#1


「──クラゲちゃん、おーい! 聞いてる?」

 ゆらゆら揺らめく水の中にいた。きらきら輝く水面から店長の声がして、私は現実に浮上する。

「え?」
「もう、だから! ネット指名入ったよ!」

 あ、はい。とスマホの電源を切る。立ち上がると膝掛けが落ちた。ぼんやりしすぎだ。拾いながら自分に呆れる。

「180分、頑張って」

 ──え? 目の前が真っ暗になった。





 ラブホテルのエレベーターのなかで時計を確認する。
 新規の客で180分。ないことはないけれど、しかし稀だ。いったいどんな人だろう。なにをするんだろう。
 胸騒ぎを押し殺すように目を瞑って、私はすぐに海のなかへダイブする。ふわふわ泳ぐ、クラゲになる。クラゲはいいな。なにも考えなくたって、いいのだから。

 指定された部屋のチャイムを鳴らす。いつもの如く、人の良い笑みを貼り付けて。ややあって、ガチャリと扉が開いた。

「あ、初めまして。ご指名ありがとうござい、ま…………」

 ぬっと部屋から顔を覗かせる、まずその位置が予想よりも遥か上にあって、私は首をもたげた。
 そして目が合った瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が体中を駆け抜けた。

「どーも」

 気怠い大きな垂れ目。灰色の瞳。やや癖のある白い髪。そのどれもすべてに見覚えがあった。

 ──凪くん……? いや、間違えるはずもない。この男は今や世界を揺るがすスポーツ選手、まさに凪誠士郎だ。
 しかし、それは私にとって些末なことだった。有名人云々よりも前に、彼は私の同級生なのだ。今この瞬間、一番鉢合わせてはならない人物だった。
 顔見知りとの遭遇──業界人のドラマのような体験談を笑い話として聞き流していたけれど、まさか自分が当事者になってしまうなんて!
 ──どうしよう。正直今すぐ逃げ出したい。しかし仕事という手前、店の顔に泥を塗るわけにはいかない。なるべく顔を見られないように俯いて、お腹が痛いとかなんとか適当に言い訳をしてトイレに籠ろう。すぐ事務所に電話して、事情を説明しよう。そうやって無事に、速やかに、ここから退散させていただこう。
 ──などと。頭はフル回転しているけれど、身体は石のように固まって指先のひとつも動かなかった。
 メドゥーサ。私はメドゥーサと目を合わせてしまったのか。いや違う、メドゥーサは女だ。彼は違う。大丈夫、私は動ける。動け、動け──!

「どうしたの? 入りなよ」
「あ、はい。失礼します……」

 あっさりと入室。心臓がバクバクと脈打って、喉の方まで響いている。気付かれないようにポケットの上からそっとスマホの存在を確認していると、「ねぇ」と声をかけられる。

「ひっ……! は、はい……? なんでしょう」
「なんでずっと下向いてるの?」
「あ、あの……ちょっと急にお腹が……」
 あいててて、とわざとらしくお腹を抱える。

「大丈夫? トイレあっち」

 彼はそれだけ言って、まるで興味無さそうにベッドの方へ向かっていった。

「三時間経ったら起こして。よろしく」
「え!?」

 ぼふっと音を立てて、大きな身体がキングサイズのベッドに沈んだ。腹痛の演技も忘れて素っ頓狂な声をあげても、もう返事はない。

 ──もしかして、気付いてない?
 ちらりと彼を見る。呑気にすやすやと眠る横顔は、高校の頃からちっとも変わっていなかった。腕を枕にして机に突っ伏すブレザー姿の凪くんが目の前の彼にぴたりと重なった。

 そういえば、凪くんとは同じクラスだったけれど、そもそも話したことなんてあっただろうか。良くも悪くも目立っていた凪くんに比べて、私は平凡な生徒だった。さらに彼はずっと寝ていたし、おまけに私は高校を中退している。どれもこれももう、数年前の出来事だ。ひょっとすると、凪くんの記憶に私という人間は、本当に存在しないのかもしれない。
 一縷の望みは確かな希望へ。私は少し落ち着きを取り戻していた。

 180分。きっと彼なら眠り続けるだろう。凪くんが私を覚えていないとして、180分。なにもしなくていい、180分……。
 私は頭の中で羊を数えるのと同じように、一万円札の数を数えていた。いち、にい、さん…。ごくりと生唾を飲み込む。この獲物を逃すのはあまりに惜しい。腹を括る。

「……もしもしクラゲです。今、入りました」

 いつも通り事務所に一報して、私は静かにタイマーのボタンを押した。



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