#94

「なまえっ‥無理をさせた‥!」
ぐったりと横たわるなまえを、煉獄が優しく抱き締める。

腰が痛くて重だるい。体は熱く、疲れて眠い。それなのに。

「杏寿郎さん、私、幸せです‥!」

この多幸感たるや。


「やっと‥杏寿郎さんのものになれた」
言葉でも、態度でも。煉獄は愛を伝えてくれていたが。
‥どこか、お互い遠慮していた。どこかで、遠い生徒と教師の関係性が、2人の座標を違えていた気がした。

‥今、体を重ね、彼の熱を受け止めた今、初めて‥煉獄と、本当の恋人になれた気がしたのだ。

「‥おかしな事を言う。君はずっと、俺の大切な恋人だ。誰にも渡さない。」

そう聞こえた後、額に柔らかな熱を感じた。





騎馬戦が行われる教室の隅で、小テストを採点する俯いた顔。

廊下ですれ違った時の、爽やかな挨拶の声。

剣道大会の日、盗撮のカメラを握り潰した骨張った指。

インカムに手を当て、階段を駆け上がる焔。

‥暗闇に浮かぶ熱い濁り湯に体を沈めながら、なまえは目を閉じる。
思い出すのは、煉獄の事ばかり。

憧憬は、色褪せる事無く。



「大分冷えるな」
ざばりと湯が溢れ、背中に煉獄の声を受けると。‥心臓が早鐘の様に鳴り、同時に鈍痛を抱える下半身に、じわりと熱を感じた。


「なまえ、こっちにおいで」
「‥‥‥」
腕を引かれ、煉獄の腕の中に収まる。

まともに彼の顔が見られない。恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。


「‥腰は痛むか?」
「はい、少し‥でも、幸せです」

後ろから抱えられ、顔を見ずに済んで助かった。小さく笑った煉獄が、声をおとして呟く。

「ああいう事は‥コミュニケーションの1つだと思っていたが‥」
煉獄が耳に唇を寄せる。吐息が耳朶にかかり、なまえは思わず身をよじった。


「‥あまりに良かった」
「ぅぅっ‥」

羞恥により顔が沸騰しそうななまえは、逃げ出そうともぞもぞ動くが。‥全く抜け出せる気配は無い。


「よもや、体の相性まで良いとは!」
「ギャー!何言って‥!忘れて下さい!!」

「無理だ!忘れられない!」
「あああああ」


元気に何を仰ってるんですか!
くすくす笑う煉獄が、バシャバシャ水音を立てて抵抗するなまえを更に強く抱き締める。

「君は面白いな!」
「からかわないでください!」

こういう時。‥大人の返しはどういうものなのだろう。未熟な自分は、ただ子供のようにジタバタと足掻くだけだ。もっと、大人同士、洒落たやり取りをしたいのに。‥煉獄先生と、釣り合う女性になりたいのに。



ぽたり。
屋根から伝い落ちた雫が、ウッドデッキに音を立てる。心地よい静寂が訪れ、視線は濃藍に姿を消した遠い山々の影を追う。


「前から言おうと思っていたんだが‥」
落ち着いた、低い声に思わず彼を振り返る。‥赤い瞳と目が合い、顔から火が出て慌てて顔を戻した。


「一緒に暮らさないか」

ドキリ、と胸が跳ねる。
「ど、ど、ど、‥同棲ですか‥?」
‥そしてキモいドモり方をしてしまった。辛い。

そうだ、‥と、静かな声が鼓膜を揺する。

「‥君と離れている時間が惜しい。」


甘ーーーーーーーーい!
爆発寸前の早鐘を手で押さえながら、脳内で誰かが叫んだ。

は、はい‥と、蚊の泣くような声を絞り出す。
煉獄が、ふと笑う声がした。






翌日。

「気分が悪くなったら言ってくれ!」
行きと同様、ガタガタと揺れる山道を下る。

はい、と答えたなまえは、密かにため息をついた。


(折角お泊まりだったのに‥)

風呂から上がり、暫くすると部屋食が運ばれてきた。何かの懐石のような前菜から舟盛りの刺身、天婦羅‥その豪勢な食事があまりにおいしく、勧められるまま酒を飲み‥

(8時くらいに寝ちゃった‥幼稚園かな)

甘いピロートークや、憧れの腕枕など。煉獄と過ごす貴重な一晩であったのに。
重だるい下半身をひきずり、ズルズルとまるでゾンビのようにベッドに潜り込み、気付いたら朝だった。

