※エレベーターに閉じ込められた話とつながってます
※本誌302話までのネタバレがあります
凪誠士郎が帰ってきたらしい、という騒ぎを聞きつけて初めて、わたしは彼が脱落したことを知った。
廊下で久しぶりに見かけた凪くんは一躍時の人となり、一線引かれる存在≠ゥら一目置かれる存在≠ノなっていた。
進級して、もうクラスメイトでもなんでもなかったこともあり、数ヶ月前の──エレベーターに閉じ込められて二人で肩を寄せ合った──出来事がまるで夢のように感じられた。
それで、なにも声をかけずにすれ違った。じつは、あれから結局駅前のパンケーキにも誘えずじまいで、だから凪くんはわたしのことなんて覚えていないだろうと思ったのだ。
それから数日経ち、日常を取り戻しつつある白宝高校の帰り道。わたしは新しく買った問題集に目を落としながら歩いていた。
今日はしっかり勉強するぞと耳にイヤフォンを押し込んで、ぱらぱらページをめくりながらリスニングを流す。
袖を二回折ったところにぶらさげたビニール袋のなかには、テイクアウトしたパンケーキが揺れている。勉強デーのご褒美はマストだ。
西日がまぶしい初夏の空。目を細めて顔をあげると、ふと、生クリームみたいな白い頭が視界に飛び込んできた。
「あ」
と声を引っ込めてももう遅い。
ころん、と落ちたイヤフォンから
『Say it ain’t so,Joe!』という台詞が聴こえた。気がした。
なんの因縁か、逆方向から歩いてきたらしい凪くんと学生寮の目の前でばったり鉢合わせてしまった。
目が合って、それですぐに、泣いた
びっくりして固まるわたしからふいと顔を逸らした凪くんが、寮のエントランスへ向かって歩きだす。
わたしはしばらく立ち尽くしてその後ろ姿を見つめていたけれど、いまさら時間をずらすのもあからさますぎるので、結局あとに続くしかなかった。
曖昧な距離感で凪くんの後ろに立ち、エレベーターの到着を待つ。やがてチン、と音が鳴って、当然のように乗り込んだ背中にデジャヴを感じながら、わたしはやはりためらっていた。
それに、もしかしたらわたしよりも凪くんの方が気まずいと思っているかもしれない。今は一人になりたいのではなかろうか、と──
「乗らないの?」
ころん、と一粒、雹でも降ってきたかのような声。凪くんはどこ吹く風といった顔で、平然とこちらを見つめていた。
「の、乗る……!」
ほとんど反射的に乗り込み、こっそり顔色をうかがう。泣き疲れてやつれた横顔。やっぱり見間違いじゃなかった。
操作パネルの前に立つ凪くんは相変わらず行き先を尋ねてくる気配もなく、なにもないところをただぼんやりと見つめている。
「大丈夫?」と声をかけるか迷って、わたしは結局なにも言わずに自分の階を押した。
いま凪くんがどんな気持ちでいるのか、わたしにはわからない。
U-20日本代表との試合はクラスの友達と一緒に観た。けれど、配信はそれきり見ていない。
そもそもあの手のサバイバル番組が苦手で、残酷なバトルロイヤル形式でふるいにかけられていく人たちの涙を見ると胸が痛む。知り合いの──ましてや意中の人が──挑戦している姿なんてとても見ていられない。
脱落したと知ったとき、凪くんのことだから案外けろっとしているのかも、とも思った。実際、学校では平然としていたし、負けたら「あー死んだ」と言って、のらりくらりと違うゲームを始めるんだろうなって。
けれど、それはとんだ勘違いだった。
すぐ隣にある気配を感じながら、遠い世界に思いを馳せて、わたしは静かにまぶたを閉じた。そして、ゆるやかに上昇を始めたエレベーターの浮遊感に身を委ねる。
すると遠くのほうから、あの夏の日の、うんざりした気持ちがよみがえってくる。雨にずぶ濡れで、停電したエレベーターに閉じ込められて。
今、もしもエレベーターが止まったらって考える。そうはならないでと思いながら、そうなってしまえとも思っている。わたしはずっと、誰に言い訳をしているのだろう。
──ふいに、なつかしい香りが鼻をくすぐった。とくんと胸が鳴り、まぶたを開く。これは凪くんの香り。震えるわたしに貸してくれたジャージの、柔軟剤の香り。うっかり泣いてしまったわたしに見せてくれた
途端に、かあっと顔が熱くなり、もらい泣きの涙が滲む。どうしてわたしは同じように返してあげられないんだろう。
配信を見なかった理由はそれだけじゃなかった。凪くんが遠い存在になってしまったことに身勝手な寂しさを覚えた。もうこれ以上踏み込んじゃだめだって諦めたかった。
わたしなんかが気安く声をかけたらとか、きっと覚えていないだろうから、なんて。相手を思いやるふりで、わたしがわたしを守っているだけじゃないか。
遠い世界? ──ちがう。凪くんはいま、わたしの隣に、ここにいるのに!
