08 黒名くんにクリスマスプレゼントをあげたい!



(番外編)


──10月某日。

「寒くなったねぇ」

 テイクアウトしたカフェラテを一口含むと、A子はほうっと息を吐いた。私は買ったばかりでまだ熱いココアをふうふうと冷ましながら「そうだねぇ」と頷いて、ゆらゆらと昇る白い息を眺めていた。
 秋も半ばになると立ち並ぶ店もすっかり冬支度を始めて、どこか浮かれているように見える。すれ違う恋人達はみんな幸せそうに肩を寄せ合っているものだから、私はなんだか無性に黒名くんに会いたくなった。

「もうそんな時期かー…」

 ふと、A子が足を止める。アパレルショップのショーウィンドウ。クリスマスツリーに、きらきら光るオーナメント。「クリスマスが今年もやってくるねぇ」A子が定番のCMソングを他人事のように呟くから、私も他人事のようにツリーを見上げた。

「綺麗だねぇ…」

 どちらともなく呟いて、それからなんとなく目を逸らした先に、メンズのマネキン。大人っぽいロングコートを身に纏った彼の、首元に巻かれたえんじ色のマフラーに、私の目は一瞬にして奪われてしまった。

「ねぇA子……!」
「うん?」
「このマフラー、黒名くんにすっごく似合うと思わない!?」

 期待に満ちた瞳でキラキラと同意を求めると、A子は眩しそうに目を細めた。

「あー…うん、そうね?」
「うわぁ、どうしよう…! もう絶対かっこいいもん…!」

 マフラーに口元を埋める黒名くんの姿を想像するだけで、胸がキュンとときめいてしまう。そうしてしばらく一人で悶えていると、A子が何か思いついたように「あ」と声をあげた。

「クリスマスプレゼント、っていうのはどう?」
「え?」

 目を丸くさせていると、A子がもう一度「クリスマスプレゼント」と言って、「まさか何も考えてなかったわけじゃないでしょ?」と呆れたように眉をひそめたので、私は思わずハッと息を呑んだ。そうか…! 世のカップルはクリスマスプレゼントを交換するものなのか! これまで自分には縁のなかったイベントを、今年もうっかりスルーしてしまうところだった。何せ黒名くんは人生で初めての彼氏だから、何もかもが初めてで、何もかもが新鮮なのだ。

「このマフラー、黒名くんにプレゼントしたい…!」

 このあいだ一緒に歩いた帰り道で、黒名くんはジャージの襟に口元を埋めて寒そうに息を吐いていた。マフラーなんて、クリスマスプレゼントにぴったりじゃないか! 私はA子を引っ張るようにして店内へ入ると、改めてそのマフラーをまじまじと見つめた。シンプルで落ち着いた色合いがやっぱりますます黒名くんに似合うようで、もう他の物は目に入らないくらいだった。

「私、これ買う…!」

 衝動的にマフラーを手に取ると、A子は「え、今!?」と驚いていたけれど、そもそも私は一目惚れしてしまったらいてもたってもいられないタイプなのだ。もうこれ以外には考えられない。

「あんた、お金持ってるの?」
「え?」

 ふと手元のマフラーに視線を落とすと、ひらりとタイミングよく値札が舞い降りる。そこにはゼロが4つ、並んでいた。見慣れない世界に目をこする。首にぶらさげたカエルのがま口財布を開いてみる。千円札が1枚しか入っていなかった。

「……」
「……」

 A子が哀れなものを見るような目で私を見ている。けれど、なんだか運命的な出会いをしてしまったこのマフラーを、私はどうしても諦めることができなかった。

「……決めた」
「え?」
「私、アルバイトする!」





「──ということで、黒名くん。私、アルバイトをすることになりました!」
「いやに突然だな」

 黒名くんは私の勢いに圧倒されて目を丸くしていたけれど、何を思ったのかすぐにハラハラと顔を歪めた。

「苗字があのファミレスで働くなんて、心配、心配」
「大丈夫だよ、家から近いし!」

 自信満々に答えてみたけれど、黒名くんは「そうじゃない」と言いたげに遠い目をしていた。
 私がアルバイト先に選んだのは、自宅の近くにあるファミレスチェーン店。帰り道に何度か一緒に行ったこともあるから黒名くんもよく知っている場所だ。誰でも気軽に入れて、店内はいつも賑わっている。「忙しそうだなあ」なんて店員さんを目で追っていた時もあったけれど、いよいよ自分もそちら側になる時が来たのだ。私はやる気に満ち溢れていた。黒名くんのためなら何でも頑張れる気がする。

