02 黒名くんと手を繋ぎたい!




「名前、あんたはそれでいいの?」

 ぱちん。目の前で手を叩かれたように目が覚める。振り返ると、A子が哀れなものを見るような目で私を見ていた。

「え、何が?」

 にまにまと緩んだ頬をそのままにしていると、A子に溜息を吐かれてしまった。

「何がって…。あのねぇ…付き合うっていうのは、彼氏彼女っていうのは、お互いに好き合って初めて成立するものでしょ?」
「好き合って…初めて…」
「名前の場合は一方通行。肩書きは黒名くんの彼女かもしれないけど、実際は完全に片思いのままってこと」

 グサっと何かが胸に刺さって、ゔ…と声が漏れた。それはもちろんハートの矢なんかではなくて、鋭い図星の矢印だ。

「うぅ…でも、今はそれでも幸せなんだもん…。そりゃあもちろん、いつか好きになってくれたらいいなぁとは思うけど…」

 ちらりと窓の外を見る。朝練しているサッカー部の中から黒名くんを見つける。彼が「好きだ」と言ってくれるその時のことを想像してみたら、それだけで頬がボッと熱くなった。破壊力は最大だ。

「あーあダメだこりゃ…。まあ、お互い傷つく結果にならなきゃいいけど」

 ぽつりと呟いたA子の声は、私の耳には届かなかった。







 黒名くんと付き合ってから変わったことといえば、私から話しかける内容が他愛もないもの(昨日の夕飯が美味しかったとか、さっきの授業で当てられて答えられなかったとか)になったことと、放課後サッカー部の練習を見て、黒名くんに手を振ってから帰るようになったことくらいだ。

──サッカー優先になると思う。それでもいいのか?
──うん、もちろん!
──成立、成立。よろしくな、苗字。

 あの日、黒名くんと握手をして交わした言葉。私は何も不思議に思わずに頷いてしまったけれど、これはおかしいことなのだろうか。
 ふと、A子の呆れた目を思い出す。うーん…と唸って考えてみても、答えは出ない。私は、"哀れなもの"なのだろうか。



「苗字」

 ふと名前を呼ばれて、振り返る。教室の後ろの扉に、黒名くんが立っていた。まさかの訪問者に、私は夢か現実か確かめるようにぱちぱちと瞬きをして止まり、それからガタッと勢いよく椅子から立ち上がった。

「く、く、黒名くん…!?」

 黒名くんが私の教室に来るのは初めてのことだった。今しがた彼のことで頭を悩ませていたというのに、いざ彼を目の前にすると単純な私の心臓は素直にドキンッと飛び跳ねて、同時に心のわだかまりが何処かへ飛んでいってしまうのだった。

「どうしたの? 珍しいね…!」
「今日、部活が早く終わることになった」

 だから、一緒に帰らないか? 突然の恋人らしいお誘いに、私は「え!?」と歓喜の声をあげて、すぐにこくこくと何回も頷いた。

「帰る…!帰ります…!」
「ん。約束、約束」

 黒名くんと小指を絡める。こんな私のどこが哀れだというのだろう。幸せすぎて、今なら空も飛べそうだというのに…!





「待たせたな、苗字」

 部活動を終えた黒名くんが、駆け足でこちらにやってくる。ユニフォームからジャージに着替えた黒名くんは、首にかけたタオルでパタパタと顔を扇いでいる。制汗剤だろうか。石鹸の香りと汗の匂いが混ざって、私の鼻をいたずらに擽った。黒名くんの側にいるだけで、この心臓は簡単にドキドキと高鳴ってしまう。私は誤魔化すように「全然待ってないよ!」と大袈裟に手を振った。運動した後の彼はどこか色っぽくて、私には刺激が強すぎるみたいだ。

「苗字、家はどこだ?」
「えっと…最寄りは◯◯駅で…」
「そうか。家まで送る」
「え!? い、いいよいいよ…! 黒名くん疲れてるだろうし…!」

 「せっかく早く終わったんだから!」と慌てて諭すと、「せっかく早く終わったから、送っていくと言ってるんだが」と噛み合わないことを言われてしまった。

「彼氏だからな」

 義務、義務。と黒名くんが得意げに笑う。もちろんそんな義務はないのだけれど、黒名くんの無邪気でかわいい笑顔を前にして、私は尚も拒むことはできないのだった。



 結局、私は黒名くんと一緒に駅の改札口をくぐり抜けてしまった。家まで送る、というお言葉に甘えてしまったのだ。いつもの帰り道、いつもの電車の中に、黒名くんがいる。たったそれだけのことで、私という小さな世界のありふれた景色達が、パッと鮮やかに花開いていく。恋の力ってすごいな、とつくづく思う。

 電車に揺られる黒名くんの隣で、私はその横顔を惚けるように見つめていた。吊り革を掴む大きな手が、とても綺麗だと思った。節くれ立った関節の先で、日に焼けた厚い皮膚がほんの少しささくれている。触れてみたいと思った。手を繋いでみたい、と。そうしてじっと見ていると、ふと緋色の瞳がこちらに向けられた。

