#8


 凪くんは、時々鼻を啜る私を隠すように立っていた。私達は何かを話したり、聞いたりせずに、黙って電車に揺られていた。車内には寝てる人だったり、スマホをいじってる人だったり、イヤフォンをしてる人だったり、それぞれだったけれど、ガタンと列車が大きく揺れると皆で一緒に大きく揺れて、それが水に流されるまま漂うクラゲのように見えて、私はやっと少しだけ笑えた。

 凪くんは、最寄駅に着いてからずっと頭を抱えていた。

 私がお刺身を食べた日。私と凪くんがスーパーで偶然出会った時に、凪くんはゴリさんを見かけたという。やけに睨むような目でこちらを見てくる男がいたから気になったそうだ。男はスーパーを出ると、帰宅の途につく私が見えなくなるまで、その後ろ姿をじっと見つめていたらしい。
 しかしそれから、私とその男が並んで街を歩いているのを偶々見かけて、凪くんは驚いたという。私がニコニコ嬉しそうに笑っているものだからまるで恋人同士のように見えた、と。けれど、それは偽物の営業スマイルで、デート"コース"だから恋人のように振る舞っていただけ、と私はキッパリ弁明して、それはまあ、どうでもいいのだけれど。

 とにかくゴリさんは、私の自宅を知っている。そんなことはわざわざ口に出して確認しなくても、私達はお互いにわかっていた。だから、凪くんは足を止めたのだろう。

「凪くん今日はいろいろと…ごめん。じゃあ…」
「待って。どこ行くの」
「今日はとりあえず…ネカフェか、カプセルホテルか…」
「うぇぇ…マジか。あー…」

 凪くんが溜息を吐いてどこか遠くの方を見つめ出したので、私は後悔した。なぜ馬鹿正直に行き先を伝えてしまったのだろう。ストーカー被害にあっている、一人暮らしの女。泣きすぎて、ふらふらでボロボロの女。彼の立場になって考えたらすぐにわかることなのに。鼻の奥がまだツンとして、発熱した時のように頭がぼーっとする。

「…今日は、俺ん家泊まりなよ。何もしないから。…って俺が言っても説得力ないよね」

 凪くんは気まずそうに頭を掻いて、それから「でも、さすがに放っておけない」と真っ直ぐに私の目を見た。

「この間は、ごめん。苗字さんを傷付けるつもりじゃなかった。俺のこと…信じてくれる?」








 私達は件のスーパーで惣菜なんかを適当に買って、凪くんの家に向かった。当たり前だが、私の住んでいるアパートなんかよりも数倍綺麗なマンションに住んでいらっしゃる。溜息を吐きたくなる。明日から、私はどうしよう。恐らく、暫くは住み込み寮に戻ることになるだろうし、考えただけで憂鬱である。

「ま、適当にくつろいでよ」
「お邪魔します…」

 凪くんの部屋はすっきりとシンプルで綺麗だった。けれど、ぽつんとサボテンが置いてある謎なところとか、部屋着がベッドの上に脱ぎっぱなしになっているところとか、あちらこちらに彼らしい生活感が転がっていて、私はつい口元を緩めてしまった。

「少し落ち着いた? 目冷やす?」
「ありがとう…」
「ん」

 凪くんが保冷剤をタオルに包んでくれる。ひんやりとして気持ちがいい。熱が出た時にお母さんが作ってくれる氷枕みたい。その優しさを遠い昔の記憶に重ねていると、凪くんは私の隣に座って、買ってきた本をぱらぱらと開き始めた。ゲームの攻略本のようだった。

