#2

「孤爪くんの時間を、わたしにください!」

 振り返った猫みたいな目が、きょとんと丸くなる。なんだか壮大な言い方をしてしまったような気がして、わたしは「ちょっとだけでいいの!」と慌てて捲し立てた。

「わたし、毎日ここで朝練してるから、聴きに来て、感想を聞かせてくれないかな……!」
「え……」
「毎日じゃなくていいから! 孤爪くんが朝練に行く前の、一分だけでいいから!」

 ぱちんっと両手を合わせると、孤爪くんはきょろきょろと視線を彷徨わせた。

「お願いっ! どうしても受かりたいの……!」
「受かりたい……?」

 来月行われるオーディションのことを説明すると、孤爪くんは「……なるほど」と頷いて「でも、どうしておれなの」「同じ部活の人に頼めばよくない?」と首を傾げた。

「部員同士だと、どうしても技術的なことばっかりになっちゃうから、他の人の意見も聞いてみたくて……それに、孤爪くんはなんていうか、鋭い感性を持ってる気がする」

 ずいっと迫るように近づくと、孤爪くんは後退りした。
 『grandioso』──グランディオーソ。譜面に指示されている通り、堂々と演奏していたつもりだった。けれど、不安と焦りが招くわずかなためらいを、孤爪くんは聴き逃さなかった。
 突然現れた逸材に期待の眼差しを向けていると、最後は気圧されたのか、孤爪くんはしぶしぶ頷いてくれた。

「まあ、ちょっとだけなら……」
「ほんと!?」
 わあっと喜んで手を取る。

 こうして、わたしたちの不思議な関係が始まった。





 孤爪くんは、猫のように気まぐれにやってくる。
 わたしが朝練をしていると、ひょこっと窓から顔を出して「今、ちょっともたついてたでしょ」とだけ言ってすぐに自分の朝練に行ってしまったり、かと思えば、ゲームをしながらではあるものの「もう一回吹いてみてよ」と催促して、しばらく練習に付き合ってくれる日もあった。
 孤爪くんも朝練があるのに申し訳ないなぁと思いつつ、けれど時々「このままサボりたい……」などとこぼしている時があるので、そこまで負い目を感じる必要はないらしい。

「その音、いっこうに出る気配がないね」

 グサッとわたしにダメージが入る。今日は後者の日らしく、孤爪くんは教室の端に座ってゲームをしていた。
 孤爪くんって大人しいし口数も多くはないけれど、思ったことははっきり言うタイプみたいだ。

「そもそも音が出ないのにオーディションなんて、意味あるの?」
「うっ……挑戦することに意味があるのっ!」

 わたしは胸に刺さった矢を抜くように、トランペットを構えた。ムキになって息を吹き込む。いつものメロディー。Fの音は出なかった。

「……」
「……」
「か、感想は……?」
「……意地っ張りな音がした」

 ガクッと項垂れる。「……そういえば」孤爪くんが思い出したように顔を上げた。

「昨日の放課後、みんなで合わせてるの、聞こえた」
「あ、うん。昨日は全体練習で合奏したんだよ。課題曲、フロンティアスピリット。かっこいい曲だよね」
 わたしは改めて譜面を眺めた。

「うん……なんか、RPGのテーマ曲みたい」
「あーるぴーじー?」

 きょとんと振り返ると、孤爪くんはうきうきと目を輝かせていた。
 RPG……? わたしの脳裏──目の前には、草原が広がっていた。はじまりの草原。鞘から剣を抜いて、スライムに立ち向かっていく。わたしが攻撃を外してしまっても、すかさずフォローしてくれるのは、魔法使いの孤爪くん。無事にスライムを倒して、二人でハイタッチをしている姿が、この曲の向こう側に、見えた。

「ぷ……あははっ」
 わたしは思わず吹き出した。

「やっぱり孤爪くんって、感性豊かだね」
「……そうかな」
「うん、おもしろい!」
「……それって褒めてる?」
「もちろん」

 微妙な顔をしている孤爪くんを横目に、わたしは譜面と鉛筆を持って適当な席に座った。

「……なにしてるの?」
「絵を描こうと思って」

 ソロパート九小節のすぐ隣、譜面の余白に、思い浮かんだイメージを描いていく。スライムと勇者二人の小さなイラスト。

「……なにこれ」
「わたしと、孤爪くん」
「…………」

 気になって覗き込んできた孤爪くんは、絵を見るなりしかめっ面で黙り込んだ。「なに?」と聞けば「なんでもない」と目を逸らされた。馬鹿にされている気がする。

「もうっ! 結構効果あるんだから」

 わたしはもう一度トランペットを構えた。そして想像する。新たな冒険の始まり。わくわくと胸が躍るような緊張感を音に乗せる。Fの音は出なかった。──けれど、

「どうだった?」
「……うん、さっきよりも明るくなった」

 感心するように頷いた孤爪くんに、わたしはにんまりと笑った。

「ふっふっふ……孤爪くんさっき、“絵なんか描いてどうするんだ”って顔してたでしょ? イメージするだけでこんなに変わるんだから」

 してやったり顔でひけらかすと、孤爪くんは一瞬きょとんとして、それから呆れたように眉を顰めた。

「そんな顔、してない」
「うそ。さっき馬鹿にしたような顔してた」
「絵を描く作戦は、馬鹿にしてない」
「“は”って何? じゃあいったい何を──」

 黙り込む孤爪くん。わたしは首を傾げてまじまじと譜面を見つめた。うーん、としばらく考えていると、わずかに思い当たる節があった。

「まさかとは思うけど、わたしの絵、下手って思った?」
「…………」
「ひどいっ! だからあんな顔してたのね……!」
「……まだ何も言ってないし」

 「まだ!?」わたしが声を荒げると、孤爪くんは「やべ」という顔をして、逃げるように朝練に行ってしまった。

 始業前、旧校舎一階の空き教室は今日も賑やかだ。
 わたしだけのコンサートホールには、いつの間にか孤爪くんというお客さんが一人増えていて、そしていつの間にか、わたしたちは友達になっていた。

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