「しかし何でまた急にバイトなんて……欲しいものでもあるのか?」
「え!? えっと、そ、そうなの…! ちょっとどうしても欲しいものがあって…!」

 へらへらと笑って誤魔化すと黒名くんは不思議そうに首を傾げたけれど、それから深く追及してくることはなかった。ひとまずホッと胸を撫で下ろす。
 今回のことはサプライズにしたかった。「黒名くんにクリスマスプレゼントをあげるためです!」──なんて宣言してしまったら味気がないし、きっとそんなことを知ったら黒名くんは全力で引き止めてくるに違いない。
 いつだって優しくて、私を大切にしてくれる黒名くん。そんな彼に私は感謝を伝えたい。ありがとうや大好きなんて言葉じゃ伝えきれないくらいの思いを、プレゼントに込めて贈りたい。そのためにもまずはお金が必要なのである。
 高校一年生、苗字名前。お小遣いは月5,000円。友達と気軽にカフェに行きたいし、プリクラも撮りたいし、カラオケにも行きたい。そして大好きな彼氏にクリスマスプレゼントも贈りたい。貴重な青春時代を謳歌するために、人生で初めてのアルバイト頑張るっきゃない!





──11月某日。


──ガチャンッ!

「わーッ! ごめんなさいッ!」

 アルバイトは試練の連続だった。覚えることもたくさんあって、毎日てんやわんや。私は今日も元気にグラスを割ってしまった。

「名前ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫です…! すみません…」

 幸いバイト先の人はみんな優しくて、いつも新人の私を気にかけてくれる。私はほうきでグラスのカケラを集めながら、先輩にぺこりと頭を下げた。

「いいよ。怪我したら大変だから、ここは俺が片付けておくね」
「ええっ…!? そんな、でも…」

──カランッ

 入店のベルが鳴り、ちょうど入り口の近くにいた私は咄嗟にパッと顔をあげた。

「いらっしゃいま、……!」

 そして、視線の先にいた人物を見て、思わず声をあげてしまう。

「黒名くん…!」
「……苗字」
「どうして黒名くんがここに…!? もう部活終わったの? わざわざ来てくれたの?」
「ああ、苗字が心配で…。でも大丈夫…じゃなさそうだな」

 大きなスポーツリュックを背負った黒名くんが、床に散らばったガラスに視線を落とす。一番カッコ悪いところを見られてしまった私はガーン!とわかりやすくショックを受けて、項垂れる。うう、黒名くんが来てくれたのは嬉しいけれど、なんてタイミングなの…。

「じゃあ、裏に捨ててくるよ」
「あ…! すみません、先輩。ありがとうございます」
「いいよ、名前ちゃんは案内してあげて」

 先輩はほうきとちりとりをテキパキと片付けると、颯爽と去っていった。いつも助けてくれる、優しくて面倒見の良い先輩。あとでちゃんとお礼を言わなくちゃ…。

「先輩?」
「あ、うん。私達と同じ高校の3年生なんだって。黒名くん、知ってる?」
「いや…」
「すっごく優しくて、いい人なんだよ。私なんていつも助けてもらっちゃって、見習わないとなぁって……。あ、黒名くんこっち座って! 何か頼む?」
「ああ…」

 どこか浮かない顔をした黒名くんを案内して、仕事に戻る。
 それから私はオーダーを間違えたりレジを打ち間違えたりするたびに先輩に助けてもらいながらなんとかその日のバイトを終えて、待っていてくれた黒名くんと一緒に帰ったのだった。





──12月某日。


「苗字、今日部活が早く終わるんだ。一緒に帰ろう」
「え…!」

 放課後、教室に顔を出してくれた黒名くんの言葉に一瞬パァッと舞い上がった私は、それからすぐにがっくりと肩を落とした。

「うう、ごめん黒名くん…。私、今日もバイトだ……」
「そうか…いや、気にするな」

 最近私と黒名くんはこんな会話ばかりで、なかなか二人の時間を作れていなかった。思わず「バイトサボりたい…」とアルバイターとしてあるまじき発言をこぼすと、真面目な黒名くんに「ダメ、ダメ」と小突かれてしまった。

