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貴方を守りたい。

暗闇、震えて動かない脚、土と自身の血の匂い。崩れる異形の物怪、片身替りの羽織。
‥月光に浮かぶ、瑠璃紺の瞳。

あの日から、ずっと、
‥この心は、貴方のもの。


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長い廊下を、白衣のぼたんをとめながら急ぐ。

夏の終わり、蝉の声もまばらに。早朝の蝶屋敷は、美しい青空とは対象的に、張り詰めた空気に包まれていた。

「胡蝶様、なまえさんいらっしゃいました!」
ベッドの上は怪我人で溢れており、屋敷の主人への挨拶もそこそこに、なまえは手当にかかる。

「止血はすみました。今から‥」
「嘘でしょぉ‥美しすぎるよぉぉ‥女神が来ちゃった‥俺もうダメなの!?ねぇ!!!!!」

室内を見渡し、一番重症そうな少年の元へ来たはずなのだが‥元気にマシンガントークする金髪の少年に、なまえは苦笑した。





「痛ってぇ‥」
「もうだめかと思ったよな‥柱が来てくれなかったら俺達‥」
「皆まで言うな、考えたくもねー」

包帯でぐるぐるに巻かれた隊士達が、天井を見ながら話す様子が少しだけシュールだ。
カチャリとペンを置いたなまえは、"柱"という言葉だけで早まる鼓動に、我ながら情けないとため息をつく。
‥その方は‥どなただろうか。
ここに来ないということは、怪我はされていないのだろうが‥

「あんな物々しい雰囲気の中にさ、柱が来た瞬間甘い匂いがしたから驚いたよな」
あぁ、蜜璃ちゃんかな?
風柱様かも。おはぎ、お好きらしいし。

「でもホント強すぎるよな、岩柱」

岩柱様かい。
おやつタイムだったの?

予想と違う人物の登場に、なまえの鼓動は通常運転に帰っていった。





医師として、蝶屋敷に呼ばれたのは昨年のこと。
薬草を取りに入った山奥で鬼に襲われ、負傷し運び込まれたのが事の発端だ。
‥その時に助けてくれた人が、あまりに美しく。青白い月光に照らされた切れ長の瞳、すっと通った鼻筋、薄い唇。‥先程の少年ではないが、自分は幻でも見ているのではないかと本気で考えた。

‥その人が、鬼殺隊の最高位‥とても偉い人なのだと、後から知った。

(‥‥水柱さま)

命を救ってもらった相手を好きになるなど、何てベタなと‥自分でも思う。だがもう引き返せないのだ。
彼を想わない日はない。どうして忘れられようか。

少しでも彼の役に立ちたくて、一言お礼が言いたくて。胡蝶様のお誘いを受け、通いで蝶屋敷に勤めている。勿論、いざ働き始めてしまえば‥そんな慕情など気にする余裕も無いほど、忙しい日が多いのだが。

‥礼を言う機会は、全く訪れない。
そもそも、柱は忙しい。鬼狩りの仕事は夜間であるゆえ、昼間は鍛錬や休養等自身の屋敷で過ごすことが多く、町中でも殆ど見かけない。あと強いから怪我しない、蝶屋敷来ない。これエクストリームモードじゃない?

「はぁ‥」
診察室として与えられた自室の椅子へ座り、ため息をつく。

‥雲の上の人なのだ。万が一にも、恋仲になりたいなどという‥烏滸おこがましい考えは無い。
ただひとえに願うのだ、彼を守りたいと。
あわよくば、その憂いを帯びた美しい瑠璃紺に、一度でもいい‥自分をうつしてほしい。ほんの少しでもいい、閉ざされた彼の心にあたたかい光を‥自分の手で、灯すことができたなら。

‥そんな事は、夢のまた夢だが。

今日診た隊士達のカルテを書きながら、きよちゃんが淹れてくれた熱い珈琲を口に含む。今朝方元気に話していた少年‥我妻くんか‥、二回目の薬はきちんと飲んだだろうか?一応、確認しに行こう。




「なまえ様に診てもらえるなんてさ、俺達ラッキーだよな‥」
「俺なんかさ、微笑んでもらったぜ‥気絶するかと思った」
「我妻は実際気絶してた」

ベッドの上では、今朝なまえに手当してもらった隊士達が、にこやかに談笑していた。

ふわりと、なまぬるい風がカーテンを揺らす。

「‥‥?」
弟弟子のベッド横から、冨岡義勇がチラリと視線を向けた。彼を尊敬する竈門炭治郎は、その僅かな表情を見逃さない。

「みょうじなまえさんという、新しいお医者様が来てくださったんですよ。たまにしかお会いできないんですが‥天女のように美しい方で、とてもお優しいんです」

今まで蝶屋敷は、家主である胡蝶しのぶがほぼ一人で怪我人たちを請け負ってきた。滅多に蝶屋敷へ顔を出さない柱達だけが、あまりなまえを認識していない。
(遊びに来る甘露寺蜜璃は別である。彼女は持ち前の人懐こさと明るさで、既になまえとは親しい友人にまでなっていた)

ガラリと扉が開かれ、再び風が舞い込む。お盆に薬と水を乗せたなまえは‥窓際の椅子に座る、鮮やかな片身替りの背を捉えた。

ドクンと鼓動がして、なまえは胸をおさえた。

あ、あの方ですよーと、竈門くんの穏やかな声が聞こえる。彼の台詞でこちらへ男が振り返るのを認識したが、冷や汗と動悸でそちらを見ることが叶わなかった。我ながらどうしようもない臆病者だ。恋焦がれた男が目と鼻の先にいるのに、緊張して震え、聞こえないふりをして通り過ぎる事しかできない。
左頬に冨岡の視線を感じた。あぁ、私に少しでも勇気があれば、あるいは自信があれば。

"あっ水柱さま!いつかはどうもありがとうこざいました!"などと、お礼を言うことができたのに。

眠る我妻くんの横に盆を置き、足早にその場を立ち去る。窓から見えた青空が、嫌に蒼かった。


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