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「なあ、凪だったらどの子にする?」
酔っぱらいに勢いよく肩を組まれて、「ゔぇ」と声が潰れる。と同時にゲームオーバーになり、しかたなく顔をあげると、目の前には肌色世界が広がっていた。
「やっぱりおっぱいだよなぁ!」
「……んぇ?」
「なんだよ、聞いてなかったのか?」
突きつけたスマホを引っ込めて、やれやれと肩をすくめるのは同じクラブチームの日本人。俺よりひと回り年上で、今季で引退を決めている。
彼の引退パーティーをしようと妙に意気込んだ面々が、シーズンオフで帰国する俺たちの後を追うように日本までやってきたのはつい昨日のこと。
俺には関係ないしと思っていたら、強制的に会員制の居酒屋へ連行されて、つまり見事に巻き込まれてしまった。
飲みニケーションも大事だぞ、と玲王は言う。情報収集や意見交換をして知見を広げるのは有意義なことだって、確かそう言っていた。
でも、そろそろお開きかという頃合いにhorny≠竍pussy≠ネどという猥雑な言葉が飛び交い、Have fun!≠ニ意味深な握手を交わす仲間の気配から、俺はこの会合の真意を知る。うん。無意義だよね、これ。
「凪はサッカー以外だと本当にぼーっとしてるよな」
「うん。興味ないし」
ふいとゲームに視線を戻すと、その画面を遮るように再びスマホを押しつけられる。
「まあまあ、つれないこと言うなって!」
「ぎゃー」
この子は? この子は? と勝手にスクロールされていく女の顔はほとんどモザイクで隠されている。
酔っぱらいのだる絡みうざ……とげっそりしていると、ふと、見知った顔と目が合った。
あ、俺この人知ってる。
名前は確か──苗字名前。
記憶を辿ると白宝高校の教室が鮮明に蘇ってくる。俺の前の席に座る、凛とした背中。
彼女は高校を中退して、忽然と姿を消した。誰も彼女の行く末を知らず、俺自身もたった今までその存在すら忘れていた。
例によって顔の下半分は曖昧にぼやけているし、あなただけの抱き枕になります≠ニいう謳い文句や、胸の谷間を強調するような服装は高校時代の彼女とはほとんど別人なのに、よく気づいたなと我ながら思う。
たぶん、目だ。彼女の
それにクラゲ≠ニいう名前。彼女のスクールバッグから落ちた、クラゲのキーホルダー。
──苗字さん、落としたよ
──いらない、あげる
──いや、俺もいらないけど
──じゃあ、捨てていいよ
食い入るように見つめていると、勘違いしたスマホの持ち主が「俺が手配してやるから安心しな、ベイビー」と肩を揉んでくる。
まあいいや。誤解を解くのもめんどくさいから流れに身を任せることにする。彼女に用があったことをいまさら思い出したのだ。
確かあのキーホルダーは実家に置いてあったはず。取りに行く時間はないけど、とりあえず今日は会って話をつけるだけでもいいか、と思った。
指定されたホテルに到着してすぐ、限界を迎えた。
「んあー、眠い……」
苗字さんは約束通りに到着したけど、お腹が痛いと言うので俺も寝ることにした。まさか時間目一杯熟睡して、さらに二日目も同じ失態を繰り返すとは思わなかった。俺はいつも眠気には勝てない。
三度目の正直でクラゲのキーホルダーを渡したら、苗字さんは泣き出してしまった。
やべ、と思った。どうしよう。めんどくさい……とは口が裂けても言えないけど、この状況はさすがに気まずかった。
泣きじゃくる彼女の背中をさすりながら、同じように戸惑っていた高校時代の自分に思いを馳せる。
──ちょっと訊きたいことがあるんだけど
話しかけると、苗字さんと仲が良かったクラスメイトはびくっと肩を震わせた。
──苗字さんって高校辞めたの?
