#91

「わぁぁぁー!大分上りましたね!」
川沿いを走り、干物や饅頭等、土産物が建ち並ぶ駅前を抜け‥車はガタガタと車体を揺らしながら、山道を進む。

「カーブが多い!酔ったら無理せず言ってくれ」
狭い道。対向車を先に通しながら地図アプリを見る。目的地まで、あと少し。






"行き先のリクエストはあるか?"
先日。電話越しの問いかけが、飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。

旅行に行こう、と言ってくれてはいたものの。まさか煉獄と本当に旅行ができるとはにわかに信じられず、思わずスマホを握りしめた手に汗をかいた。


煉獄と旅行。どこにデートに行っても毎回最高に楽しいのに、行き先のリクエストだなんて!

えっと‥などと時間を稼ぎながら、頭をフル回転させる。
忙しい煉獄だから、行くのは週末の一泊二日だろう。なら移動に時間をそれほどかけたくない。そして出来れば仲を深めたい!!厭らしい意味ではなく!いやそういう意味でも!!

「‥温泉とかっ‥」
変な事を考えながら発言したものだから、声が上擦った。あああ下心がバレる!って私はおっさんか!

‥だが混乱するなまえとは対照的に、煉獄はいつもの雰囲気で「温泉か!いいな!」‥と、賛同してくれた。


煉獄さんと温泉旅行‥!
‥今日に至るまで。なまえは就活中にも関わらず、資金稼ぎの為鬼のようにバイトを入れ、合間にエステ体験に行き、全身を磨き上げ‥とにかく、非常に忙しく過ごした。

先日はへべれけ状態で考える余地が無かったが‥思えば素っぴんを晒す事も、最近は全く無い。もう顔の造りはバレているが、肌などはぴかぴかにしなければならない。パックをして、美顔器で顔をほぐし‥!






「‥‥‥」
かさついていないだろうか、と、今さら自身の頬に触れていると‥車は目的地に着いたらしく、着物姿の仲居さんに誘導され、広大な敷地の一角に停まった。


「凄いお宿‥‥」
車を下り、思わず呟く。宿の手配は任せてくれ、と言われていた。行きつけがあるのかな?と任せていた自分がアレなのだが‥

‥テレビで特集されるような、豪華な老舗の旅館である。修学旅行でも老舗旅館に泊まったが‥素人目にもグレードが違う。重厚な造りと厳かな雰囲気に、真っ先に「バイト代では足りないぞこれ」等と考えた貧相な懐事情が悲しい。


(あわわ‥)
いわゆるフロントでのチェックインではなく、案内されたソファー席で熱いお茶とお茶菓子まで出され、目が飛び出している間に煉獄が何やらさらさらと記入して手続きが完了した。膝の上で握りしめた拳に汗をかきながら、もうこの時点で自分には分不相応だ、となまえは縮こまっていた。


「お部屋はこちらでございます」
どう見てもベテランの仲居さんに丁寧に案内され恐縮する。ドイツだったら‥高級ホテルでもこんな対応はされない。


仲居さんお部屋に入ってきちゃった!‥と素人丸出しの思考を繰り広げていると、彼女は優雅な手付きで急須を取り出し、ポットから熱湯を注ぐ。どうやらお茶を煎れてくれるらしい。その間に荷物を置き、上着をかけ‥よくよく部屋を見渡して、なまえは固まった。


新しい畳と真っ白な障子が美しい和室は、どう見ても二人で使うには広く‥襖で軽く仕切られた別室は床張りで、モダンなローベッド‥クイーン、いやキングサイズ‥?が鎮座している。
カーテンを開けるとガラス扉があり‥外に出ると、客室露天の檜風呂が湯気を上げていた。待って欲しい。とんでもないところに来てしまった。冷や汗が出る。

呆然としていて、仲居さんのお話が何も入ってこない。お辞儀をして出ていった彼女に口先だけありがとうございますなどと返して、ふらふらと露天側へ近づいた。

「‥‥‥」
何度見てもとんでもない。後ろから歩いてきた煉獄に、開口一番
「き、貴族のお部屋ですね‥?」
などと聞いてしまった。


「大袈裟だな!みょうじが修学旅行以来温泉に入っていないと言うから、いつでも入れるように客室露天にしたんだ!」

あああ有り難い‥しかしですね!
「あの、バイト沢山したんですけど、こここんな‥」

あぁ、言いにくい。オラ金が無ェなんて。

「‥‥‥」
きょとんとしていた煉獄が、ははは!‥と快活に笑う。

「何を震えているのかと思えば!君に請求する筈無いだろう!」

「え!?だ、だめです、私も‥」
冷や汗をダラダラと流しながら、顔をブンブンと振る。いくら学生だからといって、そんな図々しい真似はできない。


「そんな事より、一緒に入ろう!」
「ゴハッ‥ゲホゲホ‥!」

珈琲でも飲もう!位に爽やかに言われた台詞に噎せた。今のでお金の話が全て吹き飛んだ。何ですって?