「な、凪くん……!」
裏返った声がエレベーターのなかに響く。ゆっくり振り返った凪くんの物憂い眼差しに緊張が走る。けれど、こんなよく晴れた日に泣いてしまったら、きっと本当にひとりぼっちになってしまうから。
「……パンケーキ、食べない?」
苗字さんって、こんなに空気読めない人だったっけ。俺は彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、そんなことを考えていた。
エレベーターのボタンを取り消して、俺たちは寮の近くにある公園に向かった。ついて行ったのはなんとなく。後悔するかもしれないと思ったら勝手に足が動いていた。
「うわあ、おいしそう……」
ベンチに座ってクラフト紙製のテイクアウトボックスを開けると、ふんわりとあまい香りが広がった。そこには小ぶりのスフレパンケーキが三つ、ころんと転がるように並んでいて、ちょっと緊張気味だった苗字さんの表情が一気にほころんだ。
そういえばエレベーターに閉じ込められたときもパンケーキの写真を見ていたっけ。なつかしい記憶。ちょうどその頃に戻れたらなと、断ち切れない思いがまた込み上げてくる。
「さあ、食べようっ」
わかりやすくテンションのあがった苗字さんからしぶしぶフォークを受け取り、とりあえずパンケーキと向き合ってみる。ふるいにかけられた粉砂糖を見下ろすと、なんだか微妙な気持ちになった。
まだ頭がぼうっとして、まぶたは重くじんわりと熱をもっている。泣いたこと、苗字さんにはバレているんだろう。慰めようとしてくれていることは、さすがにわかる。
「あ、でも三つしかないから……最後のひとつは半分こね」
半分こ。久しぶりに聞いた平和な言葉に、ずるっと肩がすべりそうになる。半分こ。そっか、半分こか。
よくわからないまま頷いて、パンケーキを口に運ぶ。しゅわっと口のなかで溶けて、バターの香りが舌にまとわりつく。追加で注文したのだという生クリームを促されるままに乗せて、もう一度口へ運ぶ。
「……あまい」
ありのままの感想をぼそっとつぶやくと、でも苗字さんはにっこり笑った。
「甘くていいの。今日はそういう日だから」
公園の真ん中で、小学生がサッカーボールを追いかけて遊んでいる。
咀嚼する前に溶けてしまうパンケーキの淡さや、穏やかな世界に守られた苗字さんの指先を見ていると、
けれど、悲しみはずっと深く、パンケーキなんかじゃとても癒えそうにない。
「ん〜、おいしい〜っ」
苗字さんが頬に手をあてて幸せそうにとろけている。
緑に包まれた公園に吹き抜けるさわやかな風や、子どもたちの笑い声。バターの香り。ここは驚くほどゆっくり時間が流れていて、なんだか気が遠くなる。
明日のことはよくわからない。だけど、苗字さんはずっとここにいて、笑っていてほしいと思う。どうかなにも知らないままでいて。時々こうやって俺を振り回して。めまいがするほど、世界はあまりにも広すぎる。
使い捨ての薄っぺらいフォークを伸ばす。それは無意識に、半分このパンケーキに刺さった。
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