#1

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、トランペットを構える。まずは音階、ロングトーン。それからわたしの朝練が始まる。
 音駒高校旧校舎一階の空き教室は、わたしだけのコンサートホールだ。始業前、誰にも邪魔されないこの場所で、わたしは自分の音と向き合っている。

「うーん、なんか重たいなぁ……」

 掃き出し窓を開けると、爽やかな風が舞い込んできた。深呼吸をする。よし、いい感じ。きっと昨日より上手くいく。

 課題曲の楽譜が配られた瞬間を、今でもはっきりと覚えている。譜面上の“Solo”という字面を見つけて、トランペットの練習室が一気に凍りついた、あの緊張感。
 吹奏楽の甲子園とは言い得て妙で、コンクールはお気楽な演奏会ではなく、大会だ。そこで披露する課題曲にソロパートがあるときたら、オーディションが行われることはむしろ当然だと言える。
 わたしは二年生だけれど、オーディションに挑戦することにした。きっとこの経験は、わたしを大きく成長させてくれるはずだ。

「よし!」

 ウォーミングアップを終えて、メトロノームを弾く。春の風を吸い込んで、構えて、音に乗せる。
 この悠々とした九小節のメロディーが好きだ。デモ音源を聴いた時からずっと憧れていた。“ステージの上で吹いてみたい!” その一心で練習を続けてきた。──けれど、

「んぐっ……」

 まただ。またこの音でつまずいてしまう。ソロパートの中で一番高いFの音。まるでスカッと空振りするかのように外してしまう。
 もう一度吹いてみる。それでもやっぱり音が出ない。ため息をついて、しばし譜面とにらめっこする。と、

『にゃあ』

 ふと、猫の声がした。空耳だろうか? わたしはメトロノームを止めて、耳を澄ました。

『みゃーお』

 どうやら本当に近くにいるらしい。そうっと歩いて、掃き出し窓を閉めようとした、その瞬間──鳴き声の主がふらっと姿を現し、あろうことか、するりと教室に侵入してしまった。

「え、あ、うそ……っ!?」

 わたしは青ざめて、トランペットを抱きしめた。野良猫らしいその三毛猫は、机や椅子の下を自由気ままにくぐり抜けている。
 ──どうしよう……! 出て行く気配のない猫を見て、わたしは完全に固まってしまった。
 わたしは猫が苦手だった。見ている分にはかわいいけれど、触るとなると話は別だ。無意識に頬の傷痕をなぞる。どうにかして外に出さなくては!

「こ、こら…! こっちにおいで!」

 猫がメトロノームに興味を示したので、わたしはますます慌ててしまう。ついと、鋭い瞳孔がこちらを向く。ビクッと身構える。ゆらゆらと尻尾が揺れる。わたしの方へ近づいてくる。

「ひぃっ……! 来ないで!」

 「おいで」と「来ないで」が矛盾していることにはもはや気づいていない。わたしはパニックになりながら、ぷー!ぷー!と間抜けなラッパの音を鳴らして威嚇した。

『にゃーん』
「キャーッ!!」

 ドタバタと教室を駆け回る。両者譲らぬ必死の攻防。そうしてわたしがいよいよ泣きそうになっている時、ふと窓の外に人影が見えた。

「こっ……!」

 ──孤爪くん! 声にならない声で名前を呼ぶと、今にも逃げ出しそうだった彼の肩がギクッと跳ねた。
 この春同じクラスになった、孤爪研磨くん。まだ一度も話したことがないし、猫みたいな目をしているから、実は彼のことがちょっぴり怖かった──けれど、今はそんなこと言ってる場合じゃない!

「お願い、助けて……っ!」

 必死に訴えると、孤爪くんはきょろきょろと辺りを確認して、自分が行くしかないのだと観念すると、ようやくしぶしぶ動き出した。
 靴を脱いで教室に入り、そして、すっかり寛いでいる猫の元へ。

「……こっち、おいで」

 猫は孤爪くんの言葉に従って、素直に擦り寄った。それから孤爪くんはなんてことない顔で小さな体を抱き上げると、そのまま外へ逃がしてくれた。

「あ、ありがとう……!」
「……うん」

 やっと訪れた平穏に、ホッと胸を撫で下ろす。しかし孤爪くんはちらちらとわたしの顔色を窺って、なんだか怯えているようだけれど、どうしたのだろう? ──記憶を辿ってハッとする。わたし、さっきまで必死の形相でトランペットを振り回していたんだった。

「あの、孤爪くん。わたし、猫をいじめてたわけじゃないからね……?」
「あ……うん」
「アレルギーとかじゃないんだけど……単純に、猫が苦手なの」
「うん……それはなんとなく、わかった」

 孤爪くんは居心地悪そうにそわそわしている。たぶん、彼はシャイなのだ。いつもひとりでゲームをしている姿を知っているから、なんだか面倒なことに巻き込んで申し訳なかったなあと思う。

「──それ、壊れてるの?」

 ふと、孤爪くんがそんなことを言った。視線の先にはトランペット。
 わたしが「え?」と聞き返すと、孤爪くんはしばらく逡巡してから口を開いた。

「……いつも同じところで音が出ないから」
「えっ……あぁ!」

 練習中とはいえ、失敗していたメロディーをいつも・・・聞かれていたなんて!
 わたしは赤面して、そういえば孤爪くんもバレー部の朝練があるんだっけと思いながら「壊れてるわけじゃないよ」と、むなしい気持ちで彼の勘違いを訂正した。

「わたし、まだまだ下手っぴだから音が出ないの」
「……そういうものなの?」
「うん、ちょっとコツがいるみたい……もっと練習しないと」
「そうなんだ……なんか、ごめん」

 孤爪くんがしまったという顔をして目を逸らしたので、「いいのいいの! わたしこそ、なんかごめんね」と慌てて手を振った。

「でも、なんていうか……きれいな音だった」

 孤爪くんはそう言うと、今度は目を逸らさなかった。
 お世辞かと思ったけれど、あまりにも真っ直ぐ見つめてくるものだから、ドキッとしてしまう。

「あ……ありがとう」
「だから、もっと自信持っていいと思う。もったいないと、思う」

 ──あ、見抜かれてる。わたしは言葉を失った。
 Fの音が出ないことに対する不安が、焦りが、音に現れてしまっていたのだ。自分でも薄々感じていたことをはっきりと言い当てられて、胸の奥がヒヤリとした。

「……じゃあ、おれ行くね」
 孤爪くんはリュックを背負い直すと、わたしに背を向けて歩き出した。

「──あっ、あの……!」
 衝動的に引き止める。頭で考えるよりも先に。そうしなきゃいけないような気がした。

「孤爪くん、お願いしたいことがあるの……!」



back