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濃藍の夜空に、薄墨色の雲が舞う。
少し強まった風が吹き込む窓を閉め、白衣を掛けた。今日は怪我人が多く、緊急で招集されたが‥夜通し蝶屋敷に留まらなくても問題は無いだろう。

なまえは鞄を持つと、長い廊下を歩く。外に出てみると、月は欠けているのに‥存外明るかった。
窓越しに、昼間水柱様が訪れていた竈門くんのベッドフレームが見える。毎日想い続けた彼をいざ目の前にして‥あまりに緊張した。相当挙動不審だったのではないか‥と、無駄な後悔にため息が出る。




「みょうじ様ーーー!!」
「!」

夜道を歩いていると、後ろから隠に呼び止められた。
「うわぁぁ良かった間に合って!!」

涙目の彼は、肩で息をしながらなまえの隣に並ぶ。
「緊急なんですはぁはぁ、すぐ来てくださいはぁはぁ」
「走りながら喋るから息切れ!」←なまえ

聞けば、数十名で任務に当たっていたとある隊が、運悪く十二鬼月にあたってしまい、壊滅状態とのこと。普通の怪我ではなく、毒のような症状も見られる為、隠では対処できないらしい。本来胡蝶様が適任ではあるが、生憎別の任務に出てしまっている。

「柱も向かってくれるそうなんですが‥!」
(良かった!‥いや私先に到着したら命なくない?)

隠の方々は、様々な事情で闘いこそしないものの、鬼殺隊であるという以上、最終試験を突破している実力者だ。それに比べてこの私、疑う余地も無く一般人。
かぼちゃ切るのにも苦戦している一般人。
ノコノコ出てったらエサだよね?

‥とはいえ、怪我人や毒と聞いては見過ごせまい。
疲れた体に鞭打って走る。
「みょうじ様にご足労いただくのは、大変心苦しいです‥ゼェハァ、いやもっと速く走って!」
凄い丁寧なスパルタきちゃった!

仕事終わり、家に帰ってゆっくりお風呂にでも浸かろうと、そして想い人との邂逅の事などをゆっくりと考えようと思っていたのに!何この特殊イベントいらん!

息が切れ、脚がもつれてフラフラと民家の壁により掛かる。みょうじ様、大丈夫ですか!?速く!‥などと、仲間を救いたいがあまり、混乱して発言が鬼になっている隠がなまえの手をひいた、


「みょうじ」


生暖かい夏の終わりの夜の風。
優しく通り過ぎ、そして、
‥ふわり、と胸を締め付ける香りがした。

「‥えっ‥‥?」
後ろに誰かが舞い降りてきた、ような気がした。と同時に背中と膝裏に腕が差し込まれ、体が浮き上がる。

「‥‥‥!!」
視界に広がる亀甲柄にぎょっとした瞬間にはもう、先程まで並走していた隠は見えなくなっていた。


「‥‥‥っ」

景色が、飛ぶように過ぎていく。
まさか。‥‥まさか。

水柱に、‥あの冨岡義勇に抱えられているのだと脳が認識した瞬間、顔が紅潮し、速まる鼓動で呼吸すらもままならなくなった。
事は一刻を争うのだろう。柱の移動速度は一般人とは桁違いに速いのだ。烏からお館様の命を受け、道中見つけたなまえを拾った彼の行動は合理的である(ほぼ人さらいの要領だったけど)

だが、なまえはもう意識を保つのがやっとであった。ずっと恋い焦がれていた男に、急に耳元で名を呼ばれ、抱き上げられたのだ。顔も上げることができず、ただ彼の胸元の隊服にしがみついて耐えた。





烏に導かれ、木が鬱蒼と茂る暗い森の中へ。ふわりと地面に下ろされた途端、重苦しい空気に、ぞわりと肌が粟立つ。以前鬼に襲われた時の記憶が、恐怖が‥まるで昨日の事のようになまえの心を凍り付かせ、体がぶるぶると震えた。

もはや、恋だの愛だのにうつつを抜かしている場合ではなかった。生存本能が、これでもかと警鐘をかき鳴らす。
怖い、怖い、怖い‥‥!!!

唇を噛みしめる。
‥思い出せ、何故医師になったのか。人々を助けたいんじゃないのか。己の役割を果たせ!

手の震えを治めるように、胸の前で握りしめて耐える。よし、頑張れ、頑張れ私!!!いけー!


「行ってきます!水柱様もご武運を!」(ダッシュ)
「そっちじゃない」

恐怖心を暴力的に抑え込み、闇雲に走り出したなまえを冨岡が制する。
‥よく見ると、すぐそこに怪我人達と隠の方々めっちゃいた。穴があったら入りたい。今すぐに。


(落ち着いて、‥治療をしなきゃ)
隠が鬼除けの藤の花の香を焚いている。だから大丈夫、大丈夫、と、心の中で己を説き伏せた。屈んでカンテラを灯し、鞄の中の薬剤を確認する。

カサリと落ち葉が音を立てる。顔をあげると‥隣に冨岡が立っていた。暗闇の中、薄明かりに照らされた凛々しい横顔が残酷なまでに美しく‥何故か、泣きたくなるほど胸をかき乱された。

「俺は鬼を斬る‥夜明けまで、ここを動くな」
薄い唇がそう紡ぎ、なまえは熱に浮かされたように「はい」と頷いた。

遠くを見ていた男の瑠璃紺の瞳が、こちらへ向けられる。
「‥‥息災なようだな」
「え?」

なまえが驚いて瞬きする間に、冨岡は姿を消した。見間違えでなければ、今、少し、ほんの少し‥微笑んだ気がする。そしてそれは、つまりそれは‥彼が覚えていたということだ。‥かつて、自分が救った女の事を。


びゅうと強い風が吹き、木の葉が舞い上がる。ハッと我にかえったなまえは、再び鞄へと手を伸ばす。一見して、最たる被害は経皮毒だと分かっていた。急いで薬を調合する。


「もう大丈夫ですよ」
まずは止血、ただれた患部の土を軽く流水で流し、傷の処置、毒を受けた皮膚には外用薬を。次々と運び込まれる怪我人を、夜通し手当てし続ける。隊士達から、何故か天使だ、天女だと‥謎に拝まれた。‥が。土と血と薬品に塗れ、徹夜の影響で目の下には隈‥と、ビジュアル的には終わっていた。‥こんな顔、水柱様には見せられない。






夜が明けた。
烏の知らせで、柱が十二鬼月含む、鬼を全滅したと知った。そして彼が、そのまま別の任務に向かった事も。

「‥‥‥」
陽の光を見て、なまえは安堵の息をもらした。
隠の応援がきて、順次怪我人たちも運ばれていく。

少しは‥役に立てただろうか。
いろんな意味で精神、体力ともにフラフラのなまえは、隠の女の子におぶられ、家まで連れて行って貰えた。
‥それから夜中に目覚めるまで、殆ど記憶が無い。



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