#1


 『惹かれあった指先を互い違いに絡ませる。もう二度と離れないように、繋いだ両手を引き寄せて、それから二人は──…』

 ぱたん、と本を閉じる。誰もいない図書室のカウンターで、苗字名前はうっとりとピンクのため息を吐いた。
 お気に入りの恋愛小説。何度も何度も読み返して、もうかれこれ7回目になる。ようやく二人が結ばれようとするこのシーンは、何度読んでも名前の胸を熱くさせた。
 これから物語はクライマックスへと向かう。すでに感動の渦に包まれているので、最後まで読んだらきっと涙を堪えきれないとわかっていた。名前ははやる気持ちをぐっと堪えて、そうして本を閉じたのだった。

「そろそろ帰らなきゃ…」

 そういえば少し前に最終下校時刻のチャイムが鳴っていた。ふと顔を上げると、青紫の紫陽花を押し花にして作った栞のリボンが、読みかけのページから垂れ下がって、ふわりと揺れた。
 窓の外はどんよりと薄暗く、部活動を終えた生徒が数名、傘を差して歩いているのが見えた。どうやら朝から止まない雨は未だに降り続いているらしい。
 名前はがっくりとブルーのため息を吐いた。雨の日はどうも頭痛がするし、じくじくと胸が痛むのだ。
 名前は図書室の鍵を手に取って重たい腰をあげると、それから宝物をしまうように、そっと鞄に本を入れた。





(あ……)

 階段を降りている途中、下駄箱の近くに人影が見えた。大きな柱に寄りかかるようにして座っている、特徴的な白い髪。

(凪くんだ…)

心の中でこっそりと彼の名前を呟いて、名前はなんとなく息をひそめた。

 凪誠士郎とは、昔からなんだか妙な縁があった。
 そもそもお互いの実家が近所だったため、小さい頃から家族絡みの交流があった。両親や学校からの勧めもあって、小学生の頃はよく一緒に帰らされたものだ。
 当時はまだ幼くて、誰とでも仲良くできる時期だったからなんとかなっていたものの、さすがに中学に入ってからは少しずつ距離が出来始めた。幼馴染みとはいえ男女だったし、それに、幼馴染みと呼ぶにはあまりにも馴染めていなかったのだ。
 読書が好きな名前と、ゲームが好きな凪。一人の時間を何よりも大切にしていた二人の間に会話が生まれないのは自然なことで、その関係がただの他人へと移り変わっていくこともまた、時が流れるように自然なことだった。
 まさか高校も同じところへ通うことになった時にはさすがの両親もびっくりして、これも何かの縁かしらと母は喜んでいたけれど、ようは腐れ縁というやつなのだと名前は冷ややかに冷静だった。
 切っても切れない関係とはよく言ったもので、しかし名前も凪も別に切ろうとしているわけでもなく、ただひたすらにどうでもよかった。この曖昧な関係がずっと続いたっていいし、続かなくたっていい。そんな程度のものだった。

(ああ、どうしよう…)

 しかし、それでもこの状況は気まずかった。帰るには奥の下駄箱──どうしても凪の目の前を通らなければならなかった。
 名前は人の気配を全く感じない静かなフロアを、まるで流氷の上を歩くかのようにそろりそろりと踏みしめていた。
 普段、廊下ですれ違ったとしても挨拶は疎か目すら合わさない二人だが、この状況で声をかけないのはどうしても感じが悪いような気がした。忌み嫌っているわけでもないし、ひと声かけるのがむしろ自然か。名前は腹を括った。そして彼の横を通り抜ける時、勇気を振り絞って声をかけた。

「…ばいばい、凪くん」

 スマホをいじっていた指先がぴたりと止まり、ついと顔があがる。僅かに驚いたように見開かれた瞳は、相変わらず透き通るように淡い色をしていた。

「あ、うん」

 呆気ない会話だったが、二人の間にはどこか懐かしい風が吹き抜けていた。すっと緊張が解けた名前は納得したように頷いて、それから凪に背を向けた。
 そうしてクラスの下駄箱へ向かおうとした時──ふと掲示板の貼り紙が目に留まった。

 "学生寮近辺で殺傷事件が発生──"

 見慣れた建物の写真に、思わずドキッと足を止める。それは、名前が住んでいる学生寮だった。
 "生徒は下校時刻を守り、寄り道せず、なるべく複数名で下校すること…"と続く注意書きを目で追いながら、名前はたまらず身震いをして腕をさすった。

「名前」

 突然、背後から名前を呼ばれて飛びあがりそうになる。振り返ると、さっきまで向こうでしゃがみ込んでいた凪がすぐ後ろに立ってこちらを見下ろしていた。

「な、なに…?」
「こんな遅い時間まで何してたの?」
「あぁ…えっと、わたし図書委員だから…」
「図書委員?」
「うん、水曜日は当番だから…」

 自分から聞いておきながら凪はまるで興味なさそうに「ふーん」と目を逸らして、それからどぎまぎしている名前の後ろの貼り紙に目を細めた。

「それ」
「あ、これ…?」
「俺も寮に住んでるから」
「あぁ…うん、知ってるよ」
「一緒に帰ろう」

 「えっ…」と狼狽える名前に、凪はもう一度「一緒に帰ろう」と繰り返した。
 ええと、いったいどういう風の吹き回し? 名前がぱちくりと瞬きしても、凪はどこ吹く風といった顔で彼女が頷くのを待っていた。

「あ……ありがたい、です」
「うん、じゃあ行こ」

 立ち尽くす名前をよそに、凪は靴に履き替えると傘立てからビニール傘を抜き取って「早く」と名前を急かした。

「ま、待って…!」

 名前は慌てて後を追いかけた。乱雑している傘立てから目当ての傘を抜き取って、軒下でそれを広げる。すると、横目で見ていた凪が予想外の光景にきょとんと目を丸くした。

「パラソルは?」
「え? …あぁ」

 "パラソル"。それは梅雨の風物詩だった。

「もうやめたの。…ほら、こっちの方が周りの景色がよく見えるから」

 雨が滴る透明の傘の向こう側で、名前が笑っている。ビニール越しに霞んでゆく思い出に、凪はじっと目を凝らした。




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