#2


「いやぁ、正直ドキドキしてたんだよね。今の時代、加工でどうにでもなっちゃうでしょ。詐欺だよね。でも君は当たり。写真より何倍もかわいい。こりゃ逆詐欺だよ!」

 がははと笑う下品な声が、桃色のフリルガラスの中で反響している。かわいいランプシェード。クラゲみたい。
 小さい頃水族館で見たクラゲは、桃色のライトに照らされて、揺らめいて、とても幻想的だった。視界いっぱいにたくさんのクラゲが漂っていて、まるでその空間だけ切り取られたかのようにゆっくりと時間が流れていた。私もクラゲになって一緒に泳いでいるかのように錯覚する、大きなパノラマの水槽だった。

「俺、実はこう見えても歯医者さんなの。見えないでしょ? 親父も歯科医で開業してて、今はそこに勤めてるんだけど。まあ結構、お金は持ってる方かな。何が言いたいかっていうと、君のこと気に入ったし、また次も指名しようかなって話。どう? 汚いおっさんの相手するより、やっぱり俺くらい若いと嬉しいっしょ?」

 キュイーン、ゴウゴウ。
 超音波とバキュームの音が、どこからか、耳鳴りのように聞こえてきた。






 仕事を終えて車に乗り込むと、ドライバーがちらりとこちらを一瞥してエンジンをかけた。

「なんか、ゴリラって感じっすね」
「え?」
「さっきの人。すげーガタイ」

 ドライバーは、私が今しがた接客を終えた人物の背中を顎でしゃくった。チェックアウトして一緒に外へ出てきたところを見ていたのだろう。

「あー…でも歯科医って言ってました」
「医者ねぇ。そういや俺、ちょい前に親知らず抜いたんすけど、あれ凄かったな。こう、メキメキゴリゴリーって」
「ああ、テコの原理で」
「もうあいつゴリっすね」

 あだ名はゴリ。たぶんあいつまた来ますよ、とドライバーが脅かす。まるで何事もなかったかのように気の抜けた会話。私は適当に笑って、ゴリさんの背中をぼうっと見送った。明日には彼も、何事もなかったかのような顔で患者の歯と向き合うのだろうか。

「そういやクラゲさん、次20時から◯◯ホテルみたいなんで、車内待機っす。とりあえず移動しますねー」
「あれ、予約入ってましたっけ?」
「あー…ちょい前に店長から連絡きて。入ったみたいっすねー」

 えーっと、と覚束ない手つきで操作するスマホを覗き込む。

「凪さんって方で、本指名で180分っすね」

 ──は?
 ぽかんと口を開ける。ドライバーはもう一度全く同じ内容を繰り返した。

 なぜ、なんで、どうして。というのも前回、二週間前のこと。あれから結局彼は180分間眠り続けていた。私はただ、近くのソファに腰かけてスマホをいじっていただけだった。それなのに、彼は何の躊躇いもなく、あの涼しい顔でお代はしっかり払ってくれたのである。その異様さに戸惑いつつ、こちらも変に会話をしたくなかったのでそのまま退室したのだけれど。しかしまあ、前回はたまたま疲れて寝過ごしてしまっただけかもしれない。今回はそのリベンジということなのだろうか。だとしたら私はいよいよ彼と、同級生と、本当に──。何とも居心地の悪い背徳感に唇を噛む。それにやはり、彼は私のことを覚えていないようだった。こちらは気付いているのに、知らん顔して接客するのはかなり後ろめたさがある。しかしそれよりも、何よりも、お金は大事なのだった。なんとも無慈悲な人生だ。





「どーも」

 またあの長身が私を見下ろしている。いったい、この気怠げな瞳は私に何を求めているのだろう。引き攣った笑みを無理矢理に見せつけて、「また呼んでくださったんですね」と言い切った私は偉い。今回はしっかり前金を頂戴した。手続きが済んで、振り返る。何を考えているのかわからない顔がそこに立っている。

「あの、じゃあシャワーを…」
「シャワー?」
「はい…い、一緒に入りますか?」
「うぇ、なんで」

 なんで? こっちが聞きたい!
 わなわなと震えていると、大男は大欠伸をしてまたベッドの方へ向かっていった。

「まあいいや。とりあえず、こっち来てよ」
「…はい」
「ここ座って」
「…はい」

 大人しくベッドの上に座ると、突然抱きしめられた。それは抱擁というよりも、凭れ掛かるような感じではあったけれど、シャンプーの香りとどこか懐かしい彼の匂いが鼻を掠めて、不覚にもどきりと心臓が跳ねた。

「じゃあ、3時間経ったら起こして」

 ──はい? 思わず聞き返した声は、身体と共にベッドに沈んで彼の耳には届かなかったようだ。デジャヴ。私はぽかんとホテルの天井を見つめた。彼に抱きしめられたまま。ええと、これどういう状況?

 ここから180分間、私はただの抱き枕になっていた。








15分前のタイマーが鳴り、ハッと目を覚ました。ついうとうとしていたようだ。

「凪く…、凪さん。そろそろお時間が」

 巨体を揺さぶる。んー、と掠れた声を漏らして、彼はようやくもぞもぞと動き出した。

「うにゃ…あと5分…」
「…どんだけ寝るんですか」

 うーん、と疎ましそうに瞼を擦る姿を見て、私はますます訳がわからなくなった。解せぬ。彼のその何もかもが理解できない。そうしてこの気の抜けるような空気に当てられて、うっかり口走ってしまうのだった。

「あの、何もしなくていいんですか…?」
「んぇー…?」
「寝てるだけじゃないですか、前回も…」

 もちろん、正直ラッキーだ。こんな客は滅多にいない。指名しておいて、180分間何もせずに、金だけはしっかり置いていく。ありがたい。神様だ。闇のように途方もない深海で、星が降り注ぐように輝くウリクラゲのような美しい光。しかしそれは同時に不気味な妖光のようでもあった。綺麗だと近付いたら、私を丸呑みにするつもりなのではないだろうか。不信感は拭えない。今までの人生、散々そうだったのだ。

「"あなただけの抱き枕になります"」
「え?」
「そう書いてあったけど、違うの?」

 ほら、と事も無げな顔で弊社ホームページの画面を突きつけてくる。やめてくれ。そんなもの二度と見せてくれるな。だいたいそんな趣味の悪いキャッチコピーなんて、店側が勝手に切ったり貼ったりしているに決まってるだろう。
 ──などと。頭では糞味噌に言ってやるものの、客の前で晒け出すわけにもいかないのだった。

「あはは、そうでしたね…」
「お陰様でございました」

 凪くんは首を竦めて戯けている。それから何か考え込むように顎に手を当てて、「あー、なんだっけ…」とぼそぼそ呟いている。

「寝過ぎて頭回んない…なんかめんどくさくなっちゃった…まあ、いいや」

 何を言うつもりだったのだろう。内心びくびくしつつ、そそくさと退散する用意を済ませる。フロントに電話をして鍵まで開けてもらった。既にミッションクリアだ。

「今日はありがとうございました。では、またいつか…」
「あ、うん」


 無事に終えたことにホッとして足取りが軽くなる。扉を開けて、軽く会釈をする。部屋を出て、また会釈。今日はもう予約もないし、閑散期だからきっとこれで終わり。あー疲れた。帰ってカップラーメン食べたいな。

「またね、苗字さん」
「──え?」

 バタンと重たい扉が閉まり、オートロックの施錠音が廊下に響き渡った。ちょっと待て。苗字は私の本名だ。ちょっと、待ってくれ。

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