#9


「私は、施設には行かないことにしたの。弟を大学に行かせてあげたくて」

「お金が貯まったらね、夜の仕事辞めて弟と2人で暮らしたいの。それが、私の今の夢」

 凪くんと目を合わせないように、大袈裟に明るく話していたのは、彼がどんな表情をしているのか、この目で知るのが怖かったからだ。踏み込まなければ良かったと、思われたくない。住む世界が違うからと突き放されたくない。日の丸を背負う彼と、十字架を背負う私では、何もかもが違いすぎる。

 もう話すこともなくなって、沈黙に涙が滲んだ。膝を抱えて、瞼に保冷剤を押し当てる。「苗字さん」いつもの声色が私の背中に触れる。冷たい保冷剤と、温かい手のひらの間に私はいる。いったいどちらが私の傷を癒してくれるか、なんて。本当はもう、知っていた。

「苗字さんの所為じゃない」

 鼻の奥がツンとする。ぎゅっと唇を噛んだら、じわじわ涙が溢れてきた。

「俺、泣かせてばっかりだね」

 違う。違うの。
 私は鼻を啜りながら小さく首を横に振った。

「私…今までほとんど泣かなかった。涙が出なかったの。ずっと演じてた。何も感じない、感情の無い自分を」

 クラゲになりたかった。

「でも、凪くんがキーホルダーをくれた日から私…ちゃんと泣けてるの。まだ涙が出るんだって、心のどこかで安心してる自分がいた」

 クラゲになりたかった、はずなのに。

「凪くんの所為じゃなくて、凪くんのお陰なの。だから…ありがとう」

 泣き腫らした顔をあげて、凪くんを見つめる。大きな黒い垂れ目。でも、今の私にはわかる。凪くんはとても優しい目をしてる。優しく星が瞬いた、灰色の夜空みたいな瞳。見惚れていると、「苗字さん」と彼がまた名前を呼んだ。

「何もしないって言ったけど、ごめん。抱きしめてもいい?」

 小さく頷くと、大きな手のひらが私の肩を引き寄せた。初めて、自分の腕を凪くんの背中に回した。ぎゅっと力を込めると、ぎゅっと抱きしめ返してくれる。私は、ここにいるんだ。温もりを感じることができる。ちゃんと、生きている。

「…凪くん」
「なに?」
「…キス、したい」

 凪くんが驚いて離れて、私の顔を覗き込んだ。それから、きゅっと結んだ唇を嬉しそうに綻ばせた。

「俺も、したいって思ってた」

 凪くんの温かい手のひらが私の頬を包む。顔を傾けて、距離が縮まる。触れる寸前で一度止まって、私達は、どちらからともなく唇を重ねた。頬には涙が伝っていた。温かい涙だった。キスって、こんなにも胸がときめいて、愛しい気持ちでいっぱいになるんだって、初めて知った。
 凪くんが名残惜しそうに離れるから、私はもっと、と強請るように自分から唇を重ねた。少し口を開いた凪くんと同じように口を開くと、そこにゆっくりと柔らかい舌が入ってきて、絡み合って、溶ける。心まで、溶けてしまいそう。

「ん、ん…凪くん」
「んぁ、ちょっと待って苗字さん。俺、これ以上は…」

 凪くんが私の肩に手を置いて離れる。はあ、はあ、と短い息が交差する。
 「何もしないって約束したから」凪くんはそう言うけれど、私は知りたくて堪らなかった。どうして凪くんは、頑なに約束を守ろうとしているのだろう? それなのにどうして私は、もっと彼に触れてほしいと思っているのだろう? 

「知りたいの。私、こんな気持ち初めてだから…」

 もう一度口付ける。凪くんは拒まなかった。今まで数えきれないくらいキスをしてきたけれど、キスをしたいと思ったのも、キスをしてほしいと思ったのも、初めてだった。初めての気持ちが多すぎて、私の心の中だけには収まりきらない。縋るように凪くんの服を掴むと、一瞬身体が浮いて、ベッドに沈んだ。凪くんを見上げる。今日はシャンデリアがない。眩しくない。手首も痛くない。ふわふわの白い髪が首筋を撫でて、そこに柔らかい唇が触れる。ぴくんと小さく肩が跳ねた。この間とは違う、優しい触れ方だった。

「約束、破る。…ごめん」

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