「‥すみません、耳が‥今、」
「折角客室にしたんだ、一緒に入ろうと言った!」

言ってた!言っちゃってた!無理無理無理まだ全身を見せる勇気無いです!!!

いや、あの、その‥っ‥と、赤くなったり青くなったりするなまえを見て、煉獄が眉を下げる。
「‥駄目か?」
ああああああその顔はずるい可愛すぎるぐぅぅぅぅぅ

今度こそ真っ赤になって、言い返す言葉が出てこないなまえの耳元へ‥煉獄が唇を寄せる。

「君が好きにしていいと言った」
ぐらり、と、脳が揺らいだ。少年のように無邪気に誘っておいて、この色香はずるい。

‥確かに、確かにそう言ったし‥‥そういう意味でもあった!だけど!
まだ16:00!真っ昼間に裸を晒すほど!覚悟はできていない‥‥!





「‥‥‥」
髪を上で束ね、シャワーで体を洗う。立ち上る湯気を目指し、急いで檜風呂へ歩を進めると‥誰が見ているわけでもないのに、高速で飛び込ん‥あっつ!!!

"準備ができたら呼んでくれ!"
この温泉は、濁り湯。‥体は見ないでくれるようだ。


バシャッ
木製桶を手に取り、熱さでチクチクする体へ少しずつ湯をかける。再びそっと爪先を差し入れ、ゆっくりと全身を沈めた。じわりじわりと温かさが染みてきて、なまえは幸福感にふぅ‥と細い息を吐いた。


「煉獄さん、どうぞ!」
室内へ声をかけ、洗い場に背中を向ける。濁り湯といえど、胸元は透けるが‥肩まで浸かれば、見られていけないところは見えない。緊張感が凄まじい。

ガラリとガラス扉が開いて、煉獄が来たのが分かった。彼の体は‥見たことが無い。以前球技大会の日に、雨で透けたTシャツを見ただけで‥卒倒しそうになったのだ。不可能である。


「いい景色‥」
シャワーの音が耳に入らないように、眼前のパノラマへ意識をうつす。視界は開けていて、遠くに山が見え‥ここからは見えないが、川のせせらぎも聞こえる。ビルなど高層の建築物は一切なく、日本の美しい風景が広がっていた。

「勝景だな!」
真後ろから聞こえた煉獄の声に、肩が跳ねる。ざばざばと湯が溢れ、隣に煉獄が座ったのを背中が感知した。

「良い景色ですね‥!」
などと上擦った声で答え、頑なに背を向けるなまえに‥後ろから、笑いを含んだ声が聞こえる。

「なまえ」
ビクリ、と体が固まる。諭すような、穏やかな声だ。

「‥‥‥‥」
観念したなまえは、顔だけはしっかり景色に固定したまま‥煉獄の隣に座り直す。


「‥‥‥」
先程まで美しく澄んでいた青空は茜色に染まり、斜陽が山の半面を照らしていた。
コポコポと、絶え間なく注がれる源泉の心地よい水音が音の無い夕空のパノラマを彩り、何故か泣きたくなる程に心を揺さぶった。

「綺麗ですね」
今度は本心から‥言葉が出た。

こんな景色を見たのは初めてだ。それなのに、こんなにも懐かしく、暖かいのは何故だ。ずっと欧州で育ってきた、なまえの感性は向こうで育まれた筈なのに‥DNAに刻まれた日本人の記憶か。やはり心は日本にあるのかと。‥‥どこか遠くから、自分の感情を分析した。


「温泉もそうだが‥この景色を、君に見せたかった」

煉獄の穏やかな声がする。
大好きな声が‥じわりと心を温めた。

「今、凄く‥幸せです」
裸がどうのとか、煉獄の全く意図せぬ邪な感情で慌てふためいて、非常に恥ずかしい。

この幸福な時間は、なまえが今、最も求めていたものかも知れなかった。そしてそれは、恐らく煉獄も。

卒業してから慌ただしく過ごしてきた。
二人でゆっくりお湯に浸かって、美しい景色を見て‥時計を見ずに、誰にも邪魔されず。

外界のノイズも、自身の目まぐるしい思考も捨てて、心のままに過ごす時間が。


どちらからともなく、指を絡める。
それからは何も話さず、ただただ眼前の景色を眺めていた。
‥なまえがのぼせるまで。




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