#6


 名前の葬儀は事件から4日後に執り行われた。
 学校は一週間ほど休校になった。クラスメイトを始め、地元の同級生や教師等、斎場へ駆けつけた人々は皆、色とりどりの供花に囲まれて笑う彼女の遺影を直視できずに、俯きがちに鼻を啜って涙を流していた。
 遺族の悲しみは計り知れない。柩に縋り、泣き叫び、嗚咽する者。中には嘔吐してしまう者までいて、誰一人として弔問客に目礼すらする余裕もない、悲惨な状態だった。

 凪は両親と共に参列していたが、この壮絶な光景にも顔色ひとつ変えなかった。
 見ず知らずの男の身勝手な犯行によって命を奪われてしまった何の罪もない17歳の少女のそのあまりに残酷な人生の終焉に、というよりも、凪はこの世の全てにうんざりしていた。
 殺処分された子犬。轢かれた黒猫。そして、名前は殺された。
 人生とは、つまり理不尽なのだ。

「最後まで、読めなかったみたいだから…」

 名前の母親はそう言って、一冊の本と紫陽花の栞を柩に入れた。
 名前は色鮮やかな別れ花と、カラフルな折り紙に囲まれて眠っていた。贅沢なことに、カラフルは彼女のイメージカラーなのだという。幼い頃から事件当日までパラソルを差していた彼女には、確かにその弔い方がよく似合っていた。

 ──何が、"絶対安全傘"だ。
 凪はチカチカと眩しい記憶を思い浮かべながら、真っ直ぐに名前の寝顔を見つめていた。名前は本当に、白雪姫のように眠ってしまった。
 彼女は今も、夢物語を信じているのだろうか。






 毎週水曜日の放課後になると、名前は図書室で目を覚ますようになった。
 それから何事もなかったかのようにあの日を繰り返して、あの日を彷徨った。恋愛小説にはあの日と同じページに栞が挟まれ、あの日と同じように図書委員の仕事を終え、あの日と同じ時刻に下校した。
 
 そうして7回目の水曜日を迎えた時、ちょうど名前の机の上に花瓶が置かれなくなった頃に、二人は出会った。
 凪は自分でも不思議なことに、名前の存在をあっさりと受け入れた。それは彼女があまりにも自然に現れたからか、懐かしさに目が眩んだからか、はたまた凪が未だに名前の死を受け入れられずにいたからか、凪自身にもわからなかった。
 一緒に帰ろうと声をかけたのは、無表情の下に隠したどうしようもない後悔を拭い去りたかったからだ。
 もしも幼い頃からの習慣があの日まで続いていたならば、よそよそしくなった彼女を引き留める勇気があったならば、今も名前はカラフルなパラソルの下で笑っていたのだろうか。

 ──ああ。
 凪は空を仰いで目を閉じた。
 本当に、この世にはどうしようもないことばかりが溢れている。
 

「誠士郎くん」
 懐かしい声がする。

「一緒に帰ってくれて、ありがとう」

 今、凪の目の前には、雨の中、小さな肩を震わせて涙を浮かべる名前がいた。自分とは違う、幼い頃の彼女ともまた違う、頼りなく柔らかで、華奢な身体。守れなかった、守りたかった、大切な人。
 凪は透き通った小さな指先にそっと触れて、自分の指を曖昧に絡ませた。

「私、誠士郎くんにずっと謝りたかったことがあるの」

 名前はしっかりと凪の両手を握り返した。

「苗字で呼んだり、そっけなくしたりして、ごめんね。私、誠士郎くんと話すことが、目を合わせることが、急に怖くなって。誠士郎くんの背が高くなって、手が大きくなって、自分の気持ちが変わっていくのが怖かった。どうして今まで通り自然に話すことができなくなっちゃったんだろうって、ずっと考えてた」

 申し訳なさそうに、それでもどこか気恥ずかしそうに微笑んで、名前は凪と向き合っていた。

「だけど、誠士郎くんは誠士郎くんのままで。今も昔も変わらない、私にとって大切な人だから」

 それだけは、伝えたかったの。そう言って真っ直ぐ見つめる名前の頬には、涙が伝っていた。それは朝露のように煌めいていて、凪の目はチカチカと眩しかった。

「名前」

 凪は無意識に、名前の手を引いていた。大きな身長差を埋めるように身を屈めて、顔が近づいて、その距離が縮まっていく。

『惹かれあった指先を互い違いに絡ませる。もう二度と離れないように、繋いだ両手を引き寄せて、それから二人は──』

 最後に読んだ本の描写が名前の頭をよぎった。そっと触れる、優しいキスだった。
 唇が離れると、二人は名残惜しそうに頬を寄せ合った。

「びっくりした……。誠士郎くん、どうしてキスなんて、」

 まさか凪からキスをされるなんて思ってもいなかった名前は照れ隠しに俯いた。名前の目の前には、それでもぎゅっと確かに繋がれた両手があった。

「お伽話を、思い出したから」

 ぽつりと呟かれた凪の言葉に、名前はきょとんと目を丸めた。
 見上げると、相変わらずの無表情。名前はふっと吹き出しそうになる。

「誠士郎くんってば、いつからそんなロマンチストになったの?」

 くすくすと笑われても、凪は顔色ひとつ変えなかった。

「最初から、だと思う」
 凪は遠い昔の記憶を辿った。

 そうだ、俺は最初からロマンチストだった。最初からずっと、俺は名前のことが──。
 言いかけて、口を閉ざす。

「誠士郎くん」
 名前は凪の意思を汲み取って、凛と前を向いていた。

「届くよ、きっと届く」

 繋いだ手のひら。互いの温もり。凪はもう一度、確かめるようにぎゅっと両手を握り締めて、それから目を閉じた。いつも名前がそうして祈るように、目を閉じた。

『こうすると、私の願いが両手を伝って、真っ直ぐ届くような気がするの』

 懐かしい名前の声が蘇る。ありえないと思いながら凪は願った。柄にもなく、願った。
 そうしてゆるりと瞼を開くと、もう、そこに名前の姿はなかった。

 朝から降り続いていた雨はいつの間にか止んでいて、長く伸びた前髪から滴る雨粒がきらきらと輝いていた。
 虹が見えるかもしれないと思って、空を見上げた。けれど、もう随分と太陽が低かったので、それは叶わなかった。
 凪は、あの眩しいパラソルが途端に恋しくなった。




 数日後、凪は名前の実家へ行った。
 いったいどんな顔をして会えばいいのかわからずすっかり疎遠になっていたが、しかし彼女の両親は凪の訪問をとても喜んでいた。
 凪は名前が使っていたパラソルを貰った。そして、丁寧に畳まれたその傘を学校の傘立てに置いた。透明のビニール傘は、彼女には似合わない。
 もしも名前が目を覚ましたら、また水曜日に待ち合わせをして、一緒に帰ろう。そして今度はこの眩しいパラソルを差して、どうか隣で笑ってほしい。
 凪はそんな夢物語を、心のどこかで願っていた。



水曜日のパラソル
end

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