#2


──7年前


 この日も朝から雨が降っていた。
 帰り道、凪は黒い傘を差して、黒いランドセルを背負っていた。目の前には虹色のカラフルな傘が揺れ、赤いランドセルがちらちらと見え隠れしていたので、凪の目はなんだかチカチカと眩しかった。

「ねぇ」
「なぁに?」
「うるさいんだけど」

 名前がびっくりして勢いよく振り返ると、露先から弾けた雨粒が凪の頬にかかった。凪は顔色ひとつ変えない。

「わたし何も喋ってないよ…?」
「その傘、パラソルみたいだよね」
「パラソル…?」

 しぶしぶ見上げる名前の頭上には、なるほど派手なビーチパラソルのように鮮やかな虹色が広がっていた。

「そうかな? ありがとう」
「……」

 褒めたつもりではなかった凪は、これ以上会話をするのが億劫になり、口を閉ざした。

「お気に入りの傘なの」

 名前が手元をくるりと回すと、7色の生地が順番にあしらわれているパラソルがメリーゴーランドのようにくるくると回った。

「雨の日って、頭痛くならない?」
「んぇー…ならない」
「そっかあ…わたしは頭が痛くなって、胸のとこがぎゅってなるんだ。だからちょっとでもハッピーな気分になれるように、虹色の傘を差してるの」

 いいなあ誠士郎くんは。名前は独り言のようにそう言って、傘をくるくると回している。
 凪は順番に移りゆくカラフルをぼんやりと眺めていた。

「あーした天気になぁーれっ!」

 不意に、名前が片方の靴を蹴りあげる。それは放物線を描いて、通りがかった公園の真ん中にぽとんと落ちた。

「晴れだ!」
「だいたい重い方が下になるでしょ」
「…もう、誠士郎くんってなんていうか、ロマンがないよ」

 名前はつまらなそうに口を尖らせて、片足ケンケン、濡れるのも厭わずに、ぴしゃぴしゃと水溜りの上を跳ねながら靴を取りに行った。

「あ! 子犬だ!」

 突然名前がわあっと声を上げたので、仕方なく後を追って公園に入ると、どうやら茂みの中から飛び出してきた子犬が名前の靴をおもちゃと勘違いして戯れているようだった。
 名前が「それ、返してくれる?」と声をかけると、子犬は素直に駆け寄って、まるで言葉が通じているかのように彼女に靴を返した。
 生後3ヶ月ほどの子犬だった。

「ありがとう、いい子だね。君はどこから来たの?」

 名前が靴を履きながら尋ねると、子犬は二人を導くように元来た道を引き返して茂みの中へ入っていった。

「名前って犬と話せるの?」
「ううん。でも、きっと心は通じ合えるって信じてるよ」

 あの子、寂しそうな顔してたね。真っ直ぐ前を見ながら呟いた名前が、子犬の後を追いかけていった。
 凪は茂みの中へ消えていくパラソルを見つめながら、これは面倒なことになったと空を仰いだ。しかしこのまま彼女を置いていくわけにもいかず、彼もまた、やむなく後を追いかけたのだった。



「これって…」

 名前は目の前の光景に絶句した。まぁそうだろうなと思っていた凪は、子犬が5匹、泥だらけの段ボールの中に詰め込まれているところを見ても、顔色ひとつ変えなかった。
 まだあどけない小さな鳴き声が雨音に掻き消され、それでも尚、懸命に何かを訴えている。
 すると突然、名前が急き立てられるようにランドセルの中を漁り始めた。

「…何してるの」
「使ってないタオルと、給食で残したパンがあったはず」

 「うち、マンションだから犬飼えないの」名前はそう言うと、段ボールの中に乾いたタオルを敷いて、その上にちぎったパンを落としていった。
 それから「見上げると、ハッピーな気持ちになれるよ」と言って、雨に濡れないように虹色の傘を置いてやると、引き換えに名前の身体は雨に打たれて、たちまちびしょ濡れになっていたのだった。