起きたら、煉獄は既に朝風呂を済ませたらしく、茶を飲みながら新聞を読んでいた。なんだこの体たらく。辛い。


(はぁ‥情けない)
ガタガタガタガタ。
急なカーブを減速して下りながら、車は帰路を走る。通りすぎる真っ直ぐな針葉樹の海はどこまでも続くように見え、頭上の青空から降り注ぐ光が酷く暖かく感じた。


「今日、実家に寄ってもいいだろうか!」
「?」

大好きな声に、物思いに耽っていたなまえはハッと右隣を見る。

「‥‥」
真っ直ぐ前を見つめる煉獄の、薄い唇に目がいってしまい。昨日の艶かしい一時を思い出して、下腹部にきゅんと熱を感じた。


「土産を渡そうと連絡したら、君に会いたがって譲らないんだ!」
「私も行くのですか!?」

一瞬で血の気が引いたなまえは、思わず大きな声を出してしまった。お会いした事はあるが、今回は事情が違う。由緒正しき煉獄家に、長男の恋人として、挨拶するのだ‥‥あああまだ就活中の学生の身分、秒で嫌われるかもしれない。


「うぅ心の準備が‥!」
おっといけない、心の声が漏れてしまった。

「心配するな!取って食われやしない!」
命の心配はしてなかった!何!?何かしら怖い思いはするの!?


このお饅頭美味しいですね、是非千寿郎くんに渡して下さい〜などと、へらへら土産を購入した己を殴り飛ばしたい。

‥煉獄家の前に車が停車した頃には、なまえの手は汗でヌルヌルだった。汚っ





「いらっしゃい。さぁ、上がって下さい」

初めて入る煉獄家は、木造作りの立派な平屋である。その玄関に、美しく着物を着こなす瑠火が立っていた。以前、剣道大会の日にちらとお見かけしたが‥とんでもない美人だ。

「みょうじなまえです。失礼いたします‥!」
涼やかな表情と凛とした佇まいは、一見氷に触れたかの如く、ヒヤリとした印象を受ける。色々な意味で緊張し、ビシリと固まってしまったが‥にこりと微笑むその口元に杏寿郎の面影を見つけると、何故かとても暖かい気持ちになった。


「こちらへ」
長い長い廊下。
美しく前を歩く彼女を、足音を立てぬよう細心の注意を払って追う。


「さぁ、お入り下さい」
引戸をガラリと引かれ、庭から射し込む西日になまえは目を細めた。

「あっこんにち‥」
「ん?お前‥焼き芋娘か」
嫌な覚えられ方してた!!


案内された居間で待っていた槇寿郎は、驚いた顔をしている。

「杏寿郎、まさかお前‥」
「いえ、卒業してからです!」

眉を寄せた槇寿郎に、爽やかに煉獄が被せる。何かを疑われたらしい。それはそうだ、あの頃は完全に生徒だったから‥


なまえはふと、居間から庭を見る。焼き芋をした場所がよく見える。茶髪ピアスに追われ、ドイツに帰らなければならないかも知れないという恐怖の中‥楽しい友人達と美味しい焼き芋を食べた、一時の幸せ。
炎を見つめる煉獄先生の、美しい赤い瞳。

‥あの頃は、まさか煉獄の恋人になることができるなんて、思いもしなかった。ただただ好きだった。見つめるだけで、たまに話せるだけで‥‥‥


ガシャーーーーーン!!
「!!!」

思い出に浸るなまえは、入り口から聞こえた何かが割れる音にビクリと肩を揺らした。そこには‥

「え?‥みょうじ、先輩‥‥!!」
「千寿郎くん‥!」

目を真ん丸に見開いた煉獄弟が立っていた。身長が更に伸び、大分大人びたその姿になまえも驚く。

「わっお茶がっ‥!」
我に返った千寿郎は、慌ててタオルを取り床を拭き始めた。それを煉獄となまえが手伝うが、千寿郎は信じられないといった表情で手元がおぼついていない。


「兄上の恋人がいらっしゃると聞いてはいましたが‥まさかみょうじ先輩とは‥!」

嬉しいです、ようこそ煉獄家へ!‥などと満面の笑みで言われ‥まるで結婚の顔合わせのようだと笑ってしまった。


その幸せな家庭は、なまえの理想そのものであった。




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