03 黒名くんと両思いになりたい!




「黒名くんって、もう名前のこと好きなんじゃないの?」

 A子はそう言って、紙パックのストローをちゅーと吸った。最近、私の心の中にひっそりと生まれた微かな期待を、A子はさらりと口にしてしまった。

「そ、そうかな…?」
「ほら、名前もちょっとそう思うんでしょ?」
「うーん…」
「ただの気まぐれで付き合ったとして、ここまで続くもんかね」

 黒名くんと付き合って3ヶ月が経った。二人の世界には喧嘩やトラブルなんて言葉は存在せず、まるで温かいお茶でも飲んでホッとするような、平和で穏やかな関係だった。

 しかし忘れてはいけないのは、そもそも私は片思いなのだ、ということ。片思いのまま始まったお付き合い。一方通行。最初はそれでも幸せだった。けれど、一緒に過ごしていくうちに黒名くんの気持ちが気になるようになってしまった。黒名くんは私と付き合っていて幸せなのかな? このままでいいのかな?
 そうしていつの間にか私は、彼が私のことを好きなのではないかという理由を必死に探すようになった。部活が早く終わる日はいつも家まで送ってくれるし、手を繋いでくれるし、かっこいいと褒めれば照れて顔を赤くしてくれるし…。そうやって、無理矢理に自信をつけていた。生まれてしまった、わがままで欲張りなもう一人の自分を納得させるために。

「聞いてみたら? "私のこと好き?"って」
「そ、そんなこと聞けないよ…!」
「じゃあ、ずっとこのままでいいわけ?」
「ゔ…それは…」
「今日一緒に帰るんでしょ?」

 その時に聞いてみなよ。とA子は簡単に言うけれど、その質問は私にとって、生きるか死ぬかの大勝負になる。賭けに出て、この穏やかな幸せを失うくらいなら、私はずっとこのままでいい。いつの間にかぬるくなったお茶をちびちびと啜ったまま、いつまでも気づかない振りをしていたいのだ。





「苗字、具合でも悪いのか?」
「えっ、な、な、なんで?」
「元気がない」

 放課後、教室に迎えに来てくれた黒名くんが早々に私の顔を覗き込んできたので、心臓がキュッと縮みそうになる。「そ、そんなことないよ!」と大袈裟に首を振ってみても、黒名くんは「そうか…?」と更に眉を顰めるだけだった。

「俺にできることがあるなら言ってくれ」

 黒名くんはいつだって優しいけれど、まさか"じゃあ、私のこと好きになって!"だなんて、口が裂けても言えない。このままの関係でいいと振り切ったり、でもやっぱり…とうじうじしたり、恋する乙女は忙しいのだった。

「大丈夫だよ、ありがとう黒名くん。帰ろっか」

 取り繕うように鞄を背負い直す。黒名くんは「ん」とだけ言って、それ以上は何も追求してこなかった。





「あ」

 階段の踊り場で、私はあることに気付いて青ざめた。

「どうした?」
「お弁当箱…忘れた…」

 黒名くんはぱちくりと瞬きして理解すると、「戻ろう」となんてことない顔で言った。

「ううん! すぐそこだし、私行ってくる!」

 否応なしに階段を駆け上がる。その時、「おい、苗字」という黒名くんの声に被せて、誰かが私の名前を呼んだ。

「おー、苗字。ちょうど良かった」

 階段の上に視線を向けると、担任の先生が嬉々として私を見下ろしていた。

「今日、日直だろ? 日誌に名前書いてなかったぞ。コメントも書いてから帰れよー」

 先生の言葉に、私はあんぐりと口を開けて、愕然としてしまった。わ、忘れてた…。いろいろ考え事をしていたせいで、いろいろ忘れてしまっていたようだ。
 「職員室に置いてあるからなー」先生はひらひらと手を振って行ってしまった。念を押されたのだ。知りませんでしたという言い訳はもう通用しそうにない。ああ…黒名くんとの大事な時間が…と絶望していると、「苗字」と黒名くんが私の名前を呼んだ。

「弁当箱は俺が取ってくるから、苗字は日誌を書いてこい」
「えっ…で、でも…」
「効率、効率」

 黒名くんはこくこくと頷いて、職員室の方を指差した。黒名くんはどこまでも優しい。私は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいで、「うう…ありがとう黒名くん」と言って、およよよと涙を流す勢いだった。



 結局、職員室で日誌を仕上げていたら、ちょっとプリントコピーしてきてだの、倉庫からホッチキスの針取ってきてだの、あれこれ雑用を押し付けられて少し遅くなってしまった。きっと黒名くんは廊下で待ちくたびれているだろう。そう思って慌てて職員室を飛び出してみても、廊下にその姿はなかった。(あ、あれ…!?帰っちゃった!?)と一瞬焦ったけれど、彼がそんな冷たい人間ではないということは、私が一番良く知っている。お手洗いかな? と思って数分待つ。しかしやってくる気配はない。私は不思議に思いつつも、自分の教室へ行ってみることにした。


