01 黒名くんと付き合いたい!



 お弁当箱を忘れたことが、全ての始まりだった。

「あちゃー…また忘れた」

 そのことに気づいたのは、校門を出てすぐのことだったので、私は迷わず踵を返した。夏の始まり。金曜日。教室に置いていくわけにはいかなかった。
 とぼとぼと校舎に戻る。誰もいない教室。机の横に掛けてある巾着がぽつんと私を待っていた。リュックにしまって、元来た道を引き返す。
 こうやってお弁当箱を忘れるのは、今年に入って何度目のことだろうか。うんざりして溜息を吐く。そうやって、グラウンドの横を通った時だった。

「黒名ァー! あがれあがれ!」

 ふと聞き覚えのある名前が聞こえて、足を止めた。黒名。黒名蘭世くん。頭の中で彼の名前を反芻した。黒名くんは、隣のクラスの男の子だ。なんでもサッカーがとても上手だとかで、今や全校生徒が一度はその名を耳にしたことがあるだろう。私はすごく興味があったわけではないけれど、その時なんとなく、グラウンドの方に視線を向けた。

「余裕、余裕」

 黒名くんがこちらへ向かって走ってくる。パスを貰って、思いのままにボールを操っている。目が合った。ような気がした。針のように鋭い瞳孔に射抜かれて、動けない。右足を大きく振り抜いて、力強いシュート。汗が弾けて光っていた。私の目の前のゴールネットを揺らした。
 この時、ボールに何か仕掛けでもしてあったのだろうか。ゴールが決まった瞬間、私の胸にトスッと何か矢のようなものが刺さったのを感じた。ハートの弓矢。それは絵に描いたような、恋に落ちる瞬間だった。







「それってさ、ゴール見てただけでしょ」

 ぱちん。目の前で手を叩かれたように目が覚める。振り返ると、A子が哀れなものを見るような目で私を見ていた。

「そりゃあ…そうかもしれないけど…でも好きになっちゃったんだもん」
「まあ、スポーツやってる男子って無条件にカッコいいもんね」
「A子はいいなぁ…黒名くんと同じクラスで」
「名前だって隣のクラスなんだから、大して変わらないでしょ」

 A子はそう言って適当にあしらうと、今度は持っていたスマホを机の上に置いて、真っ直ぐに私を見つめてきた。

「ま、がんばれ名前。初恋は叶わないっていうけど、応援してるからね」

 初恋は叶わない。本当にそうなのだろうか?

 もう一度窓の外を見る。朝練に励むサッカー部の中から、赤い三つ編みを揺らす彼を見つける。
 もしこの恋の運命が決まっているのだとしても、それが悲しい恋の結末なのだとしても、私はそれに抗いたい。だって、初めて芽生えた大切な気持ちだから。絶対絶対、叶えてみせる。私はきゅっと唇を噛んで、ただひたすらに眩い初恋の人を見つめていた。




──ガラッ

 朝のホームルーム前、そうやってしばらくA子と雑談していると、突然扉が開いた。制服に着替えた黒名くんが、クリアファイルで顔を扇ぎながら教室に入ってきた。その姿を見ただけで心臓がどきりと跳ねて、頬や耳にじわじわと熱が集まるのを感じた。か、かっこいい…。黒名くんといえば、今までは漠然とクールな印象しかなかったけれど、恋心を自覚した途端に特別キラキラ輝いてみえてしまう。恋の力ってすごい。じーっと目で追いかける。席に着いた。暑そうにパタパタ扇いでいる。かわいい。………。
 ──いやいや! こんなことしてたって何も変わらない。ただじっと待ってるだけじゃ、何も始まらない。チャンスは自分の手で作り出さなくては。ただでさえ隣のクラスで、接点なんてまるで無いのだから。よ、よし…! 「私、行ってくる!」A子に宣言すると、私はドキドキ高鳴る心臓を押さえながら、自分を奮い立たせるようにガタッと椅子から立ち上がった。

