07 黒名くんと花火大会に行きたい!



番外編
(#3 と #4 の間くらいのお話)



「花火大会、一緒に行きませんか…ッ!」

 汗ばむ手のひらでスカートの裾をぎゅっと握りしめる。黒名くんの顔もまともに見れないまま祈るように頭を下げると、しばしの沈黙にドキドキと高鳴る私の心臓の音だけが響いていた。

「…わ、わかったわかった」

 わかったから、となぜか慌てている黒名くんの様子にも気付かずに、私は彼が頷いてくれたことだけがただ嬉しくて、パッと勢いよく顔を上げた。

「ほ、ほんと!?」
「あぁ、だから苗字…」

 決まりが悪そうに身を縮こまらせた黒名くんが、ちらりと鮫歯が覗くその口元に人差し指を立てている。

「…声が、大きい」
「へ?」

 赤らんだ頬を誤魔化すようにこほんと咳払いをした黒名くんにつられて辺りを見回すと、いつの間にかクラス中の視線が私達に刺さっていた。



#7



 約一万発の花火が打ち上げられる地元の花火大会はこの近辺では人気が高く、毎年多くの人が集まってそこそこの混雑になる。

 私は履き慣れない下駄をカランコロンと鳴らしながら、待ち合わせ場所に向かう道をもどかしく歩いていた。きゅっと巻かれた帯に気を引き締めて、転ばないようにとゆっくり歩いていたら待ち合わせの時間を少し過ぎてしまったのだ。
 目印の時計台が見えてきた。首を左右に振ってキョロキョロと辺りを探していると、その特徴的な赤髪はすぐに私の世界に飛び込んできた。

「黒名くん…!」

 大好きな人の名前を呼ぶ。人混みの中で黒名くんを一番に見つけることができるのは、いつも自然と彼を目で追いかけている私の得意技だ。

「ごめん、ちょっと遅れちゃった…!」
「苗字…」

 カラコロと頼りない下駄の音を鳴らしながら駆け寄ると、黒名くんはぽつりと私の名前を呼んだきり口を閉ざして何も言わなかった。も、もしかして怒ってる…!? 「ごごごごめん、何か奢ります…!」と切実な気持ちで両手を合わせて見上げると、キョトンと大きく開かれた猫目とぱちりと目が合った。

「いや、全然、別に、いい…」

 ぎこちなくぼそぼそと呟いた黒名くんの頬は少し赤く染まっていた。どうやら全く怒っていなさそうなその様子にホッとして気が緩むと、幸せな気持ちだけが溢れてきた。
 大好きな黒名くんと一緒に花火を見れるなんて夢みたいで、嬉しくてついついえへへと笑みがこぼれる。黒名くんはきゅっと口を結んで背筋を伸ばしているように見えた。

「あ、黒名くん甚平だ!」
「…苗字が浴衣着てくるって言ってたから」
「合わせてくれたの? ありがとう」

 制服やユニフォーム姿しか見たことがなかったから、なんだか新鮮だった。シンプルなグレーの甚平を着こなしている特別な彼の姿に、胸の奥からキュンと単純な音が鳴った。
 きっと黒名くんは何でも似合ってしまって、私はその度に恋に落ちる魔法にかけられているのだと思う。

「あの、すごく似合ってる…! かっこいい!」
「ん…ありがとう」
「あ、でもでも黒名くんは制服姿もかっこいいし、ユニフォーム姿もかっこいいし、もはや何着ててもかっこいいっていうか…!」

 急に恥ずかしくなってペラペラと喋り出した私を制するように、黒名くんが「…苗字」ともう一度私の名前を呼んだので、私はしまったと口を噤んで「ご、ごめん…!」と更に顔を真っ赤にして俯いた。

「……苗字も、その、」
「え?」
「か、かわ……」

 私の熱が移ったみたいに頬を赤らめた黒名くんが、何か言いかけて口ごもる。首を傾げて見上げると、ふと逸らされた視線が浴衣に落ちた。
 黒名くんと花火大会に行く約束をしてから、A子に相談してたくさん悩んで選んだ浴衣に、こっそりお揃い気分で緩く結んだおさげの三つ編み。「似合うかなぁ…」とうじうじする私に「きっと喜ぶよ」と背中を押してくれたA子の言葉を思い出すと、ほんの少しだけ自信を持って彼の前に立てるような気がした。