 教室の前までやってきて、閉められた扉のガラス越しに黒名くんの後ろ姿を見つけて、一先ずホッとする。そうして扉に手をかけて開けようとした時だった。ハッと息を呑んで、手を引っ込める。教室の中に黒名くんともう一人、人影が見えた。見間違いでなければ、あれは…学校のマドンナと呼ばれているB子さんだ。彼女のクラスはひとつ上の階のはず。なぜ私の教室に? どうして黒名くんと二人きりで?
 ──なんて。考えなくてもすぐに分かった。それは何故か。私も、黒名くんのことが好きだからだ。ガラス越しにだって、この部屋の空気感が伝わってくる。

 ──告白、だよね。

 私は身を潜めて、気づかれないように踵を返した。






「待たせてすまん、これで合ってるか?」

 職員室の前で待ちぼうけしていると、黒名くんがお弁当箱の入った巾着を手渡してくれた。「ありがとう、黒名くん」と言って受け取ると、彼はまた私の顔を覗き込んできた。

「苗字、やっぱり具合悪いのか?」

 私は息の詰まる思いで首を振った。「ううん、そんなことないよ」と。今度は大袈裟に否定することができなかった。上手に笑えるようになるには、もう少し時間が必要だった。彼が職員室の前までやって来る時間は、あまりにも短すぎた。あまりにも突然の出来事で、あまりにも、苦しい。







「苗字」「おい」「無視するな」

 あれから黒名くんに引き止められる度に、刺されたみたいに心臓がズキンと痛くなる。私は彼を避けてしまっていた。「黒名くんがかわいそうだよ」とA子には怒られたけれど、本当にそうだと思う。私なんかに振り回されて、黒名くんはかわいそうだ。最初から最後まで、本当にかわいそうだ。でも、もう少し待ってほしかった。私の心の準備ができるまで、もう少しだけ。




「──苗字。次、体育じゃねーぞ?」

 ハッと我に返る。クラス中の視線が私に集中していた。「え、あ、あれ…」おどおどと辺りを見渡していると、声をかけてきた男子が堪え切れずに吹き出した。

「ぶはっ! だっせぇ〜恥ずかしいやつ!」

 くすくすと笑い声が聞こえて、ようやく状況を理解した。時間割を勘違いしてジャージに着替えてしまったのだ! 私の顔はたちまち真っ赤になった。ドジで、忘れっぽくて、夢中になると周りが見えなくなって、自分が本当に嫌になる。とはいえ、大声でからかってきた奴は気に食わない。私はいまだに笑っているそいつをキッと睨みつけた。

「もうっ! 笑いすぎだよ、バカ!」
「お前にバカって言われたくね〜! 苗字って本当にバカっつーか、抜けてるっつーか…」
「うるさいっ! 最低っ!」
「うわ〜! 苗字が怒った!殴ってくる〜怖い怖い助けて〜!」

 私は羞恥と苛立ちと、ついでに黒名くんとの関係がうまくいっていないことに対しての不満とか、最近むしゃくしゃしてることも全部、持っていたタオルに詰め込んで奴を叩いた。完全に八つ当たりである。奴は全然反省しておらず、尚も私をおちょくってくる。それがムカついて、バカみたいで、ちょっと遊び半分でタオルの綱引きを始めた時だった。

「苗字」

 後ろから、不意に名前を呼ばれる。振り返ると、黒名くんが教室の後ろの方に立っていた。

「あ…」

 声を失った。私の背筋に沿って、ひやりと嫌な汗が流れた。それは黒名くんを避けていたことに対する気まずさからか、黒名くんが怒っているように見えたからか、わからない。とにかく、私は脇目も振らずにずんずんと近付いてくる黒名くんからちっとも目を逸らせずに、完全に固まってしまったのである。奴を含め、クラス中が一斉にしんと静まり返っていた。

「解散、解散。ちょっと来い」

 黒名くんが私の腕を掴む。いつか感じたような力強さだった。ぐいっと引っ張られて、腕が痛い。有無を言わさず無理矢理教室の外に連れ出される。足がもつれそうになる。「く、黒名くん」必死に絞り出した声に、彼は何も答えてくれなかった。

 誰もいない空き教室までやってきて、黒名くんは初めて私を解放してくれた。

「苗字」
「は、はい…」
「どうして俺を避ける」
「避けて…ない…」
「いらん、いらん。嘘をつくな」

 冷たい声色にびっくりして彼を見上げると、それと正反対に燃えるような、夕焼けのような瞳が、じりじりと私に迫っていた。

「わ、わたし」
「ん」
「黒名くんが、好き」
「……だったら、なんで」

 張り詰めた空気が少し緩んで、向けられた眼差しに呆れたような切ない色が混ざった。けれど、どこか温もりを感じる瞳だった。やっぱり、黒名くんはどこまでも優しい人だと思った。

