#5


『惹かれあった指先を互い違いに絡ませる。もう二度と離れないように、繋いだ両手を引き寄せて、それから二人は──…』

「ふぅ…」

 ぱたん、と本を閉じる。お気に入りの本を読むのはこれで9回目。名前はいつものページに紫陽花の栞をはさみ、透き通った透明のため息を吐いた。

 ──凪くんは凪くんのままで、何も変わらない。
 それならいったい、何が二人の関係を変えてしまったのか。もう、名前はわかっていた。
 変わったのは、名前の方なのだ。


 今日も朝から雨が降っている。しとしとと止まない雨の音。じくじくと頭が痛み、しくしくと胸が痛む。
 名前は胸の辺りをさすって、瞼を閉じた。

──誠士郎くん

 近いようで遠いような、曖昧な記憶。彼のことを苗字で呼ぶようになったのは、いつからだったか。
 あの日、凪と手を繋いだ時の感覚を、名前は胸の奥にしまいこんでいた。
 いつの間にか一回り大きくなった手のひらも、いつの間にか低くなった声も、いつの間にか隣に並ぶ傘の高さが違っていたことも。そして何より、名前の気持ちに黙って寄り添ってくれる彼の優しさに。気付いてしまったら、意識してしまったら、何かが変わってしまうような気がした。
 程よい距離感が好きだった。話が合うとか、気が合うとか、そんなことは決してなかったけれど、それでも大切な幼馴染みだった。

──名前

 今でも変わらずに名前を呼んでくれること、変わらずに隣を歩いてくれること。そんな凪のことを思うと、名前はますます自分が不甲斐なくて仕方がなかった。男女の違いに戸惑って、変化に怯えて。徐々によそよそしく離れていった名前の姿は、凪の目にどう映っていたのだろう。
 やるせなく、呆れた笑みがこぼれてくる。──何を恐れているのだ、私は。
 昔はどんなふうに話していたっけ、なんて。今日の出来事、好きな本の話、なんだっていいじゃないか。彼はきっといつものように、無表情でつまらなさそうに相槌をうってくれるし、それでも隣にいてくれる。私達はそれでいい。それがいい。
 名前は誰もいない図書室ですっきりとしたため息を吐いて、カギを掴んだ。
 物語の続きは帰ったらまた読むことにして、そっと鞄にしまう。紫陽花の栞のリボンがふわりと揺れた。心が軽い。彼に話したいことが、たくさんある。




(あれ…?)

 階段を降りていくと、前向きな名前の気持ちを裏切るように、そこに凪の姿は見当たらなかった。きょろきょろと辺りを見回しても、結果は同じ。名前は拍子抜けして、小さく肩を落とした。
 まあもともと気まぐれな彼のことだし、今日は気分じゃなかったのか、何か用事があったのかもしれない。
 彼に話そうと思い浮かべていたあれこれが、重力を取り戻したかのようにバラバラと足元に落ちていく。名前は「ちぇっ」とそれを蹴り飛ばしたくなった。

 仕方ない。そうして下駄箱に向かった時、ふと掲示板の貼り紙が目に留まる。

"学生寮近辺で殺傷事件が発生──"

 ギクリと肩が跳ねる。忘れかけていたけれど、そもそも凪と一緒に帰ることになったきっかけはこれだ。
 名前はおそるおそる近づいて、もう一度その内容に目を通してみることにした。

「通り魔による殺傷事件……被害者死亡……犯人は逃走後、駆けつけた警察官によって取り押さえられ…逮捕…?」

 そこまで読んで、名前はようやくホッとした。

(なんだ、逮捕されてたんだ…)

 張りつめた糸が切れるように、肩の力が抜ける。
 最初にこの貼り紙を目にした時、途中で凪に声をかけられたためきちんと最後まで読めていなかったが、犯人が逮捕されているのなら過剰に心配する必要はないだろう。
 帰りが遅くなる水曜日だって、今まで当然一人で下校してきたのだ。今日、名前が一人で帰ることは何も特別なことではない。いつものこと。いつもの水曜日。それなのに──。

