04 黒名くんとキスしたい!






「えー!? まだキスしてないの!?」
「わああーっ! 声が大きい!」

 慌ててA子の口を塞いで、辺りを見渡す。教室のど真ん中。黒名くんはいないようだ。一先ずホッと胸を撫で下ろす。

「キスなんて今時幼稚園児だってしてるでしょ」
「よ、ようちえんじ…」

 黄色いチューリップハットが頭にちょこんと乗ったような気がした。A子が大声を出すなんて、どうやら私達の恋愛事情はよっぽど普通ではないらしい。

「でもタイミングがないし…」
「そんなのいつだっていいのよ。挨拶の代わりみたいなもん」
「そんな日常的に…!?」
「おはようのちゅー、ばいばいのちゅー」
「難易度高すぎる…!」
「まぁ、おはようは学校だし無理だとしても、ばいばいならできるんじゃない?」
「で、でもでも帰り道は人いるし…家の前は嫌だし…」
「途中で公園とか行けば? ほら、ベンチに座ったりして」
「公園の…ベンチ…」

 そういえば家の近くに公園があった気がする。あんまり遊具も置いてない場所だから、人気も少ない。ベンチも…確かあった気がする。近所の公園の景色を思い出しながら、ほわわわーんと想像する。黒名くんとの帰り道、公園…ベンチで………。

「うわぁ…なんかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきちゃった…! どうしよう…!!」
「何が恥ずかしいんだ?」

 突然背後から低い声がして、「うわぁっ!?」と椅子から転げ落ちそうになる。

「くくくく黒名くん…!?」
「落ち着け、落ち着け。で、何が恥ずかしいんだ?」
「なっ、なんでもないよ…っ!」

 顔を真っ赤にさせながらぶんぶんと手を振ると、黒名くんは「そうか?」と不思議そうに首を傾げた。その仕草がまるで穢れを知らない子犬のようで、勝手に公園のベンチに座らせてよからぬことを想像してしまってごめんなさい! という気持ちでいっぱいになった。

「苗字、今日はオフなんだ。一緒に帰ろう」
「そ、そ、そうなんだ…!? うん、帰る!帰ります…!」
「約束、約束」

 チャンスはいつだって突然やってくる。私は平静を装いながら黒名くんと小指を絡めた。いつもなら純粋な気持ちで喜べるはずなのに、なんだか落ち着かなくてそわそわする。そんな私の様子を見て、黒名くんがまたこてんと首を傾げた。ああ、そんな目で私を見つめないで…!







 教室では帰りのホームルームが行われているけれど、私はずっとうわの空だった。
 キスって、どんな感じなんだろう? 唇と唇が触れ合うのだから、顔と顔がすっごいすっごい近くなるわけで…。今でも黒名くんの横顔を見るだけでドキドキしてしまう私に、キスなんて本当にできるのだろうか? 黒名くん、びっくりするかな? っていうか、そもそも黒名くんは嫌じゃないのかな…!? 私ってば自分のことばっかりで、黒名くんの気持ちを全く考えていなかった! はわわわ…と一人で慌てて、ふと気付く。 私は黒名くんとキスしたいと思ったことがある…けれど。黒名くんはどうだろう? キスしたいって、思ったことあるのかな…?


「──おーい、苗字」

 ハッと我に返る。教卓の前で先生がちょいちょいと手招きしている。すでにホームルームは終わったらしく、教室はがやがやと賑やかだった。慌てて席を立つ。

「は、はい…? なんでしょう?」

 先生が難しそうな顔をしている。「非常に言いにくいんだが…」という滑り出しに、嫌な予感がする。

「あのなー…提出してもらった週末課題なんだが…お前全然違うところやってるぞ? 範囲聞き間違えたか?」
「へ?」
「みんな今日までにやってきてるし…明日からここの応用もあるから…今日残って仕上げてってくれ。まぁ苗字は部活も入ってないし、大丈夫だろ。な?」
「へ?」


 へえぇぇーーーーーーっ!?







