#10

 いつから、と聞かれればたぶん最初からなんだと思う。

 合宿から帰ってきて、ミーティングまでしてようやく解散になった。クロは自主練していくみたいだけど、おれはもうくたくただったし先に帰るつもりだった。
 体育館から出るとすっかり夕暮れの茜空が広がっていた。トランペットの音が聴こえる。おれ、相当疲れてるのかな。空耳かと思ってもう一度耳を澄ますと、やっぱりトランペットの音が聴こえた。
 そういえば今日コンクールって言ってたけど、そっか、もう終わったのか。いやでも、なんで吹いてるの。なんで、いるの。
 動揺するおれの目の前に、どこからか現れた三毛猫のしっぽが揺れている。ぱちぱちと瞬いてしばらく見つめ合う。なんで、いるの。不思議な出会い。こんなことが、前にもあった気がする。
 猫はおれを導くようにふらりと歩き出した。
 ああそうか。そういえばあのときも、君が導いてくれたんだっけ。



 初めてその音を聴いたとき、すごくきれいな音だと思った。
 いつも同じところでつまずくし、特別目立った上手さがあるわけではないけど、一生懸命で真っ直ぐで、とにかく応援したくなるような、そういった意味で人を惹きつける不思議な音だった。
 ──なんて言ったらたぶん苗字さんは顔を真っ赤にして拗ねるだろうけど、おれが言いたいのはそういうことじゃなくて、なんていうか、失敗しても諦めずに何度も何度も練習するそのひたむきなところが、おれにはあまりにも眩しかった。

 ──この音はいったいどこから聴こえてくるんだろう?
 ──どんな人が吹いているんだろう?
 ──今日はあの音、成功するかな?

 気づけばそんなことばかり考えていて、体育館に着くまでのあいだ、耳を澄ますのが日課になっていた。
 憂鬱だった朝練が少しだけ楽しみになった。苦手だった早起きも少しだけ得意になった。
 他人のレベル上げに親近感を覚えて共感していただけなのかもしれない。ちょうど曲もRPGのテーマ曲みたいで好きだったし。
 でもその音を聴くたびに、“今日もがんばろう”って、こっそり勇気をもらっていたのは確かだった。

 目の前を歩いている猫がたびたび振り返り、おれの姿を確認している。まるで着いてこいと言ってるみたい。
 あの日もおれはこんなふうに猫を追いかけていて、その先で思いがけず音の主に出会った。まさか同じクラスの苗字さんだったなんて。びっくりして、おれは咄嗟に隠れてしまったんだっけ。
 合宿でしごかれた脚がもう筋肉痛になり始めている。そんななか、おれはいつもの空き教室に向かっていた。導かれるまま、けれど自分の足で、向かっていた。

「孤爪くん」

 ハッとして顔をあげると、苗字さんがいた。教室の真ん中に、いつもと同じ場所に、彼女は立っていた。
 その手に持つ金色のトランペットがきらきらと夕陽を反射して輝いている。まぶしくて、目が眩みそうになる。

「本当に、来てくれた」
「……え」
「ここでトランペット吹いてたら、帰りにふらっと寄ってくれるかなあって待ってたの」

 苗字さんは「待ち伏せみたいなことしてごめんね」と気恥ずかしそうに言って、それから「どうしても伝えたくて」と姿勢を正した。

「コンクール、地区予選突破しました!」

 びしっと敬礼する苗字さんに気圧されたおれは「……お、おめでとう」とようやく声を絞り出して、ひとまず教室のなかに入った。
 
「精一杯演奏できて、すっごく楽しかった!」
「……そう。よかったね」
「孤爪くんのおかげだよ。本当にありがとう」
「別に、おれはなにも……」

 目を逸らすと苗字さんが笑う。その笑顔がまぶしくて、直視することができない。
 「それとね……」言いかけた唇を苗字さんはきゅっと結んで、それから意を決するように、

「好きだよ」
 ──と、真っ直ぐにおれを見つめた。

「突然ごめんね。あ、いや、たぶん孤爪くんは知ってたと思うんだけど……」

 それでも自分の口から伝えたかったのだと苗字さんは言う。あやふやなまま終わりたくなかった、と。

「孤爪くんって、周りから距離をとったり、ときどき自分を卑下したりするようなところがあるけど……でも、ちゃんと孤爪くんのそういうところを理解して、やさしさに触れて、好きになる人がいるってこと、どうしても知ってほしくて」