「えへへ、似合ってる?」

 控えめに袖を広げて見せてみると、黒名くんはビクッと肩を揺らして、大袈裟にこくこくと頷いてくれた。ちらりと見えた耳が赤く染まっていたのは、きっと見間違いなんかじゃない。
 私は照れ隠しにもう一度笑って、それから「行こ!」と大好きな人の手を引いて歩き出した。





 どこか寂しさ漂う夏の黄昏時。今日の商店街は賑やかだった。軒並み屋台に溢れた活気や、祭囃子の笛の音。ぶら下がった紅白の紙提灯が行き交う人々の頬を暖かく照らし、誰も彼もみんな自然と心が弾んでいるように見えた。

「黒名くんお腹空いた?」
「腹ペコ、腹ペコ」
「ね、私も!」

 屋台の前を通るたびに美味しそうな匂いが漂ってきて、私達は同時にぐうっとお腹を鳴らした。花火があがるまで、まだまだ時間はある。

「焼きそば食べたい! あとイカ焼きと冷やしきゅうりと、かき氷も食べたいし…」
「…そんなに食べられるのか?」
「うぅ……でも全部美味しそうなんだもん」
「俺と分けよう」

 半分こ、半分こ。いたずらっぽく笑う黒名くんも私と同じでいろんなものを食べたいみたいだった。息を合わせてうんうんと頷いて、二人で笑い合う。私達は屋台ののれんを見上げながら、賑わう人混みの中を並んで歩いた。
 何食べよっか。あれもいいね、これもいいね。そんな話をしているだけで、どうしてこんなにも楽しいのだろう。黒名くんと一緒にいると、なんてことない会話も特別な思い出に変わる。
 どちらからともなく手を繋いだのは、自然な流れだった。





 座って食べられるところが空いてなかったので、結局土手の方まで来てしまった。打ち上げ花火がよく見える定番のスポットなのですでにたくさんの人が場所取りをしていたけれど、二人分のスペースを確保するにはまだまだ十分余裕があった。

「美味しいね」
「ん。美味い、美味い」

 焼きそばを交互に食べて、イカ焼きを一口ずつ齧る。冷やしきゅうりは歩きながらペロリと食べてしまったけれど、お好み焼きの屋台のおじさんが通りすがりの私達に「お似合いのカップルだね」なんて声をかけてくれたものだから舞い上がって、結局まんまとお好み焼きまで買ってしまったので、きっとお腹はパンパンになるだろう。

「ベビーカステラ、一個食べちゃおうかな…」
「…家族にお土産って言ってなかったか?」
「い、一個だけだもん」

 ギクリと肩を揺らすと、黒名くんがぷっと吹き出した。「苗字は食いしん坊だな」なんて言って、おもしろそうに笑っている。恥ずかしさと不意打ちの笑顔にやられて、私はぶわっと熱くなる。そうしてベビーカステラの紙袋を膝に抱えて小さくなっていると、ぽんぽんと優しく頭を撫でられる。

「一個だけだぞ」

 小さい子どもを宥めるような優しい瞳。思わず胸がときめく。黒名くんが表情をころころ変えるたびに、私の恋心はぐるぐると振り回されるみたいだ。

「さ、先に焼きそば食べてからにする…!」

 赤くなった頬を隠すように横に置いておいた食べかけの焼きそばに手を伸ばすと、動揺した指先が割り箸を弾いた。「「あ」」と二人の声が重なって、芝生の上にコロンと割り箸が落ちた。

「わ、私、割り箸もらってくる…!」
「いや、問題ない。俺のを使えばいい」

 黒名くんがなんてことない顔で割り箸を差し出してくるので、「え」と固まった私が頬を赤らめてじっと見つめていると、キョトンとしていた黒名くんもじわじわと顔を赤くして、それからわなわなと震え出した。