「そういうの、やめなよ」

 淡々とした声が降る。名前は徐に顔をあげた。

「そういうの?」

 名前の濡れた前髪から、雫がぽたりと、涙のように落ちた。

「最後まで責任が持てないなら、関わらない方がいい」

 二人の間に静かな緊張が走った。慈悲に満ちた瞳と、俯瞰した瞳がぶつかり合う。名前は目を逸らすと、逆らうように子犬を撫でた。

「…見て見ぬふりは、できないよ」
「見て見ぬふりしてるのと同じだよ」

 拳を握りしめる小さな手が震えている。凪は黙ってそれを見下ろした。

「俺たちは子どもだから、何もできない」

 名前がもう一度顔をあげる。凪はてっきり泣いているものだと思っていたので、予想外の眼差しに面食らってしまった。

「…この子の気持ちに寄り添いたいって、自分が感じた気持ちには、素直でいたいよ。それは、いけないことなの?」 

「わたしは目の前に困っている子がいたら助けてあげたいし、足りないのかもしれないけど、それでも、わたしにできる精一杯のことはしてあげたいって思うよ」

 ──ああ。
 凪はもう一度、空を仰いだ。
 なんて真っ白なのだろう。彼女は知らないのだ、気の毒に。その決断は結局、子犬も名前も救われやしないのだ。
 これ以上のお節介は無意味だと判断した凪は全てを諦めて、「明日の給食もパンだといいね」と子犬を撫でる名前の後ろ姿を、遠いところから眺めるような面持ちで見つめていた。
 名前はそれから子犬の両手を包み込んで、祈るように瞼を閉じた。そうしてしばらくじっとしているので、凪は怪訝に顔をしかめた。

「…何してるの」
「こうすると、私の願いが両手を伝って、真っ直ぐ届くような気がするの」

 名前の回答は到底凪を納得させるものではなかったが、なんとなく、その光景には見覚えがあった。





 それは、いつかの昼休みのことだった。
 凪は校庭に飛び出していくクラスメイトを見送ると、窓際の席に突っ伏した。なんてことない、いつもと同じお昼寝タイム。
 そうしてうとうとと微睡み始めた時、すぐ側の窓ガラスから"ゴンッ"と鈍い音が鳴った。
 凪が顔をあげると、窓の外にふわりと羽根が舞うのが見えた。何やら下が騒がしい。
 身体を起こして窓を開けると、花壇の周りにぞろぞろと生徒が集まっていた。彼らの視線の先には小さな雀。花壇の中央でぐったりと横たわっている。
 おそらく、さきほどの衝撃はこの雀が窓ガラスにぶつかった音なのだろう。凪は理解すると、それから戸惑う生徒たちと雀の行く末をまるで雲の上から眺めるように見守っていた。
 誰もが雀に触れることを躊躇って立ち尽くす中、騒ぎに気付いた一人の少女──名前が走ってこちらへやってくる。

「たぶん、気を失ってるだけだよ」

 名前は雀が飛びやすいように「もう少し離れてあげて」と他の生徒を誘導すると、それから小さな翼に手を触れて、そのままじっと目を閉じた。何かを祈るように、目を閉じた。
 彼女の言うとおり、雀はすぐに飛び起きた。しかしパニックになり、うまく羽ばたくことができずにひっくり返ってしまう。名前は静かに手を差し伸べて、それからまるで空にランタンを浮かべるかのように、優しく雀を送り出した。

「あ! 飛んだ!」

 誰かが声をあげると、生徒たちは一斉に空を見上げた。雀は名前の頭上をくるりと一周すると、それからまばらな拍手で見送られ、校舎の向こうへ消えていった。

 名前は不思議な力を持っているように見えた。まるで白雪姫のように動物を愛し、愛されていた。
 もちろんあのお伽話は絵空事で、助けてやった雀が小麦粉を運んでくることもなければ、グーズベリーパイに模様をつけてくれることもないのだろうが、ただ、そういう体質──動物を惹き寄せるなにかを持った人間というのは、本当に存在するのかもしれないと、凪は小さな関心を抱いていた。







 翌日、凪は忘れ物を取りに戻った名前が追いついてくるのを待ちながら、ゆっくりと帰り道を歩いていた。
 件の公園に差し掛かった時、作業服を着た大人が二人、公園から出てきた。一人は両手に段ボールを抱えていて、それから側に停めてあったワゴン車に乗り込んで、去っていった。

 やがて追いついた名前は子犬達がいなくなっていることに気付くと、「誰かが拾ってくれたんだね」と嬉しそうに笑っていた。
 まぁ、あながち間違いではないなと思った凪は顔色ひとつ変えずに頷いて、しかし彼女に真実を伝えることはなかったのだった。


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