「く、く、黒名くん!」
「ん?」
「あの…! シュート、見たよ!金曜日!…すごい、かっこよかった!」

 A子によると、この時の私の声は他の人にも丸聞こえだったそうだ。でもそこまで気が回らないくらい、私はガチガチに緊張してしまって、文字通りに黒名くんしか見えなくなってしまっていた。
 ああ、言っちゃった…! 後から押し寄せる恥ずかしさにぐるぐると目が回る。黒名くんは猫みたいな目をキョトンと真ん丸にして私を見上げている。「…えっと」戸惑う唇の隙間から鮫のような歯がチラリと見えた。

「わ、私! 苗字名前!…あのあの、隣のクラスの…ッ!」

 私は何故だか急に怖くなってしまって、聞かれてもいないことをペラペラと喋り出してしまった。開きかけた口を噤んだ黒名くんの瞳孔が、キュッと細くなる。それから、はわわわ…とあたふたする私の熱が移ってしまったみたいに、少しだけ頬を赤らめて小さく頷いてくれた。

「ん。ありがとう、苗字」

 きゅーーーん…。黒名くんが微笑んでくれた。その瞬間、私の胸に追撃のハートの矢が刺さった。か、かわいい。かっこよくてかわいいなんて、黒名くんは、なんてずるいんだろう…!




 それから私は毎日毎日隣のクラスに訪れては、黒名くんに話しかけていた。サッカー部をちらちらとチェックして、話しかけるきっかけを必死に探していた。

「黒名くん、昨日のシュートもすごかったね!」
「黒名くん、昨日はボール蹴りながら何人も抜いてたね、かっこよかった!」
「黒名くん、今日の朝練めっちゃキツそうだったね!」
「黒名くん、」「黒名くん、」「黒名くん、」…………。



「苗字、そんなにサッカーが好きなら一度試合を観にくるといい」
「へ?」

 ある日、黒名くんから思いもよらない提案を受けて、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。もちろん、黒名くんからお誘いしてくれたことは飛び跳ねるほど嬉しかったのだけれど、何か、黒名くんは盛大な勘違いをしているようだった。私は放心状態で思考停止してしまって、結局何も訂正せずに「ウン、ゼヒ…」と頷いたのだった。

「今週、うちのグラウンドで練習試合がある」
「練習試合? 今週?」
「ん。土曜日、土曜日」
「土曜日ね、うん。絶対行く!」

 好きな人からのお誘いを断る理由なんてない。だけど、私が好きなのはサッカーじゃなくて…。もし、彼がこの想いに気付いていたら焦って恥ずかしがるくせに、ほんの少しも伝わっていないのだということを実感すると、それはそれで儚く切ない。身勝手な恋心が少しだけちくんと痛んだ。





 土曜日。私は黒名くんと約束した通り、ドキドキしながらグラウンドにやってきた。うちのチームと相手チーム、それぞれ応援に来ている人が何人かいて、応援席としてグラウンド内に仮設テントが設置されていた。外から応援する気満々だったけれど、逆にそれだと目立ちかねないので大人しく応援席に座る。
 ちらりと黒名くんを見る。ウォーミングアップをしていたのか、ゼッケンの首元をぱたぱたと扇いでドリンクを飲んでいた。骨張った喉仏がごくりと上下するのを見て、堪らず目を逸らしてしまう。もうこれ以上私をドキドキさせないで、お願い…! ──と思いつつ、もう一度見てしまう。はあ、今日もかっこいい。土曜日に黒名くんに会えるなんて、幸せすぎる。



 試合が始まると、その場にいた誰もがあっと驚くくらい、黒名くんは大活躍だった。前半戦が終了した時、2対1でうちのチームが勝っていて、その2点とも黒名くんがゴールを決めたのだ。私を含め、全員の視線が彼に釘付けだった。

「あの子すごいね。赤髪の三つ編みの──…」

 ハーフタイム中、隣に座っていた女の子達の会話が耳に入ってきた。相手チームの応援に来ている人達だった。黒名くんが、皆から認められている。注目されている。それはすごいことで、喜ばしいことなのに、どうしてか私の心にはモヤモヤとした霧のような焦燥感が立ち込めていた。こんな気持ちになりたくないのに、どうして。私はぶんぶんと首を振って、霧を振り払うように席を立った。




「あ、すいませーん!」

 お手洗いに向かう途中。ころころ、と目の前にボールが転がってきた。振り向くと、相手チームの選手が遠くからこちらへ向かって手を振っていた。どうやらこのボールを使ってウォーミングアップをしていたらしい。両手でボールを掴もうとしゃがみ込んで、はたと止まる。突然、蹴ってみようかなという気になった。黒名くんの真似がしてみたくなったのか、心のモヤモヤを発散させたかったからなのか、わからない。でも、とにかく蹴ってみたい!