 靴に履き替えて、透き通った透明の傘を広げる。薄暗い雲に覆われた帰り道、静寂をいっそう引き立てる雨音。
 全てがひどく寂しく感じるのは、どうしてだろう。





 一人で帰路につく時、名前は凪と並んで歩いた帰り道の出来事を、辿るようにぽつりぽつりと思い出していた。
 公園で子犬を見つけた。道端で黒猫と出会った。それから、靴を飛ばして明日の天気を占った。好きな本の話をした。それらを一蹴した彼に「誠士郎くんって、ロマンがないよ」と呆れて笑った。強く印象に残った出来事も、そうでない出来事も、いつも隣には凪がいた。
 なんてもったいないことをしたのだろう。名前は後悔していた。子どもから大人になりかけた中途半端な成長過程で、中途半端に彼と向き合ってしまったこと。生まれた淡い気持ちに気づかない振りをしてしまったこと。
 全部、全部、今からやり直しても遅くないだろうか。


 名前が空を見上げると、透明のビニール傘越しに薄暗いグレーの空が見えた。
 やっぱり雨の日は虹色の傘がいい。どうして透明の傘なんて差しているんだっけ。
 名前がそれを不思議に思い始めた時、空から雀が降ってきた。ぱたぱたと羽ばたいて、雨の中、不自然に名前の頭上を飛び回っている。
 側の茂みには車に轢かれた黒猫がいて、殺処分された子犬が5匹、並んでこちらを見つめていた。吠えるでもなく、鳴くでもなく、何かを訴えかけるように、じっとこちらを見据えて佇んでいる。

 名前は妙な胸騒ぎを覚えた。何かが、おかしい。

 辺りはいつの間にかじっとりと重たい空気に包まれていて、異様な静寂の中、ばらばらと傘に打ちつける雨音がじりじりと胸に迫り来るようだった。
 名前は朝から続いていた頭痛と胸痛が徐々に強くなるのを感じた。

──バシャッ

 不意に、水溜まりを踏んづける足音が聞こえた。後ろから、誰かがこちらへ駆けてくる。急き込むように、一目散に駆けてくる。嫌な予感がする。

"学生寮近辺で殺傷事件が発生──"

『通り魔による殺傷事件……被害者死亡……』

 貼り紙の記事と写真が名前の脳裏にフラッシュバックする。あれは、ちょうどこの辺りだ。
 どっと心臓が跳ね上がる。額にじわりと汗が滲む。
 まさか。だってそんなこと、あるわけがない。犯人は逮捕されたんだから、きっと大丈夫。それに、私は今透明の傘を差している。"次"はきっと、もっと早く気づけるはずだ。

 雀は暴れ狂い、羽が散り散り舞っている。全てを見透かすような黒猫の眼差し。荒い子犬の息遣い。

 名前は全身にどくどくと響く鼓動を感じながら、ふと、自分の中の矛盾に気づいた。

 "次"って、なんだ──?



「──名前…ッ!」

 強引に腕を掴まれ、名前は驚き、勢いよく振り返った。弾みで手元からすり抜けた透明の傘が放物線を描いて、アスファルトの上に落ちる。
 名前はこの光景を、前にも見たことがあった。

「誠士郎くん…」

 珍しく慌てた様子の彼が、乱れた呼吸の中でひとつ安堵の息を漏らした。

「よかった、追いついた…」

 うってかわって、名前はひどく落ち着いていた。ぼんやりと抜け殻のように立ち尽くし凪を見上げるうつろな瞳には、耐え難い現実だけが映し出されていた。

「──私、だったんだね」

 朝から止まない雨が、しとしとと二人の上に降り注いでいる。

「あの事件の被害者って、私…だったんだね」




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