──ああ、うん……そうみたい
──これ、返したいんだけど
──あ、クラゲ。名前のスクールバッグについてたやつだよね。亡くなったお父さんから貰った大事なものだって言ってた
──え、そうなの
──名前、どうしたんだろうね。私もよく知らなくて
──知らない? どういうこと?
──本当に突然だったから。相談もされなかったし、今も連絡つかないし……
行き場を失ったクラゲのキーホルダーを見下ろす。どうすんの、これ。
正直、聞かなければよかったと思った。でも聞いてしまった以上ますます捨てるわけにはいかなくなり、タイミング悪くかかずらった自分を恨んだ。
でも、いらないって言ってたし、探してまで届ける必要もないかと思い至って、自分の部屋の引き出しにしまっておくことにした。
とはいえ本当に返す日がくるとは。
数年越しに苗字さんの元に帰ってきたクラゲを見下ろし、未だ泣き止まない持ち主の姿に混乱する。その涙にいったいどんな気持ちが含まれているのか、俺には計り知れない。
大切にしていた父親の形見。それを捨てた彼女にいったいなにがあったのか。それに、名門校卒業という肩書きや、友人を切り捨ててまで就いた夜の仕事。本意ではないことは明らかだった。
本当にこれでよかったのだろうか。辛い記憶を思い出させてしまったような気がしてならない。
水族館に誘ったのは、玲王の案だった。
苗字さんの名前はもちろん伏せたけど、相手が女子だと知った玲王はいつになく乗り気で、ちょっとおもしろがっていた。
店を通して会えば迷惑にはならないだろうと思ったけど、苗字さんは少し戸惑っているようにみえた。
どうして放っておかないのだろう。恐らく彼女が疑問に思っていることは、俺自身にもよくわからなかった。俺たちはずっと、交わらない平行線の世界を生きてきたはずなのに。
水槽を見上げる彼女の瞳は、水面のゆらめきを反射してきらきらと輝いていた。なんてことないクイズを楽しむ無邪気な笑顔、笑い声。息を吹き返したような姿に不意を突かれた。
そうだ、と思い出す。苗字さんはもともとこんなふうによく笑う女の子だった。
誰かと話す声はいつも楽しげで、不思議と俺の眠りを妨げない。それは心地よい水のゆらぎの音に似ていて、しっくりと俺の日常に溶け込んでいた。
クラゲの水槽の前に立つと、彼女はひどく動揺した。
「凪くん知ってる?」
「クラゲってね、脳が無いの」
「なにも考えなくていいし、なにも感じなくていいの」
俺を振り返る、現実に引き戻された瞳が、一瞬にして黒く濁っていく。
「帰ろう、凪くん」
あ、いま自分を殺した。
その瞬間に、俺は目敏く気づいてしまう。
どうして、と問いただしたくなる。もどかしい。一人の人間に心を乱されるなんて、俺らしくもない。ましてや今まで関わりのなかった、存在すら忘れていた同級生なんかに。
でも、俺はうっすらわかり始めていた。
苗字さんの後ろの席で、俺はいつも安寧に身を委ねていた。無意識に、そんな日常が続くことを願っていたのかもしれない。
──おはよう、凪くん
──あ、うん
挨拶程度の関係で、俺と苗字さんの世界は平行線のまま交わらない。
それでよかった。ずっとそのままでいてほしかった。俺の知らない世界で、苗字さんは変わらずに笑っていると思っていた。
そうじゃなかった現実に、俺は動揺しているのだ。
タイマーを確認して、きっちり時間通りに切り上げようとする苗字さんを見ると、胸が騒ぐ。
このあと彼女はどこか知らないホテルの一室で、また自分を殺すのだろうか。
近所のスーパーで苗字さんを見かけた。リラックスした姿を見るとなぜか安心して、ほとんど反射的に声をかけてしまった。苗字さんはあたふたと必死に顔を隠していて、そっとしておいたほうがよかったのかも、と後悔した。
その男の存在に気づいたのは、執拗な視線を背中に感じたからだ。