 苗字さんは言い訳をするみたいに早口で言い終えると、「ああ、スッキリした!」とおれをひとり置いてきぼりにして「ねぇ、ちょっと聴いて」とトランペットを構えた。
 苗字さんが息を吹き込むと、聴き慣れたメロディーがすっと夕焼けに溶けていった。つい先日まで毎日聴いていたはずなのに、それはどこか懐かしく胸に沁み込んだ。

「えへへ、どう? うまくなったでしょ」
 本当に、見違えるほど上手くなったと思う。

「ね、感想は?」
 苗字さんはうまく話をすり替えたつもりで無邪気におれの言葉を急かした。
 そういうわかりやすいところ、嫌いじゃないけど。ていうか、むしろ──

「おれも好きだよ」
「……え?」
「苗字さんのこと、好きだよ」
「えっ!?」

 そっと苗字さんの手をとる。
 なかったことにするなんて、許さない。
 
「あの、え、感想……? あれ、感想、……ええっ!?」
「ふふ、慌てすぎ。……うん。感想、感想ね……でも今は、好きって言葉以外なにも思い浮かばないや」

 たとえば猫に触れて嬉しそうに笑ったとき、オーディションに落ちて悔しそうに泣いたとき、おれが何度きみを抱きしめたいと思ったか、苗字さんは知らないだろう。
 この感情が“恋”であると知ったのは、苗字さんのひとりごとを偶然耳にしてしまったときだった。
 「好き」。その言葉があまりにもきれいにストンと腑に落ちるものだから、おれは動揺して逃げてしまった。まさか自分が恋をするなんて思ってもみなかったから。

「けど、憧れの先輩が男だったのはびっくりした……大好きな人って言ってたし……ちょっと混乱した」
「そ、それは……! 先輩は人として尊敬してるのであって、孤爪くんはもっと特別で……!」

 苗字さんはあたふたと顔を真っ赤にして一生懸命説明している。自分が言った台詞に照れてしまっているみたいだった。

「うん、それで?」
「……えっ!?」
「特別って、どんなの?」
「えぇ!?」

 ついつい揶揄いたくなる。かわいいから。
 にやりと笑うおれを見て、苗字さんは「なんか急にいじわる……!」とトランペットを鳴らして威嚇してきた。

「おれのこと追い払おうとしないでよ」
「そ、そんなことしないけど……!」

 「じゃあそれ置いて」と言って、トランペットを持っていた方の手も繋ぐ。両手をゆるく重ねあって、おれたちはそうしてしばらく向かい合っていた。

「……孤爪くん」
「なに?」
「……なんか、近いです」
「うん。近づいてるけど……だめ?」

 わかっているのかいないのか、苗字さんは小さく首を横に振った。それを確認してさらに顔を近づけると、「な、なに?」とすっとぼけたことを言うので、おれもすっとぼけることにした。

「挨拶……かな」
「あいさつ……?」
「そう、挨拶」
「そ、そっか。挨拶か……」

 ふふ、と笑みをこぼした苗字さんと、鼻の先を寄せ合う。そのまますりすりと頬ずりするかのように顔を傾けて、唇にそっとキスをしようとした、そのとき──

『にゃー』

 どこかに隠れていた三毛猫が、二人を見上げて鳴いている。はたと猫を見下ろして、おれたちはもう一度見つめ合った。
 先に堪えきれなくなったのは苗字さんで、つられてあとからおれも笑った。

「ごめんね、構ってほしいよね」

 苗字さんは猫を撫でながらそう言うけど、正直おれのことも構ってほしいと思った。
 ──なんて冗談はさておき。
 世の中こんなふうに理不尽なこともあるわけで、どんなにがんばってもオーディションには受からないし、助けようとした野良猫には引っ掻かれるかもしれない。努力は必ずしも報われないのかもしれない。それでもこうしてきみはおれと出会って、おれもきみと出会って、一緒に苦手を克服して、初めての気持ちを共有することができた。
 こうやって、ちがうところで報われるのかもしれないと思った。そうやって世界は回っているのだとも。

「ところで、孤爪くんっていつからわたしのこと好きだったの?」

 全然わからなかった、と苗字さんが笑う。
 おれは「さあね」と答えたし、じつは自分でもよくわかってない。ただ──

 きみが猫とFを克服したら、ようやくおれを見てくれる。そんなふうには思っていたかもしれないね。



猫とFを克服したら
end



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