「別れたく、ない…」
「…は?」

 声を震わせながら本当の気持ちをぽつりと零すと、それを皮切りにぼろぼろと涙が溢れてくる。黒名くんは一瞬ぽかんとして、それから泣きじゃくる私を前にどうしたらいいかわからないというように、おろおろと戸惑いながら優しく背中に触れた。

「落ち着け、落ち着け。俺がいつ別れたいと言った」
「っ…い、言ってないけど…だって、告白されてたでしょ…? B子さん…すごくお似合いで…わたし…っ」

 黒名くんはまた、「…は?」とキョトンとして、それから思い出したように、「あー…見ていたのか…」と小さく呟いた。

「確かに告白された。でも、俺には苗字がいるだろ」
「そ、そんなの…」

──いつだって、解消できる関係でしょ?
 なんて。恐ろしくて、とても口にはできない。

「断った。当然、当然。俺は苗字が好きだからな」

 黒名くんの言葉を、ぐちゃぐちゃの頭で受け止めた。"好きだから"? それって、どういう意味の"好き"?

──俺は苗字のそういうところ…好きだぞ

 いつか、黒名くんがくれた言葉を思い出す。あの時、私はどうして喜んでいられたのだろう。恋愛としての"好き"じゃなくてもいいと、どうしてそう思えたのだろう。今は、その言葉が逆に私を苦しめる。私の"好き"と黒名くんの"好き"が、同じものであってほしいと、どうしたって望んでしまう。気づかない振りをしていたら、寧ろ執着するように膨れ上がってしまって、胸が痛い。もう諦めよう。逃げるのはこれでおしまいだ。

「好きってなに…?友情、同情…? 私もう…黒名くんを縛りつけたくないよ」

 もう後戻りはできない。私はぐすぐすと鼻を啜りながら、初恋の悲しい結末を受け入れる覚悟を決めていた。

 「苗字」

 黒名くんが私の名前を呼ぶ。その声があまりにも優しくて、私は顔を上げることができなかった。

「さっき……無理矢理連れ出して悪かった」
「…うん」
「腕、大丈夫か?」
「…うん」
「その、なんだ。……苗字が他の奴と楽しそうにしてるのは…見ていられない」

 ぐしゃぐしゃの泣き顔をついと持ち上げる。ぱちりと目が合った。慌てて視線を逸らした彼の耳が、ほんの少し赤いような気がした。

「く、くろ、」
「無視するな。俺から逃げるな。…傷つくだろ。しかも他の奴とは普通に話して…傷心、傷心」
「え、あ、ごめ」
「しかもなんだ、あんな風に笑って、戯れあって……俺はあんな苗字、知らないぞ」

 黒名くんがムスッと口を尖らせて、拗ねている。初めてみる、黒名くんのこんな表情。負けず嫌いで強がりの、小さな男の子みたい。こんな状況なのに、私は胸をきゅうっと掴まれた気がした。

「俺は恋をしたことがないから、よくわからないんだが」

 黒名くんが頬を赤く染めながら、一生懸命に言葉を繋いでくれる。身体の奥の方からじわじわと温かいものが溢れてくる。押し込めていた感情が溶けていくような感覚だった。

「苗字。お前ならこの気持ち、わかるだろ」

 黒名くんの頬の色が移ってしまったみたいに、私の頬も赤く染まっていく。じとっとした視線を向けられて、鼓動が速くなる。手が、震える。

「黒名くん……」
「ん」
「黒名くん、…わ、私のこと、好きなの…?」
「…ん」
「友情でも、同情でもなくて、恋愛としての、好きってこと…?」
「…そうだな」

 涙が一筋頬を伝って、温かい。信じられなくて、夢を見てるみたいで、私達は見つめ合ったまま動けなかった。

「黒名くん……好きって、言って…」

 黒名くんがびくっと目を見開いて、瞳孔がキュッと細くなる。びっくりした時の、猫みたいだった。

「………好きだ」

 ぼそっと呟かれた、小さな小さな告白。私なんかよりもずっとずっと真っ赤な顔が、愛おしくてたまらない。気付けば彼を抱きしめていた。

「黒名くん、ほんと…? 嘘じゃないよね? わたし、嬉しい…ほんとに、ほんと?」
「………二度は言わん」
「わたし、黒名くんが好き…っ世界で一番、好きっ…!」

 また涙がぼろぼろと止まらなくなったけれど、今度は悲しい涙なんかじゃない。幸せな気持ちが溢れて、止まらなかった。

「……苗字はよくそんな恥ずかしいこと平気で言えるな…俺には無理だ」

 呆れたような黒名くんの声。クールだけど優しくて、ちょっぴり照れ屋な黒名くんが好きだ。私は、私達は、初恋を叶えたんだ。どうか目の前にいる彼が幻じゃありませんように。確かめるようにぎゅっと力強く抱きしめると、おずおずと背中に回された手がぎゅっと確かに、私を抱きしめてくれたのだった。