刺すように睨まれたから、すぐにわかった。苗字さんと親しげに話す俺が気にくわないのだ。
気づかないふりをして、苗字さんと別れた。男は苗字さんの姿が見えなくなるまで、じっと執着するようにその背中を見つめていた。
その男を街で見かけて、思わず足を止めた。
隣には苗字さんがいて、彼女の方から腕を組んで、笑いかけて、恋人のように寄り添っている。
まさか、とは思った。でも本当に恋人なのかもしれなかった。俺は苗字さんのことをなにも知らない。つい先日、わけあって再会したばかりの、ただの同級生にしかすぎないのだから。
それなのにどうして、あいつがただの客であってほしいと思うのだろう。そのくせ、ただの客であったとしてもむかつくなんて、どうかしてる。
俺の知らない世界で笑ってくれればよかったんじゃないの? 自分に問いかけて、うんざりする。自己中で理不尽で、俺が一番めんどくさいじゃん。
むしゃくしゃした気持ちのまま顔を合わせたら、苗字さんはいつも以上に俺の扱いに戸惑っていた。そりゃそうだ。
でも、素っ気ない彼女の態度はますます俺の機嫌を損ねた。あいつにはあんなふうに笑うのにね。卑怯なことを言って、困らせたくなる。
思い返すと、俺は苗字さんを泣かせてばかりだ。俺が悪いの? じゃあどうしたらいいの? どうしたら苗字さんは笑ってくれるの?
それで気がつくと、彼女を押し倒していた。
距離の縮め方も知らない俺は、勢いに任せて感情をぶつけてしまった。
「シャワー、浴びますか……?」
事務的なひと言に、ハッと我にかえる。苗字さんの声は震えていて、たぶんまた、泣いていた。
がんっと頭を殴られるような衝撃だった。俺なにやってんだろ。最低じゃん、こんなの。
苗字さんの顔が見れない。二度と見られないとも思う。知りたくなかった。こんな感情も、なにもかも。
苗字さんに帰ってもらったあと、そのまま横たわってぼうっとしていた。俺はいったい、彼女をどうしたいのだろう。
答えが出ないまま書店でばったり鉢合わせてしまい、めちゃくちゃ気まずい。でも、口をきいてもらえたことに少しだけホッとした。
「クラゲちゃん」
と彼女を引き留める声。振り返ると、あの男が立っていた。
苗字さんは身体を強張らせていて、このまま見過ごすのは危険だと直感した。
得々と語る男の言う通り、苗字さんの手から歯科学の本が滑り落ちる。なにか思うよりも先に、身体が動いた。苗字さんが泣いていたから。
「ねぇ、好きな子泣かせるのってそんなに楽しい?」
ちらちらと好奇の目を向ける通行人から隠すように、苗字さんの頭に上着をかける。
「俺、全然楽しくないんだけど。なにがそんなにおもしろいの? 教えろよ」
かっと頭に血がのぼって殴りそうになったところを、苗字さんが止めてくれた。
それでも懲りない男がまだ何かわけのわからないことを喋っている。逃げたあとも、気味の悪さがまとわりつくように尾を引いていた。
苗字さんがネカフェかカプセルホテルに泊まるというので、俺は参った。
ホテル代を押しつけようか迷ったけど、彼女が大人しく従ってくれるとも思わなかった。
「今日は、俺ん家泊まりなよ。なにもしないから……って俺が言っても説得力ないよね」
悩みに悩んで自宅に招いた。過ちは繰り返さないと誓って。
まぶたを冷やす彼女の隣で大人しくしていたら、苗字さんがぽつりと口を開いた。
「……聞かないんだね」
「うん? 何が?」
「私のこと……いろいろ」
気にならないと言えば嘘になる。けど、踏み込みすぎて苗字さんを苦しめるくらいなら、知らないままでいい。
「話したくないから話さないんでしょ。なら無理に聞かない」
俺の知らない世界で笑っていてくれれば、それで。
「確かに、最初は話したくなかった。誰にも知られたくなかった。でも今は、なんでだろう……聞いてほしいって思うの。知ってほしいの。凪くんに、私のこと」