「…聞かないんだね」
「うん? 何が?」
「私のこと…いろいろ」

 なぜ高校を辞めたのか。なぜ風俗で働いてるのか。なぜ歯学の本を買っているのか。両親のこと、弟のこと…。私は凪くんに隠していることがたくさんあった。

「話したくないから話さないんでしょ。なら無理に聞かない」

 凪くんは至極当然といった顔で淡々と本を捲っている。全てを知ったら、彼はどんな顔をするのだろう。怖い。薄ら開いた唇は震えていた。

「確かに…最初は話したくなかった。誰にも知られたくなかった。でも今は、なんでだろう…聞いてほしいって思うの。知ってほしいの。凪くんに、私のこと」

 初めて、彼の瞳を真っ直ぐ見つめた気がする。灰色の瞳が揺れて、ひとつ瞬きをした。それから小さく頷いてくれる。

「わかった、教えて。苗字さんのこと」








 父が亡くなったのは、私が10歳の時だった。突然死だった。早朝、自宅の浴室で冷たくなっていた父を発見したのは母だった。ヒートショックといって、入浴中に亡くなる人はそう珍しくないようだが、その時の母の狂乱ぶりといったら、娘の私ですら見ていられないものだった。前の日の夜、たまたま帰りが遅くなった父が一人浴室で苦しんでいたのであろうその瞬間、私達家族は呑気に眠りこけていたのだから、無理もない。
 救急隊や警察官が出たり入ったりする玄関の横で、私はランドセルに付けたクラゲのキーホルダーを手でつついていた。それは現実から目を逸らしていたからかもしれないし、先週父が連れて行ってくれた水族館の記憶がまだ悲しいくらいに新しくて、父と交わした約束が既に私の夢になっていたからかもしれない。

 父は歯科医だった。私がうんと小さい頃から歯科医院を経営していた。院長である父が亡くなったため已む無く休院することになって、私と母と弟の3人で医院へ向かった。入口の自動ドアにはいくつか貼り紙がしてあって、それは専売品のチラシだったり、歯周病検診の案内だったり、院内にもよく貼ってある物だったけれど、一番端の方に私の写真が貼ってあった。"女性やお子様に大人気のカラーモジュール"という見出しの貼り紙のすぐ横で、私は口元に歯列模型を当てて笑っていた。模型に取り付けてある矯正装置には、カラーモジュールが装着されている。虹色の、カラフルな矯正装置。私はこれに憧れていた。

──お父さん、名前もこれやりたい!
──矯正なら、今もやってるだろう?
──違うの、このカラフルでかわいいやつやりたい!
──ああ、これはね。大人の歯が全部生えてからかな
──なーんだ、そっかあ…。ねぇ見て! 似合う?
──ああ、似合う似合う。ちょっと待って、写真を撮ってあげよう。

──名前、笑って。



 シャッターの音と、母がチラシを破り剥がす音が重なった。それを横目に、こっそり写真をポケットにしまった。母が新たに貼り紙をする。

"しばらく休院致します"

 閉院しないのは母の意地だった。父が残したこの場所を絶やしてはいけない。その一心で後任の歯科医を探していた。
 母は専業主婦だったので、収入が一切なかった。医院と住宅、設備のローン返済や人件費が忽ち父の遺したお金を蝕んでいった。さらに追い打ちをかけるように、ようやく見つかったと信じて縋った後任に騙されて、大金を失った。一年もしないうちに生活は苦しくなった。母は二つのパートを掛け持ちし始めたが、結局、歯科医院は閉院した。

 母は詐欺に遭うような無知な善人だったが、それに引き換え私は頭が良かった。私は父のような歯科医になりたかった。それはクラゲのキーホルダーを買ってもらうよりも前からの夢だったが、父が死んでからその思いはより一層強くなった。
 中学3年生の時、私の勉強机に貼ってある写真を見て、7歳の弟が「いいなあ」と言った。父が撮ってくれた、カラフルな歯列模型を持って笑う私の写真だ。