「うぅー…本当にごめんね黒名くん…」
「構わん、構わん。気にするな」

 黒名くんは前の席の椅子をくるりとこちらに向けて座ると、カチカチとシャーペンをノックした。嫌な顔ひとつせずに手伝ってくれるなんて、黒名くんは本当に優しい。申し訳なくて、情けなくて、穴があったら入りたいという気持ちだった。
 せっかくのオフなのに…せっかく一緒にゆっくり帰れるのに…ファーストキスのチャンスが……… ──じゃなくて! きっとこんなことばかり考えてるからいけないんだ。早く終わらせて、早く帰ろう。黒名くんの大切な時間を奪ってしまっているのだから、今は課題に集中しなくては!

「えーっと…ここが、こうで……あれ?」
「ここの関数が間違っている。たぶんこっち」
「え、あ、そっか! 黒名くんって勉強も得意なの? すごいね!」
「いや。普通、普通」

 黒名くんはそう言ってすぐに視線を手元に落としてしまった。照れてるのかな? かわいいなあ。
 英語の課題の書き写しをしてくれている手をちらりと見る。綺麗な手。私が焦がれている男の子らしい大きな手が、私のピンク色のシャーペンを握っている。たったそれだけで胸がきゅんとなる。恋って積み重ねていくものなんだなぁって、しみじみ思う。黒名くんのおかげで、私の毎日はときめきに溢れているのだ。





「ふぅー…終わったぁぁ」

 ようやく課題が全て終わった。緊張していた頭と体をほぐすように、ぐーっと背伸びをして達成感に浸る。

「頑張ったな、苗字」
「うん! 黒名くんのおかげだよ。ありがとう」
「ん、どういたしまして」

 さあ帰ろう! と教科書や筆記用具を片付けていると、不意に机の上をトントンと叩かれた。

「ん? どうしたの?」
「何か買ってやる。ご褒美、ご褒美」
「へ?」

 キョトンと目を丸くさせていると、黒名くんが「頑張ったからな。特別、特別」とこくこく頷いたので、私は思わず目を輝かせた。

「えぇーっ!いいの? 何がいいかなあ…」
「ん、何でもいいぞ」
「っていうか、私にも何か奢らせて! たくさん手伝ってもらっちゃったし…」
「いらん、いらん。俺はいらん」
「えぇぇ…それじゃあ何だか申し訳ないよ…」

 と言いつつ、すぐそこの自販機でジュースを買ってもらおうか、気になっていたコンビニの期間限定スイーツもいいなぁ…などと。すでに甘い誘惑に負けそうになりながら、ふと窓の方へ視線を移す。いつの間にか西の向こうに太陽が沈み始めていて、外はすっかり夕焼け世界だった。部活動を終えた生徒達が歩くオレンジ色の校庭に、細い影が伸びていく。キャラメルソース、アーモンド、ブリュレ……。

「あ! そういえば駅前にクレープ屋さんあった、よ、ね……」

 振り向くとぱちりと目が合って、思わず言葉に詰まる。夕陽が差し込む教室の真ん中で、黒名くんの表情が半分陰に隠れている。じっと見つめる彼の眼差しに、夕焼けのような熱を感じた。薄暗い教室の寂しさと、眩いほどの黄金と、素朴な緋色のコントラストが、うっとりするほど美しかった。

 時が止まって、それから、スローモーションのように。

 黒名くんが身を乗り出して、私の後頭部に手を回す。そうして優しく引き寄せられて、私はただ、彼が顔を傾けながら近づいてくる姿を、ぽかんと見ていた。
 そっと、唇に柔らかいものが触れて、離れて、鼻先が触れる距離でぱちぱちと見つめ合う。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……クレープ、食べに行くぞ」
「……はい」

 何が起こったのか。思考が追いついた時にはもう、黒名くんはリュックを背負って歩き出していた。

「ちょ、ちょっと待って…!」

 ガタッと勢いよく立ち上がると椅子が後ろに倒れた。「わっ!」と慌てて椅子を直す。散らばったままのノートを鞄に詰め込んで、急いで追いかける。机の脚につま先が引っ掛かって、すっ転ぶ。「ぎゃっ!」

「だ、大丈夫か苗字」
「いてて…うぅ、ごめんね黒名くん」
「すまん。危険、危険…だったな」

 慌てて駆け寄った黒名くんが、手を差し伸べてくれる。手を重ねてついと見上げた彼の頬は本当に真っ赤で、耳まで真っ赤で、夕焼けに溶けてしまいそうだった。そしてそれはきっと私も同じ、なんだと思う。