「はーい! 今蹴りますね!」

 私は大きく手を振って答えて、黒名くんのようにボール目掛けて大きく右足を振り抜いてみた。すると何故か、足先ではなく足の裏にボールが触れた。あれ? と思う間もなく、私の身体は後ろにぐらりとバランスを崩した。やばい、転んじゃう! ──そう思って、今度はボールの上に乗ってしまった右足を咄嗟に前に踏み込んだ。重心がぐらりと前に移動した。
 そう、私は運動音痴なのだ。
 ──べちゃ! と間抜けな音でも鳴ったのだろう。ド派手にすっ転んで、顔面と膝を強打。「大丈夫ですか!?」と駆け寄る声が聞こえたけれど、それに返事をすることなく私の意識はぷつりと途絶えてしまった。





 目を覚ますと保健室にいた。心地よい風が吹き抜けて、カーテンを揺らしている。

「苗字、目が覚めたのか?」

 ふわりと膨らんだカーテンが萎むと、そこには黒名くんがいた。私は曖昧な視界の中で彼を見上げて、これが幻だとしても構わないと思った。これは都合の良い夢なのだ、とも。

「黒名くん…」
「良かった、良かった。心配したんだぞ」

 黒名くんはベッドサイドの椅子に座って、しゅんとこちらを見つめている。膝とおでこがじくじくと痛い。私はその痛みをぼんやりと受け止めていた。これは、現実──? ふと、さっきまで近くで聞いていた声援とホイッスルの音が遠くの方から風に乗ってやってきて、私の鼓膜をぶるりと震わせた。刹那、瞬時に状況を理解した私は、寝坊した日の朝のようにガバッと飛び起きた。

「く、く、黒名くん…!? 試合は…!?」
「抜けてきた。苗字のことが心配だったからな」

 当然、当然。黒名くんはこくこくと頷いている。私は顔を赤くしたらいいのか青くしたらいいのかわからずに、おどおどとひたすら困惑した。

「そんな…! 大事な練習試合なのに…私のせいで…」
「気にするな。苗字の方が大事、大事」

 黒名くんはそう言ってくれたけれど、毎日、本当に毎日黒名くんを見ていた私だから、彼が一試合一試合にどれだけ情熱をかけて挑んでいるのか知っていた。毎日練習に明け暮れていた彼の姿が瞼の裏に浮かんで、胸が痛くて沈んだ頭を上げることができなかった。私、なにやってるんだろう。

「それより、悪かった。俺が誘ったせいで苗字が怪我してしまった」
 黒名くんが申し訳なさそうに肩を縮めたので、私は堪らずバッと顔を上げた。

「そんなことない、黒名くんは何も悪くないよ…!私本当ドジだから、怪我なんてしょっちゅうで…!」

 ほら、ここも!ここも!と慌てて昔の傷跡を見せると、黒名くんは困ったように力無く笑って、「わかった、わかった」とそれを制した。

「サッカーボールで怖い思いをしただろ。でも嫌いにならないでくれ」

 サッカーのこと。そう言った黒名くんの瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。本当に、どこまでもサッカーが好きなんだなぁって感心しつつ、同時に諦めにも似た感情を覚えて、また胸がちくりと痛んだ。なんだか不純な気持ちでこの場所に来てしまったような気がした。
 「じゃあ、コーチに報告してくるからな」黒名くんが立ち上がって、背中を向けて歩き出した。行ってしまう。私の気持ちを誤解されたまま。──本当に、このままでいいの? 試合を抜け出して、こんな私のことを心配して駆けつけてくれた彼に、本当の気持ちを話さなくていいのだろうか? 気がついた時にはもう、私はベッドから下りて彼の名前を呼んでいた。