苗字さんの方から歩み寄るのは初めてのことだった。それを嬉しく思う自分にもびっくりした。
少しずつ語られた彼女の人生に、かける言葉も見つからない。どうしようもない遣る瀬なさに襲われると同時に、負う必要のない責任を抱えてひたむきに生きる姿に心を打たれた。
環境に恵まれて生きてきた俺とは違う。きっとたくさんの困難を乗り越えてきたのだろう。
膝を抱えてうずくまる苗字さんはとても小さい。こんな小さな身体で、たった一人で生きてきたのかと思うと、なにもしないと誓った約束などかなぐり捨てて抱きしめたくなった。
「……キス、したい」
自分が考えていたことを口にされて、耳を疑う。腕のなかで恥ずかしそうに唇を結んでいる苗字さんに催促されると、誓いなんてすぐにどこかへ吹っ飛んでいった。
唇を重ねるうちに止められなくなる予感がして、やばいと思って距離をとった。
「知りたいの。私、こんな気持ち初めてだから……」
お願い、と口付けされて、縋るように服を掴まれると、もういいかと思えてくる。彼女の気持ちに応えたいというこの感情が同情なんかではないことは、もうとっくにわかっていた。
「約束、破る。……ごめん」
苗字さんの肌はなめらかでとても気持ちいい。実を言うと、それは二回目のホテルで、彼女を抱きしめて眠りに落ちたときから知っていた。でもいまは、あのときよりももっと深いところで彼女を感じて求めていた。
「好きだよ」
打ち明けるつもりのなかった気持ちを伝えると、苗字さんは息を呑んで、涙を流した。また泣かせちゃった、と思ったけど、「私も凪くんのこと、好きだよ」と本当に幸せそうに笑ってくれたから、そういうことなら何度でも泣かせたいなと変な使命感に駆られた。
幸せって、こういうことをいうのかな。惹かれあうようにキスをしたあと、そんなことを思った。
俺の隣でおだやかに眠る苗字さんを見て、行き場のない独占欲が膨らんでいく。
実際、彼女の肌に他の男の指が触れるところを想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
もうめんどくさいから全部俺に任せなよって、彼女が背負う十字架まで奪うのは簡単だ。でもそれはきっと、彼女の自尊心を傷つける。
再び訪れたクラゲの水槽の前で、やっぱり仕事を続けるのだと口にした苗字さんが、それから夢を打ち明けてくれた。
「大学に行って、資格取って……ってその前にまず高卒認定か」
苗字さんは戯けて笑っているけど、たぶん叶えるんだろうなと思った。
「でも、凪くんのことも諦めたくない。お金が貯まるまで、この仕事辞めるまで、待っててくれる……?」
聞かれなくても当然。
「当たり前でしょ。待ってる。俺はずっと、苗字さんの隣にいる」
ふと、背中に視線を感じた。確認しなくてもわかる。たぶん俺のことだろう。
「凪くん、やっぱり帽子返すよ」
「なんで?」
「だって私なんかと一緒にいたら……もし写真撮られて、変な記事とか書かれたりしたら……」
貸した帽子を返そうとするので、それを奪ってまた被せてあげた。
俺のことはなんとでも言えばいい。でも、彼女を傷つけることは許さない。
ほのぼのとした親子の会話を聞いて、苗字さんはどこか吹っ切れたように歩き出した。凛とした背中。生き生きとした瞳。
苗字さんは強い。俺は彼女を尊敬している。だから、彼女の意志を尊重したい。信じて待ちたい。
けど、もしもこの先、苗字さんが困難に打ちのめされて、クラゲになりたいと思ったとき、それを受け入れる海のような存在でいたいと思う。
しずかな水面のゆらめきに、光を反射させる。いつでもここに浮上できるように、そっと寄り添うように、支えてあげたいと強く思う。
end
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