「頑張れ、頑張れ、苗字。俺も頑張る」

 ぽんぽん、と小さい子を宥めるみたいに優しく頭を撫でてくれる黒名くんの手。優しくて、温かくて、大好き。私は今日もまたじんわりと黒名くんに恋をしている。

 部活に行く黒名くんの背中を見送って、よし、とちょっぴり寂しい気持ちを奮い立たせる。
 12月24日──日曜日のクリスマスイブは、黒名くんと1日デートの約束をしてある。実はもう既にマフラーは購入済みで、(売り切れてしまったら立ち直れません!と店長に無理を言って、お給料を前払いしてもらった)綺麗なラッピングに包まれたマフラーが、私の部屋でクリスマスイブを待っている。
 黒名くん、喜んでくれるかなぁ…喜んでくれるといいなぁ…。照れくさそうにマフラーに顔を埋める黒名くんの姿を思い浮かべると、幸せな気持ちが溢れてくる。アルバイトなんていくらでも頑張れる気がしてきた。
 クリスマスまで、あと少し。




──12月23日。


「お疲れ様でしたー」

 エプロンを解いて控え室に入ると、先に戻っていた先輩が「お疲れ様ー」と労いの言葉をかけてくれた。
 私は今、これまでにない解放感を噛み締めていた。明日は待ちに待ったクリスマスイブ。黒名くんとデート。ずっとずっと楽しみにしていた日。うっかりスキップに鼻歌まで歌ってしまいそうになり、慌てて咳払いをひとつ。浮かれるな、私。家に着くまでがアルバイトだ。
 凝り固まった筋肉を解すように、うーんと背伸びをする。今日はゆっくり湯船に浸かって、特別なバスタイムを過ごそう。ちょっと高いトリートメントにフェイスパックまでして、明日の自分が一番かわいくなれるように、おまじないをするんだ。楽しみだなぁ…早く会いたいなぁ…。

「名前ちゃん、明日も一日よろしくね」
「へ?」

 帰り際、ふと先輩にかけられた言葉に、思考停止。ぽかんと立ち尽くしていると、先輩は「あれ?」と首を傾げた。

「名前ちゃん、明日も出勤だよね?」
「え…? 私、明日休みですよね…? だって私…」
「え? でもシフト表に…」
「え?」
「え?」

 掲示板に貼ってあるシフト表を見上げる。12月24日、苗字名前、マル。……マル? ……マル!?

「えええええぇぇーーッ!?」





──12月24日、クリスマスイブ。


「いらっしゃいませー!」

 ちらちら雪が降り始める、ホワイトクリスマス。なんてロマンチックなこんな日に、私は汗をかいていた。バイト先のファミレスは大忙し。被る予定のなかったサンタ帽を被らされて、引きつった笑顔を浮かべて、私は今日も元気にアルバイトをしていた。

 ──本当にごめんね、黒名くん…。午後は休めるようにお願いしたから……。
 ──気にするな。待ってる、待ってる。

 昨日の電話、黒名くんの優しい声に、私はうっかり泣いてしまいそうになった。申請したつもりだった休みが漏れていたこと。ちゃんとシフト表を確認していなかったこと。店長や他のスタッフにわがままを言ってなんとか午後から休みをいただいたこと。朝からデートの約束をしていた黒名くんに予定を変更してもらったこと。周りの人を散々振り回してしまって、自己嫌悪のどん底に落ちていた私に、黒名くんは「苗字らしいな」と敢えて笑い話に変えて励ましてくれた。

「3番テーブルご案内しましたー!」
「名前ちゃん、もう時間だからあがってあがって」

 先輩が気にかけて声をかけてくれる。時計をちらりと確認すると、予定していた時間から10分が過ぎていた。

「すみません、忙しいのに…」
「いいよいいよ。彼氏と約束してるんでしょ? 楽しんできてね」

 他のスタッフをちらりと確認すると、みんな笑って頷いてくれた。うう、なんて優しい方達なんだろう…。

「ありがとうございます…! この御恩はいつか必ずお返ししますので…!」
「そんな、大袈裟だよ」

 みんなに笑われながらぺこぺこ頭を下げて、私は控え室に走った。エプロンを解きながら慌ててスマホを取り出す。黒名くんからメッセージが届いていた。

"悪い、早く着きすぎた"
"適当に時間潰してるから、俺のことは気にせず"
"雪も降ってるから、ゆっくり、ゆっくり"

 のほほんとしたサメのスタンプに、申し訳なくもホッと顔を綻ばせてしまう。やっと、やっと黒名くんに会える。私は感慨深いため息を吐きながら結っていた髪を解いた。

──プルルルルッ

 その時、表から聞こえてくる電話の音がなかなか鳴り止まないことに気がついて、私はピタッと手を止めた。

「ごめん誰か取れるー!?」
「うわー、ちょっと待ってー!」
 切羽詰まったスタッフの会話に、ドキンと心臓が脈を打つ。

 "今終わった! すぐ行くね!"

