#11


『今度の休み 水族館行こう』

 スマホに表示された唐突なメッセージ。連絡先を交換してから初めてのメッセージだった。彼の名前が表示されるだけで、心がぽかぽか温かくなる。返信しようと指先で操作していると、メッセージが追加された。

『事務所 通した方がいい?』

 変な宇宙人みたいなスタンプも一緒についてきて笑ってしまった。もう私達に、そんな繋がり必要ないね。







「え、ちゃんと時間通りに来た…」

 目を丸くさせて見上げると、定刻通りに現れた彼はムッと口を尖らせた。

「当たり前でしょ。苗字さんが誰かに連れ去られたら嫌だし、先に帰られたら俺泣いて転げ回るよ?」
「それはちょっと見てみたいかも…」

 つい本音を漏らすと凪くんは仕返しをするように、被っていたキャップ帽を私の頭に深く被せてきた。

「わっ、前見えない…!」
「それ被ってて」
「えぇ…」

 否応なしに歩き出した背中を慌てて追いかける。今日の服装に全く似合っていないのだけれど、仕方ない。大人しくそれを被り直していると、不意に振り返った彼が手を差し伸べてくる。

「早く行こ」

 私を見つめる優しい瞳。まさか凪くんとこんな関係になるだなんて、想像もしていなかったな。私は微笑んで、その大きな手を取った。






「また泣かない? 大丈夫?」

 クラゲゾーンへ続く通路を歩いていると、凪くんが心配そうに顔を覗き込んできたので、「大丈夫」と宥めるように笑った。大きな手をぎゅっと握ると、確かな温もりを感じる。私はもう、一人じゃない。

 薄暗いトンネルを抜けると、以前と何一つ変わらぬ姿で泳ぐクラゲ達がいた。桃色の照明に照らされて、ふわふわぼんやり浮かんでいる。綺麗で、切なくて、少しだけ胸が痛い。可哀想なクラゲ。この子達は、私が殺してきた、私だ。ラブホテルのチャイムを鳴らす度に、何度も何度も、何度も目を閉じて、海にダイブした、私自身が無数に浮かんでいる。けれど、もう終わりにしよう。私はもう、クラゲになんてならない。私は、私でいたいのだ。

「辞めないんでしょ、仕事」
 凪くんがぽつりと呟いた言葉が、私の足元に落ちてきた。俯かないように、「うん」と真っ直ぐ水槽を見つめる。

「やっぱり、そう言うと思った」
「…ごめん」

 凪くんには仕事を辞めてほしいと言われた。お金はなんとかなる、と。頷けなかった。一番言わせたくなかった言葉だったから。それに、単純なお金の問題だけじゃない。私は自分の力で、この背に背負う十字架を拭い去りたい。やっぱり、私は我儘なのだろうか。

「私、本当は諦めてないの」
「うん?」
「歯科医になる夢」

 初めて向き合った、自分の心。海の底に沈んでいた本当の私が蘇る。「大学に行って、資格取って…ってその前にまず高卒認定か」と指折り数えて笑う私を、凪くんは笑わずに見つめてくれる。

「でも、凪くんのことも諦めたくない。お金が貯まるまで…この仕事辞めるまで、待っててくれる…?」

 本当に我儘で、どうしようもないお願い。私は、私になった途端欲張りになってしまったみたいだ。

「当たり前でしょ。待ってる。俺はずっと、苗字さんの隣にいる」

 夜空みたいな瞳が、水の揺らめきと共に輝いている。吸い込まれるように見つめ合っていると、不意に背後から囁き声がする。

「…あれ、……じゃない? …本物…?」

 振り返ると、二人組の女性がちらちらとこちらを見ていた。 

「…凪くん、やっぱり帽子返すよ」
「なんで?」
「だって私なんかと一緒にいたら…もし写真撮られて、変な記事とか書かれたりしたら…」

 おずおずと帽子を脱ぐと、奪われて、再び私の頭に帰ってきた。

「うん。だから被ってて」
「いや、私が変装する意味…!」
「苗字さんを傷付けたくないんだ、俺」

 凪くんの言ってることはよくわからなかった。私が帽子を被る意味を必死にぐるぐると考える。頭は良いはずなんだけどな、私。

「お父さん、見てー! クラゲがいるー!」

 少女の弾んだ声が思考を遮る。私の隣に駆けてきた少女は、クラゲの水槽に両手を貼りつけて目を輝かせていた。「こら、走らない」父親が慌てて後を追いかける。

「お父さん、クラゲって何を考えてるのかな?」

 少女の言葉に息を呑む。いつかの面影が重なった。

「えー? うーん…なんだろうね。今日は何食べようかなぁ、とか?」
「えー! なにそれ、変なのー」

 凪くんを見る。凪くんも私を見ている。私達は真ん丸の目を合わせて、一緒に笑った。

「邪魔になっちゃうから、行こっか」
「うん。ねぇ凪くん、今日何食べよっか」
「うぇ…なんでもいい。考えるのめんどくさい」
「じゃあ私、お刺身食べたい。まぐろとサーモンと、いかそうめん」

 私達は歩き出した。クラゲと少女に背を向けて。

 今日はタイマーが鳴らない。好きな人と手を繋いでいる。この手の温もりを、ずっとずっと感じていたい。私はやっぱり、クラゲになんてなりたくないのだ。


end


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