「な、なんで今更そんな反応するんだ」
「ごごごごめん…っ!」

 イカ焼きを食べる時もきゅうりを食べる時も大丈夫だったのに、改まって差し出されると意識してしまってダメだった。私達は今更、本当に今更恥ずかしくなって、ぎこちなく視線を合わせていた。

「あ、えっと、なんか飲み物取ってくる…!」

 ぷしゅーっと湯気が出てしまいそうで、とにかく言い訳を見つけてこの場から立ち去りたかった。耐え難い空気を断ち切るように勢いよく立ち上がって逃げるように背を向けると、黒名くんがそれを拒むように私の腕を掴んだ。

「心配、心配。俺も行く」
「え…!?」
「一人で行かせられん」
「す、すぐそこだし大丈夫だよ。転ばないように気をつけるから…」
「……そうじゃなくて」
「え?」
「……苗字は、その、か、かわ…」

 何か言いかけた黒名くんが口ごもって、「…とにかくダメだ、俺も行く」と譲らないので、私はしぶしぶ頷いた。
 この熱を冷ますために一人で風に当たりたかったのだけれど、黒名くんが気遣ってくれたことはシンプルに嬉しかった。私は結局熱くなった頬を誤魔化せないまま、黒名くんの隣に並んで元来た道を引き返したのだった。





 冷たい氷水の中からよく冷えた瓶ラムネを取る。ドキドキしながら飲み口を押し込むと、ソーダの中にカラン、とビー玉が落ちた。

「わ、!」

 しゅわしゅわと溢れそうになる泡に慌てて口を付けると、黒名くんがふっと笑った。同じようにビー玉を押し込んだ黒名くんのラムネは大人しい。「こういうのはコツがいるんだ」と得意げに笑う黒名くんは少年のように無邪気で眩しかった。

「冷たくて美味しいね」
「ん、そうだな」

 しゅわしゅわと弾けるソーダの匂いはどこか懐かしい。一口飲むたびに揺れるビー玉の音に耳を澄ます。さっきまで二人が馴染んでいた人混みをぼんやりと見つめてじっとりと汗ばんだ額を拭うと、不意に片方の三つ編みがさらりと風に靡いた。

「あ、あれ…!?」
 はらりと解けた髪を咄嗟に押さえる。

「どうした?」
「三つ編み、解けちゃったみたい…」

 慣れないヘアアレンジを頑張ってみたけれど、どうやら失敗だったらしい。涙目でキョロキョロと足元を見回してもヘアゴムは見当たらなかった。歩いている時に落としてしまったのだろうか。

「苗字、こっち、こっち」

 いつまでも探し回っていては他の人の邪魔になってしまう。見兼ねた黒名くんが私の手を引いて路地裏の小道に連れ出した。

「黒名くん…?」

 人気が少ないところまで来て、立ち止まる。情けない髪型のままぽかんと見上げていると、黒名くんが自分の三つ編みをしゅるりと解いて、その手で私の髪を優しく掬い上げた。

「俺が、結んでもいいか?」
「…えっ、」

 戸惑う私の返事を待たずに黒名くんが近付いてくる。突然の距離感にびっくりして少し後退っても、至って真剣な眼差しが私の髪に絡みついて離れない。髪の間をすり抜ける指先がくすぐったくて、どぎまぎしてしまう。

「くくく、黒名くん、の三つ編み…いいの?」
「俺はいい、苗字は女の子だろ。それに…」

 悲しんでる顔は見たくない。そう言って、顔色ひとつ変えずに三つ編みを編んでくれる黒名くんの言葉を、私は確かめるように何度も繰り返していた。そして、黒名くんの視線が指先に集中していて良かったと、心から思っていた。

「──できた、できた」
「ありがとう…」
「ん、そろそろ戻ろう」

 いつも結ばれている黒名くんの髪が風に靡く。見惚れて、私は無意識に三つ編みを撫でていた。「どうした? 苗字」心配そうに振り返る彼の指先の温もりが、まだそこに残っているような気がした。