 打ちかけたメッセージを送信せずに、左上の時刻を確認して、私はもどかしく揺れていた。じりじりと葛藤して、ロッカーの中に視線を移す。バイトが終わったらそのまま直行できるように、自宅から持ってきたメイクポーチとヘアアイロンと、前々から選んでおいた洋服と、じっと見つめ合う。このまま、この格好のまま行けば、まだ、なんとか──。その決断に至ると、私は咄嗟に走り出していた。

「え、名前ちゃん…!?」
「私、電話出ます…!」

 「大変お待たせいたしました!」 電話対応しながら窓の外に目を向ける。雪が静かに積もり始めていた。





 タイムカードを押して、バタバタと荷物をまとめる。コートを引っ張り出して、ワイシャツの上に羽織る。スマホを落としそうになり、わたわたと慌ててキャッチすると、私は未送信のままになっていたメッセージを送った。
 すでに待ち合わせ時間から5分が過ぎていた。走れば駅まで5分で着く。急かされるように裏口から飛び出すと、そこに広がっていた真っ白な世界に、私は思わず息を呑んだ。静寂に包まれた美しい銀世界。時が止まったかのように、そうして一瞬だけ見惚れて、ハッと我に返りカバンを漁る。折り畳み傘がなかなか開かず、苦戦しつつ走り出す。白い息を吐きながらぎゅむぎゅむと雪を踏みしめていると、不意に後ろから呼び止められた。

「──名前ちゃーん!」
「…先輩?」

 裏口から駆けてくる先輩をキョトンと見つめる。慌てて追いかけて来てくれたようだった。

「マフラー、忘れてるよ!」
「あ…!」

 先輩が手にしていた物を見て、私はようやく自分がマフラーを巻いていないことに気がついた。黒名くんに渡すプレゼントと荷物と折り畳み傘で両手が塞がっていた私の首に、先輩がぐるぐるとマフラーを巻いてくれる。

「すみません、ありがとうございます…」
「いいよいいよ。気をつけて行っておいで…って、あれ?」

 何かに気づいた先輩が「あれ、彼氏じゃない?」と遠くに視線を向けたので、私も反射的に振り返った。

「黒名くん…!」

 駆け足でこちらに向かってくる黒名くんの姿。惹き寄せられるように、私も駆け出した。「マフラー、ありがとうございます!」先輩に手を振って、それから私は真っ直ぐに走った。

「黒名くん、迎えに来てくれたの…!?」
「返信なかったから、心配したぞ」

 私は一連の流れを思い返して、自分が既読無視まがいなことをしてしまったことに気がついた。

「ご、ごめん…! ちょっとバタバタしちゃって…! 心配かけてごめんなさい!」

 反省して必死に頭を下げると、黒名くんは「ああ、いや…」と躊躇いながら小さく口を開いた。

「心配も、した。でもそれよりも、早く会いたくて、つい、つい……」
「え…!?」

 あがった息のまま顔をあげると、白い吐息の向こう側に黒名くんのじんわりと染まった頬や鼻先が霞んで見えた。

「わ、私も…! 会いたかった! ずっとずっと今日を楽しみにしてたよ…!」
「……うん」

 ちらりと目が合う。黒名くんは安堵と不満の両方を滲ませたようなじとっとした眼差しで、私のマフラーをぐるぐると解くと、もう一度同じように巻き直してくれた。

「あ、ありがとう…?」
「…ん」

 その行動の意味はよくわからなかったけれど、私はとにかく胸がどきどきして、寒いのに暑いような、嬉しいのに苦しいような、変な気持ちになった。

「荷物、重いだろ。持つ、持つ」

 赤らんだ頬を隠すように、黒名くんが不器用に話を逸らす。けれど、そのおかげで私は大切なことを思い出した。

「あ! 黒名くん、あのね…!」

 ひとまず近くのベンチに荷物を下ろして、紙袋の中をがさごそと漁る。そして、私の思いをいっぱいに詰め込んだプレゼントをいよいよ手渡した。

「メリークリスマス!」

 黒名くんは猫みたいな目をキョトンと丸くして、「え…」とプレゼントを見つめたまま固まっている。

「プレゼント…?」
「うん、そうだよ!」
「俺に?」
「うん、黒名くんに!」

 おずおずとプレゼントを受け取る黒名くん。びっくりしたような反応が嬉しくて怖くて、私は途端にそわそわと落ち着かなくなる。

「そうか、クリスマスプレゼント…。すまん、俺は何も…」
「え、あ、全然! 私が渡したくて勝手に用意しただけだから…!」

 黒名くんは呆気にとられながら小さく肩を落としていたけれど、私は先日までクリスマスプレゼントのことなんてすっかり頭から抜け去っていた自分と重なって、その姿がむしろ微笑ましく思えた。黒名くんと私は、おんなじだ。