「──く、黒名くん…!」
「ん、どうした?」
「わ、私…っ、黒名くんのことが好きなの!」
「…え、」

 ぽかんと開いた口の隙間から、鮫のような歯がチラリと見えた。心拍数が跳ね上がって、どうにかなってしまいそうで、伝わってほしくて、泣いてしまいたくなる。唇をきゅっと祈るように結んで、彼を真っ直ぐに見つめた。すると突然、暖かい初夏の風が一気に吹き込んで、保健室のカーテンを大きく揺らした。透き通ったレースがぶわっと舞い上がって、黒名くんの全てを隠した。このまま彼が消えてしまいませんようにと、朧げに思った。

 風が止んで、曖昧な白い輪郭が崩れていく。そこに立っている黒名くんの、針のようにキュッと細められた瞳孔が、私を見ている。彼の頬が真っ赤に染まっているのを見た瞬間、その熱が移ってしまったみたいに、私の頬も染まっていく。カーテンレールがからからと鳴っている音が、やけにはっきりと耳にこびりついていた。「…えっと、」黒名くんが口を開く。私はまた、その続きを聞くのが怖くなってしまった。

「あ、あの…!私サッカーのこと、よく知らなくて…でも、黒名くんがサッカーしてるところを見るのは本当に好きで…!それで…」

 沈黙から逃れるように慌てて言葉を紡ぐ。もはや自分が何を言っているのかさえ、わからなかった。

「だから今日、せっかく誘ってくれたのに…こんなことになってしまってごめんなさい…というか、こんな気持ちで見に来てごめんなさい、というか…!」

 はわわわ…とあたふたしていると、黒名くんがこちらへ近づいてくる。恥ずかしくて死んでしまいそうだ。

「どうして謝るんだ? …嬉しい。ありがとな」

 今にも泣きそうな目で見上げると、黒名くんがどこかくすぐったそうにふんわりと微笑んでいた。彼のその純真無垢な笑顔が初々しくて、かわいくて、私は目が離せなかった。でもそれは、ほんの一瞬のこと。彼の短い眉毛が、困ったように僅かに下がった。薄らとその唇が開いた時、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。

「俺は、その…恋をしたことがないから、よくわからない」

 黒名くんが戸惑いながら目を伏せる。私はその時、遠くから聞こえてくるホイッスルの音を聞きながら、あぁ…と思っていた。わかっていた。初恋は叶わないと。悲しい結末を、心のどこかで覚悟していた。だから、受け入れなくてはいけない。黒名くんに恋をしていた時間、記憶。生まれた感情。貰った気持ち。よく頑張ったねって、自分を褒めてあげたい。私は、強くなれた気がした。私は、きっと大丈夫。

「うん、そっか…。うん。私、黒名くんを好きになれてよかった。本当の気持ちを伝えることができて…よかった」

 上手に笑えていた。だけど、後から涙が込み上げてきた。だめ。まだ待って。泣いてしまったら、きっと黒名くんを困らせてしまうから。平気なフリをして彼を見つめると、黒名くんはどこかそわそわと視線を泳がせていた。それからごほんと咳払いをひとつ。

「それで、その…俺たち付き合う、のか?」
「…へ?」
「敵わん、敵わん。暑くて敵わん…」

 ぶわっと赤くなった頬を誤魔化すように、黒名くんがゼッケンをぱたぱたと扇いでいる。そのまま隠れるように口元を覆った姿が愛おしくて、じわじわと頬が熱を帯びていくのを感じた。

「い、いいの…?」
「ん? そういうものなんじゃないのか?」
「そういうものというか、えっと…でもさっき恋とかわからないって…」
「ああ。でも苗字が好きだと言ってくれて、嬉しかった。…それだけじゃ、ダメなのか?」

 複雑、複雑。と言って、黒名くんは頬をぽりぽり掻いている。私はなんだか目の前に猫じゃらしでもフリフリされているような気分になった。いいの? 飛びついちゃっても、いいの?

「どうする? 苗字」

 すっと差し出されたのは、猫じゃらしじゃなくて黒名くんの右手。そんな聞き方、ずるいと思った。どうして私に決定権があるのかもよくわからない。けれど、その手を取らない選択肢なんて、初めから存在しないのだ。

「よ、よろしくお願いします…!」

 初めて黒名くんの手に触れた。大きくて少し硬い、男の子の手だった。