「…見すぎ、見すぎ」

 ジャージの襟に口元を埋めた黒名くんの耳が、じんわりと赤く染まっていた。そこで初めて、無意識に見惚れてしまっていたことに気付く。「ご、ごめん!」私は慌てて両手で頬を覆った。

──ガタンッ
 その時、電車が大きく揺れた。連動して人の波が揺れ動いて、ちょうど吊り革から手を離していた私は、ぐらりとバランスを崩した。

「わ、!」
「おっと」

 黒名くんが咄嗟に私の腕を掴んだ。ぐっと私を立たせる片方の手のひらに、男の子特有の力強さを感じる。

「苗字、大丈夫か?」
「うん…ありがとう」

 何事もなかったかのように、ぱっと腕が離される。そこに残った感触は、電車を降りるまで私の胸をずっと締め付けていた。





 最寄り駅の改札を抜けると、ほんの少し冷たい風が吹いていた。ここのところずっと暑い日が続いていたので、黒名くんが隣にいるということも相俟って、私はなんだか別次元の帰り道に立っているような気がした。

「少し寒いな」

 黒名くんはそう言って、捻れたリュックのショルダーにするすると指を通した。その仕草を見る振りをして、私はまた、じりじりと焦がれるような思いで彼の手を見つめていた。

「どうした?」
「え、あ、なんでもないよ…!えっと、私の家こっち──…!」

 わたわたと慌ててくるりと方向転換すると、すぐ目の前にあった車止めポールに気付かずにぶつかって、私はそのまま前につんのめった。

「わ、!」
「おっと」

 黒名くんが咄嗟に私の腕を掴んだ。ぐっと、力強い手のひら。私は、まただ…といろんな意味で顔を赤くして、「…ごめん」と伏し目がちに謝った。

「苗字はよく転ぶな…。危険、危険」

 黒名くんは困ったように笑って私の身体を引き上げると、ぱっと腕を離した。そうして仕切り直すみたいに、もう一度リュックのショルダーにするすると指を通していた。
 何度も転びそうになっているのは、彼の大きな手のひらに頭の中を支配されているからだ。私はすでに、もう早く言ってしまいたいという衝動に駆られていた。

「黒名くん、」
「ん?」
「手…繋ぎたい、です…」

 しゅるしゅると語尾が小さくなる。けれど、私の願いはちゃんと黒名くんに届いたようだ。キョトンとした真ん丸の瞳の下で、頬がじわっと赤く染まっていった。

「あ、あぁ…危ないからな…」
「はい…危ないから、です…」

 私達はぎこちなく納得して、おずおずとその手を差し出し合った。黒名くんの大きな手が、私の手に触れる。繋ぎ方に迷った瞬間がくすぐったくて、むずむずした。そうして確認し合うように、互い違いに指を絡ませていく。ぎゅっと握ると、ぎゅっと握り返してくれる、温かい手だった。

「…」
「…」

 私達は途端に会話をしなくなった。繋いだ手にばかり意識が集中してしまって、うまく頭が回らなかった。黒名くんも同じ気持ちなのかな? 彼の心を覗いてみたい気持ちになって、ちらりと横目で彼を見る。黒名くんは平気な振りをしているけれど、瞬きの回数がいつもより多くて、私は少しだけ安心した。





「じゃあ、送ってくれてありがとう」
「ん。構わん構わん」

 私の家の前で、黒名くんは「転ぶなよ」と言ってその手を離した。少し汗ばんだ手のひらを涼しい風がさらりと撫でて、心地がいいのに寂しかった。

「…黒名くん、」
「ん?」
「あの、あのね…。本当は、ただ手を繋ぎたかっただけなの。…よく転ぶからとか、そんなの全然関係なくて…」

 緊張感から解放された勢いのまま、口走る。どうして伝えたかったのかは、自分でもよくわからない。両手をそわそわと彷徨わせる私を、黒名くんはいつもみたいに真ん丸の瞳で見つめて、少しずつ顔を赤らめていった。

「苗字」
「は、はい…」
「苗字はいつも、自分の思いを真っ直ぐ素直に伝えてくれる」
「…え? えっと…うん…?」
「俺は苗字のそういうところ…好きだぞ」

 黒名くんがくれた言葉を上手く飲み込めずに、私はただただぽかんと立ち尽くした。"好きだぞ"。まるでその言葉を生まれて初めて口にしたみたいに、ぎこちなかった。黒名くんがぶわっと赤くなるから、私もつられてぶわっと赤くなる。

「…え? 黒名くん、それってどういう…」
「言わん、言わん。二度は言わん」

 黒名くんはジャージの襟に顔を埋めて隠れてしまった。それから逃げるように、「じゃ、俺は帰る」と踵を返した。私はそんな背中を見送りながら、信じられない気持ちで彼の言葉を反芻していた。
 それはきっと、恋愛でいう"好き"ではないのかもしれない。でも、それでもいいと思った。好きか嫌いかでいったら、好きの方がいいに決まってる。にまにまと頬が緩んでいく。私はどこまでも単純なのだった。