#11
『今度の休み、水族館行こう』
スマホに表示された唐突なメッセージ。連絡先を交換してから初めてのメッセージだった。
彼の名前が表示されるだけで、心がぽかぽか温かくなる。返信しようと指先で操作していると、追伸がきた。
『事務所通した方がいい?』
変な宇宙人みたいなスタンプも一緒についてきて笑ってしまった。
もう私達に、そんな繋がり必要ないね。
◇
「え、ちゃんと時間通りに来た……」
目を丸くさせて見上げると、定刻通りに現れた彼はムッと口を尖らせた。
「当たり前でしょ。苗字さんが誰かに連れ去られたら嫌だし、先に帰られたら俺泣いて転げ回るよ?」
「それはちょっと見てみたいかも……」
つい本音を漏らすと、凪くんは仕返しをするように被っていたキャップ帽を私の頭に深く被せてきた。
「わっ、前見えない……!」
「それ被ってて」
「えぇ……」
否応なしに歩き出した背中を慌てて追いかける。
帽子は今日の服装に全く似合っていないのだけれど、仕方ない。大人しくそれを被り直していると、不意に振り返った彼が手を差し伸べてくる。
「早く行こ」
私を見つめる優しい瞳。まさか凪くんとこんな関係になるだなんて、想像もしていなかったな。私は微笑んで、その大きな手を取った。
「また泣かない? 大丈夫?」
クラゲゾーンへ続く通路を歩いていると、凪くんが心配そうに顔を覗き込んできたので、「大丈夫」と宥めるように笑った。
大きな手をぎゅっと握ると、確かな温もりを感じる。私はもう、一人じゃない。
うす暗いトンネルを抜けると、何ひとつ変わらぬ姿で泳ぐクラゲ達がいた。桃色の照明に照らされて、ふわふわぼんやり浮かんでいる。
綺麗で、切なくて、少しだけ胸が痛い。可哀想なクラゲ。この子達は、私が殺してきた、私だ。ラブホテルのチャイムを鳴らすたびに、何度も何度も、何度も目を閉じて、海にダイブした、私自身が無数に浮かんでいる。
けれど、もう終わりにしよう。私はもう、クラゲになんてならない。私は、私でいたいのだ。
「辞めないんでしょ、仕事」
凪くんがぽつりと呟いた言葉が、私の足元に落ちてきた。俯かないように、「うん」と真っ直ぐ水槽を見つめる。
「やっぱり、そう言うと思った」
「……ごめん」
凪くんには仕事を辞めてほしいと言われた。お金はなんとかなる、と。頷けなかった。一番言わせたくなかった言葉だったから。
それに、単純なお金の問題だけじゃない。私は自分の力で、この背に背負う十字架を拭い去りたい。やっぱり、私はわがままなのだろうか。
「私、本当は諦めてないの」
「うん?」
「歯科医になる夢」
初めて向き合った、自分の心。海の底に沈んでいた本当の私が蘇る。
「大学に行って、資格取って……ってその前にまず高卒認定か」と指折り数えて笑う私を、凪くんは笑わずに見つめてくれる。
「でも、凪くんのことも諦めたくない。お金が貯まるまで、この仕事辞めるまで、待っててくれる……?」
本当にわがままで、どうしようもないお願い。
私は、私になった途端欲張りになってしまったみたいだ。
「当たり前でしょ。待ってる。俺はずっと、苗字さんの隣にいる」
夜空みたいな瞳が、水の揺らめきと共に輝いている。吸い込まれるように見つめ合っていると、不意に背後から囁き声がする。
「……あれ、……じゃない? 本物……?」
振り返ると、二人組の女性がちらちらとこちらを見ていた。
「凪くん、やっぱり帽子返すよ」
「なんで?」
「だって私なんかと一緒にいたら……もし写真撮られて、変な記事とか書かれたりしたら……」
おずおずと帽子を脱ぐと、奪われて、再び私の頭に帰ってきた。
「うん。だから被ってて」
「いや、私が変装する意味……!」
「苗字さんを傷付けたくないんだ、俺」
凪くんの言ってることはよくわからなかった。私が帽子を被る意味を必死にぐるぐる考える。頭は良いはずなんだけどな、私。
「お父さん、見てー! クラゲがいるー!」
少女の弾んだ声が思考を遮る。
私の隣に駆けてきた少女は、クラゲの水槽に両手を貼りつけて目を輝かせていた。
「こら、走らない」父親が慌てて後を追いかける。
「お父さん、クラゲってなにを考えてるのかな?」
少女の言葉に息を呑む。いつかの面影が重なった。
「えー? うーん……なんだろうね。今日は何食べようかなぁ、とか?」
「えー! なにそれ、変なのー」
凪くんを見る。凪くんも私を見ている。私達は真ん丸の目を合わせて、一緒に笑った。
「邪魔になっちゃうから、行こっか」
「うん。ねぇ凪くん、今日何食べよっか」
「うぇ……なんでもいい。考えるのめんどくさい」
「じゃあ私、お刺身食べたい。まぐろとサーモンと、いかそうめん」
私達は歩き出した。クラゲと少女に背を向けて。
今日はタイマーが鳴らない。好きな人と手を繋いでいる。この手の温もりを、ずっとずっと感じていたい。私はやっぱり、クラゲになんてなりたくないのだ。
end
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