「黒名くん、あのね…」
「ん?」
「黒名くんといると、暑くても、たくさん歩いても、割り箸落としても、三つ編みが解けてもね、全部全部幸せな思い出に変わるの」

「…だから、いつもありがとう」
 溢れる思いを伝える。少し恥ずかしいけれど、それ以上に彼のことが好きだから。
 私は照れ隠しに笑って、そわそわと行き場のない手でもう一度三つ編みを撫でた。

「だ、だからこの三つ編みも嬉しくて、もう一生解きたくないくらい幸せっていうか…」
「──苗字、」

 黒名くんの温かい手のひらが私の手を取るから、私は口を噤んだ。黒名くんが優しく名前を呼ぶたびに、私はいつもドキドキしてしまう。

「俺も、今日…すごく楽しい。誘ってくれて、ありがとう」
「う、うん…」
「それで、ずっと言えなくて、今日…ずっと言いたかったことがあるんだが、」
「…うん?」
「……苗字、その、今日すごく、か、かわ──」

 ──ブツッ……

 突然、商店街に設置されたスピーカーにノイズが走る。

『…まもなく、打ち上げ花火があがります…会場へ向かう際は、走らず、ゆっくりとお進みください…』

 聞こえてきたアナウンスに、思わずぎょっとする。

「え、え、もうそんな時間…!?」

 黒名くん、早く行かなきゃ! と慌てて手を引いたけれど、黒名くんは何故か固まってしまって動かない。「黒名くん!」もう一度名前を呼ぶと、ハッとした黒名くんが「す、すまん」と我に返って、それから私達は早足で土手の方へ向かった。






「はぁ…っ間に合って良かった…」

 空いていたスペースに腰を下ろして、息を整える。慣れない下駄でちょこちょこと早歩きしていたら何度か転びそうになってしまって、その度に黒名くんに助けてもらった。
 「ごめんね黒名くん…」改めて隣をちらりと見上げると、ちっとも息のあがっていない黒名くんが「気にするな」と微笑んでくれた。何だかさっきからソワソワしているような気がするけれど、気のせいだろうか。

 ふっ、と照明が落とされる。暗闇に包まれた会場から、わっと期待の歓声があがって、それからしんと静かになる。花火が打ち上がる前の、この雰囲気が好きだ。私はわくわくしながら夜空を見上げた。


『打ち上げ花火、スタートです!』


 ひゅるるる……口笛のような音と共に一筋の光が昇っていく。

 「たーまやー!」
 元気よく叫んだ子どもの声に、会場は温かな笑顔に包まれていた。

 ドンッ…と破裂音が心臓を震わせると、夜空いっぱいに鮮やかな花火が煌めいた。そして、次から次へと打ち上がる。
 今年も始まった。大好きな夏、花火大会。特別な日に黒名くんと一緒にいられるなんて、私は本当に幸せ者だ。

「黒名くん、花火きれいだ、ね、…」

 ふと横に目を向けると、まるで花火なんて見ていない黒名くんとぱちりと目が合った。その眼差しに、どきりと胸が高鳴る。状況を理解できないままぱちぱちと瞬きをして、見つめ合う。

「苗字、」

 黒名くんの頬を、瞳を、色とりどりの光が照らしている。


「今日、その、すごく……かわいい」

「えっ…」

 情けなく零れた私の声が、花火の音に掻き消された。
 まるで時が止まったかのように見つめ合う私達の向こう側に、息つく間もなく花火が打ち上がっている。

「あ、あ、ありがとう…」
「……ん」

 はくはくと口を動かすと、黒名くんは胡座の上で頬杖をついて、その頬を隠すように花火を見上げた。なんだか急に素っ気ない。けれど、赤く染まった耳が丸見えだった。

「えへへ、黒名くん…えへへ」

 にやにやが止まらない私をちらりと横目で見た黒名くんが「……花火、花火」とぶっきらぼうに促してくる。

 けれど、どうしよう。愛しくて堪らなくて、もう花火なんてどうでもよくなっちゃったよ。