髪をとく。

あぁ、何と言う幸福感。なまえは申し訳ない気持ちも忘れて、気持ち良さに目を瞑った。

「‥‥‥‥」
‥煉獄は、なまえに甘い。学校で見る、真面目で溌剌とした‥それでいて異性を近寄らせぬオーラのあった煉獄からは、恋人をどのように扱うのか、全く想像できなかった。

体に触れるときの妖艶な空気感、優しく愛おしむような指の絡め方、誕生日の‥蕩けるような濃厚な口付けも。

煉獄の香りに包まれながら、髪を乾かしてもらうこの甘い一時も‥‥なまえでなくとも、誰が想像できようか。


「‥良い眺めだな!」
上から煉獄の元気な声が降ってくる。何だろう、私の頭頂部、そんなに魅力的なのかなぁ‥‥などと、ぼんやり考えた。





俺もシャワーを浴びてくる、先に寝ていてくれ!‥と言われ、寝室に案内される。わぁ、大きいベッドだ、いいなぁ‥と思いながら、お礼を言って横になった。

あああ煉獄先生の匂い‥!!
あまり機能しない頭でも、これが凄い状況だということは分かる。憧れの煉獄が寝ているベッド‥‥‥あぁ、動悸がしてきた。ドキドキしてしまって、眠れる気がしない。とても眠いのに。

「‥‥‥‥」
明かりを消し忘れてベッドに入ってしまった。気を落ち着けようと、部屋の内部をぼんやり眺める。
ベッド横にはサイドテーブルがあるが何も置かれておらず、クローゼットは閉ざされている。窓には厚めの‥恐らく遮光カーテンがかけられ、外の様子は見えない。

煉獄の匂いを肺いっぱい吸い込む。彼の寝顔は見たことがない。勿論、一緒に寝たことも。



「‥‥‥‥」
洗面所の扉が開く音がしたが、何分経っても煉獄は来ない。
‥物音もしないし、煉獄の事だ。自分はソファで寝てしまったのかもしれない。とても残念だが‥自分も寝姿に自信がないし、諦めよう。

「ふぅ‥‥‥生き返る」
下着を外すと、枕の下に押し込んだ。
布団を肩まで上げ、瞼を閉じる。

今日はとても楽しかった。梅酒という新しい出会いがあったし、宇髄の話しは面白く、胡蝶は美しかった。胡蝶にデレデレする善逸も面白かったし、食事もとても美味しかった。

‥そして、煉獄の香りに包まれて眠ることができるなんて、何て幸せな一日だろう。

うとうとと、眠気が下りてくる。
夢と現実の間で、パチリと、電気が消されたのを感じた。






夢を見た。


昔のマンションの前に、なまえは立っている。外は暗く、雪が降っていた。

"なまえ"

暗闇の中に、茶髪ピアスが立っている。

全身から血の気が引き、マンションへ逃げ込む。後ろから男が歩いてくる。

"鍵っ‥‥‥"

鞄を漁るが、腕がスローモーションになったかの如く、言うことを聞かない。

自動扉が開いて、男が入ってくる。
もう駄目だ、目の前の扉は開かない。


その時、後ろの自動扉が、再度開く。

"‥え‥"

煉獄が、女性と腕を組んで歩いてくる。

"先生‥?"
なまえが呆然と声をかけるも。

"‥‥‥"
冷たい視線で一瞥され、彼はマンションの中へと入っていく。

"あの人だれ?知り合い?"
煉獄に腕を絡める女性は‥‥‥あの時の女子生徒だった。

男がなまえの腕を掴む。

はらりと涙が流れた瞬間。

"いや、知らない人だ!"

‥と声がして、扉が閉まった。




「‥‥うっ‥」
「なまえ、‥‥なまえ!」

肩に温もりを感じ、ハッと目を覚ます。

常夜灯のついた薄暗い寝室。ここはどこだろうと、ぼんやり考えた。


「先生‥‥‥」
側に立つ煉獄の、心配そうな顔が目に入り‥ようやく現実に戻る。

「大丈夫か?随分うなされていたが」
「‥‥‥‥」

あぁ、夢か。よかった‥
薄暗い室内に煉獄の美しい赤が灯り‥それが酷く安心した。



「水を飲むといい」
はい、と言って、体を起こす。

支えようと手を回した煉獄が、背中に触れた瞬間に‥ピクリと固まった。


「‥‥ありがとうございます‥」
冷たい水を飲む。ざわざわしていた頭の中がスッと、冷静になった。
何故あんな夢を。‥今日は、こんなに幸せだったのに。


月明かりが、カーテンから細く室内を照らした。今は何時なのだろう。


「‥俺も、そろそろ寝る。向こうにいるから、何かあったら呼ぶといい」


そう言って背中を向けた煉獄を衝動的に追い、腕を取った。‥後ろから腕を回し、彼にぴたりと体を密着させる。


ギクリと、煉獄の動きが止まった。


「煉獄さん‥‥‥」
「‥一緒に、寝たいです‥‥」




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