 二人でベンチに腰掛けると、私は黒名くんがラッピングを解いていくのをハラハラと見守っていた。いまさら恥ずかしくて目を逸らしたくなったけれど、やがてあの日見つけた時と同じ綺麗なえんじ色をしたマフラーが現れると、私はやっぱり黒名くんにぴったりだと思って、改めて自信が持てた。

「マフラー…」
「あ、あ、あの…! 黒名くんに絶対似合うと思ったんだけど、どうかな…!?」

 黒名くんがマフラーを広げると、真っ白な雪景色に鮮やかな赤が広がった。真っ直ぐに見つめる黒名くんの瞳が氷の結晶のようにキラキラと輝いていて、とても綺麗だった。

「すごく、嬉しい……」
「ほ、ほんと? 良かった…!」
「苗字…まさかとは思うが、バイトを始める時に言っていた欲しいものって…」
「え、あ、ああ…!」

 見抜くような眼差しにギクリとわかりやすく目を泳がせてしまったら、確信した黒名くんは赤らんだり青ざめたり、なんとも言えない表情を隠すように項垂れてしまった。

「え、あの、黒名くん、ごめんね…!? 私、勝手なことしちゃった…!?」
「いや。違う、違う…」

 黒名くんは「はぁ…」とため息を吐いて、またあのじとっとした視線を向けた。

「……正直、俺は苗字がアルバイトを始めてからずっと、いい気分じゃなかった」
「え…!?」
「わからん、わからん…自分でも。どうして彼女が新しいことを始めて充実した毎日を送っていることが、おもしろくないと感じていたのか…」
 黒名くんは首を振って続けた。

「けど、たぶん…。俺は自分が思っている以上に、苗字が俺を第一優先してくれることが嬉しくて、それを当たり前だと思っていた。自分はサッカーを優先することが多いのに、勝手だよな」
「黒名くん…」

 私は黒名くんが言葉を選びながら精一杯に伝えてくれる気持ちを、静かに聞いていた。

「それで、俺は今、苗字が俺のためにアルバイトを始めたんだと知って、最低なことに心底ホッとしている」
「え…」
「バイト先の知らん男なんかに持っていかれたら、俺はもう立ち直れんぞ」

 なんの話だ、と一瞬思ったけれど、黒名くんのふくれっ面からすぐ理解した私は、慌ててぶんぶんと手を振った。

「そ、そんな! ありえないよ…! 私は黒名くんが大好きで、ずっとずっと黒名くんに夢中で、黒名くんしか考えられないし…!」

 黒名くんの頬がじわじわと赤く染まっていくから、私は自分の必死の挽回が次第に愛の告白へと変わっていることに気づいて、ぼんっと赤面し、自爆した。

「知ってる、知ってる。…知ってるはずなのにな」
 黒名くんは観念したように、私の肩を引き寄せた。

「悪い……俺、すっごいわがままだ」
「ううん…話してくれて、嬉しい」
「苗字のこと、全部、独り占めしたい」

 ぎゅっと抱きしめてくれる力強い手が微かに震えていたから、私は黒名くんが初めて見せてくれた心の弱いところまで全部、愛おしくてたまらなくなった。大丈夫だよ、って応えるように抱きしめる。不安にさせてごめんねって思いながら、心のどこかで喜んでいる自分もいて、私たちはやっぱりおんなじだねって、そう思わずにいられなかった。

「マフラー、ありがとう。大切にする」

 黒名くんはぐるりとマフラーを巻いた。ああ、やっぱり絶対似合うと思った。かっこよくて、心臓がどきどきと鳴り止まない。私は自分が選んだマフラーを黒名くんが巻いている姿を見て、ようやく納得した。私もただ、独り占めしたかっただけなのかもしれない、と。

「俺は今、サッカーばかりでバイトもできないし、来年もその次も、こんないい物をプレゼントすることはできないと思う。でも…」

「プロになるのが夢なんだ。そしたら苗字をいろんなところに連れて行ってやりたいし、プレゼントだって嫌というほど買ってやりたい」

「だから…もう少しだけ待っててくれ。それまで俺と一緒にいてほしい。ずっと、ずっと」

 えんじ色のマフラーに、ちらちらと雪の結晶が積もっていく。私達はかじかんだ指先を重ねて、寒空の下、確かな約束を結んだ。

 どうか彼の夢が叶いますように。私はそんな願いを込めて、黒名くんのマフラーに顔を埋めた。