「姉ちゃん、これやったの?」
「これはやってないよ、やる前に終わっちゃった」
「そっかあ、いいなあ…僕もやりたい」

 弟はちょうど上の前歯が抜けた頃で、それを気にしてやけに恥ずかしがっていた。弟の永久歯がどのように生えてくるかはまだ分からないけれど、恐らく私と同じで不揃いなのだろう。私は父が生前施してくれた初期の矯正のおかげでほとんど綺麗になったが、父が亡くなった時、弟はまだたったの3歳だった。私は、私が父親から貰った愛情を、同じく弟に注いでやりたいと思っていた。

「私、歯医者さんになるから。そしたら私が、カラフルな歯列矯正やってあげる」


 翌年の3月、私は、第一志望だった白宝高校に合格した。母と弟はとても喜んで、その日は皆で一緒にお刺身を食べた。お刺身は私の大好物だった。

「私、歯科医になる。歯学部のある大学に行って、国家資格を取りたいの。そしたら次は、私が家族を支えるから」

 母の目を見てはっきり伝えたのは初めてだった。

「…名前は、我が家の希望ね」

 母の笑顔はいつもどこか悲しそうだった。私は早く大人になりたかった。早く立派な大人になって、歯科医になって、母を楽にしてやりたかった。母がいつか壊れてしまうような気がして、恐ろしかったのだ。

「僕も、歯医者さんになる!」
「またそうやって姉ちゃんの真似する」
「違うもん! 本当だもん!」

 弟は幼稚園の頃、消防士だのサッカー選手だの、将来の夢がころころ変わっていた。だからこの時、私は弟の言葉を信じていなかった。どうせまたすぐに飽きるだろう、と。

 私が白宝高校に入学して半年が経った頃、弟が私の本棚から時々歯学の本を借りるようになった。とは言え、父から受け継いだ専門的なその本の内容は当然8歳の彼に理解できるはずもなく、絵や図なんかをパラパラと眺めていただけだった。けれど、私はその時確かに、幼い頃の自分の姿を弟の横顔に重ねて、微笑ましい気持ちになっていた。

 ちょうど同じ頃、母が夜の仕事を始めた。どんな仕事かなんて知りたくもなかったけれど、派手な下着とドレスが吊るされた洗濯物は嫌でも目に入ってきた。酒と煙草と香水の臭い。窶れていく母の姿。私はそれを、見て見ぬ振りをしていた。母が、私の夢の為に必死で働いていることはわかっていた。けれど、私は白宝高校の勉強について行くのに必死だった。アルバイトなんてしたら成績が落ちるのは目に見えていた。だから余計に焦った。もう、時間がないような気がした。



「あんたさぁ、高校辞めれば?」

 高校2年生の時、一週間ぶりに会った母と目が合って、私は石のように固まって、動けなくなった。このまま息が止まって死んでしまうような気さえした。メドゥーサ。私はメドゥーサと目を合わせてしまったのか、と本気で思った。

「正直、働いてくれた方が助かるのよ」

 灰皿に押し付けられた煙草。ちらちらと微かに瞬く火が、煙と共に消えた。これは、誰の命の灯火だったのか。


 翌日、母が失踪した。弟が大粒の涙をぼろぼろ流しながらケチャップライスを食べているのを見て、私は、歯科医になりたいだなんて思わなければ良かったと、初めて後悔した。大学なんて目指さずに、すぐに働いていれば今頃私達は、なんて。自分が選択しなかった未来を思い描いては悔やんだ。父のように、家族を支えたかった。父のように、立派な大人になりたかった。

──これはね印なの。お父さんみたいな立派な大人になるよって、約束の印!

 クラゲのキーホルダーを手に持つ、幼い笑顔が霞んでいく。何が、"カラフルな歯列矯正やってあげる"だ。何が、"次は私が家族を支える"だ。

 私だ。家族を崩壊させたのは、私だ。






「僕、歯医者さんになるよ。そしたら、みんな元通りになれるかな」

 児童相談所の職員が弟の手を取って、私の元から離れていく。

「姉ちゃんは、どこにも行かないでね」



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