#9

 孤爪くんはそれから何も言ってこなかったけれど、わたしはもう孤爪くんの顔をまともに見ることができなくなり、挨拶すらままならなくなっていた。
 まるで失恋でもしたような心地だったけれど、実際、わたしは失恋したんだと思う。
 わたしのひとりごとを、孤爪くんは聞いていた。そして居た堪れなくなったのだろう。逃げるように走り去っていった後ろ姿。沈黙。スルー。きっとそれが答えなんだ。
 脈なし。完敗。おつかれさま、乾杯。チーン……と机にめり込むように沈んでいると、

「苗字さん、いる?」

 ふと、聞き覚えのあるやさしい声に呼ばれて、わたしはパッと顔をあげた。

「せ、先輩……!?」

 教室の扉からひょっこり顔を覗かせているのは、大好きな先輩だった。トランペットのソロパートを見事に勝ち取った、憧れの人。
 先輩がわたしのクラスに来るなんて初めてのことで、びっくりして慌てて駆け寄った。

「どうしたんですか……?」
「ノート、部室に忘れてたみたいだから」
「あっ……!」

 先輩は「テスト期間だし、ないと困るでしょ」と言って、ノートを渡してくれた。
 そういえば今日から期末テストだった。わたしは自分の机の上に教科書が広げられているのを見て、最後の追い込み中だったことを思い出した。
 ノートを忘れていたことにすら気づかないなんて、ちょっとぼんやりしすぎだ。ふるふると頭を振って心のもやを振り払う。

「じゃあ、お互いテストがんばろうね」
「はい。ありがとうございます!」

 先輩はわたしの頭をぽんと撫でると、爽やかな笑顔を残して去っていった。
 わざわざ教室まで届けに来てくれるなんて、優しいなぁ。しみじみと背中を見つめていると、ふと突き刺さるような視線を感じた。振り向くとすぐ後ろに孤爪くんが立っていて、わたしは「ぎゃあっ!」と飛び上がってしまった。

「こ、こ、孤爪くん、どうしたの?」
「今の、だれ?」
「……え?」

 あまりにも自然に話しかけてくるものだから、わたしは一瞬、あの空き教室で二人きりでいるような懐かしい気持ちになった。
 けれどここは二年三組だ。ちらちらとこちらを気にしているクラスメイトの視線。孤爪くんは、気にならないのだろうか。

「あ、えっと、先輩……ほら、前にも話したと思うけど、わたしの憧れの──」
「……男だったんだ」

 孤爪くんが珍しくわたしの言葉を遮って、ぽつりとひとり言のように呟いたその言葉に、わたしは再びぽかんとしてしまう。

「う、うん……? あれ、言ってなかったっけ? ──先輩は、男の人だよ」

 どうして孤爪くんは当たり前のことを聞いているのだろう。最初はそう思ったけれど、わたしが“言うまでもなく当然”と思っていることは、孤爪くんにとってもそうであるとは限らないのだった。なぜなら孤爪くんは先輩に会ったことがなく、わたしから聞いた情報しか知り得ないのだから。吹奏楽部は女子が多いので、誤解していたのかもしれない。
 けれど、それは孤爪くんにとって大した違いではないはずだ。そう思って「ごめん、言ってなかったみたいだね」と、へらりと謝ってみたけれど、孤爪くんの表情はどんどん曇っていった。それはまるで、ショックを受けているときのような──

「……そう」

 孤爪くんはこくりと静かに頷いて、わたしの横を通り過ぎていった。

「──あっ、あの……!」

 衝動的に引き止める。頭で考えるよりも先に。そうしなきゃいけないような気がした。

「孤爪くん、お願いしたいことがあるの……!」

 こんなことが、前にもあった気がする。

「孤爪くんの時間を、わたしにください!」

 振り返った猫みたいな目が、きょとんと丸くなる。またまた壮大な言い方をしてしまったような気がして、わたしは「コ、コンクールの日……!」と慌てて捲し立てた。

「夏休み、コンクール、聴きに来てくれないかな……!」

 必死に言葉を繋いで、孤爪くんを見上げる。
 孤爪くんの瞳には、顔を真っ赤にして、泣きそうなくらい必死で、もの凄く勇気を振り絞った女の子が映っていた。それは、初めて彼にお願いをしたときのわたしとは全く違う表情をしていた。

「……えっと、」

 孤爪くんはきょろきょろと視線を彷徨わせて、じっくり言葉を選んで、それから言いづらそうに「そうしたいんだけど……」と口を開いた。

「たぶん、バレー部の合宿とかぶってる……」
「えぇっ!?」

 ガーン! とわかりやすくショックを受けたわたしを見て、孤爪くんは申し訳なさそうに、けれどどこか堪えきれない笑みを口元に浮かべていた。

「この日だよね……うん、やっぱりその日は合宿……最終日だけど、普通に一日練習して帰ってくるから……」
「そ、そっか……」

 それじゃあ仕方ないね。がっくり項垂れる。

「うん……でも、応援してる」

 やさしく微笑む孤爪くんの、穏やかな瞳。やわらかい声。
 こんなとき、やっぱり孤爪くんは本当に魔法使いなんじゃないかって思う。わたしがあたふたと慌てたり落ち込んだり舞い上がったりしてしまうのを、いつもそっと静めてくれる。
 例えわたしが彼自身のことで頭を悩ませていても、そんなのすべてどうでもよくなるくらい、素直になりたくなる。

「うん。孤爪くんも、合宿がんばってね」

 結局、孤爪くんと言葉を交わしたのはこれきりで、わたしたちは長い長い夏休みの間、それぞれの部活動に打ち込むことになった。





 音楽室の窓を開けて耳を澄ますと、体育館からボールの弾む音が聞こえてくる。キュッと床を蹴るシューズの音、飛び交う掛け声。
 わたしはじりじりと照りつける日差しに目を細めながら、夏休みに入ってから一度も会っていない孤爪くんのことを考えていた。
 孤爪くんもそこでがんばってるんだ。そう思うと不思議な力が湧いてくる。
 おーらいおーらい。ないすれしーぶ。聞こえてきた言葉をそのままくり返してみる。バレーボールのことはよくわからないし、わたしはこうしてこっそりエールを贈ることしかできない。
 孤爪くんからたくさんのやさしさと勇気を貰って、わたしはいったい、孤爪くんに何をしてあげられるだろう? 恥ずかしいから気まずいからと逃げ回って、そんな臆病者にいったいなにができるだろう?
 そうやって毎日毎日、譜面に描いた勇者のイラストを見つめていた。毎日毎日、自問自答するように、練習して練習して、そしてコンクール当日、舞台の上にあがったとき、わたしはいつもと同じように勇者のイラストを見つめていた。
 眩しいくらいのスポットライトに照らされて、額にはじりじりと汗がにじんでいた。心地よい緊張感に包まれながら、練習した日々と好きな人の声に背中を押されて、トランペットを構える。

 猫とFを克服したわたしはもう臆病者なんかじゃない。わたしはいつだって挑戦したい。自分の弱さと向き合いたい。

 一年前、なにもできずに逃げ出したわたしは今、迷うことなくしっかりと舞台を踏みしめて、堂々とトランペットの音を響かせていた。
 真っ直ぐに指揮者を見つめ、すべての神経を尖らせて、鉛筆で真っ黒になった譜面の音符が流れるように外の世界へ解き放たれる。何度も何度も練習した旋律が、儚くも美しく、宙を舞っては消えていく。
 トランペットのソロパート。わたしたちの意志を背負った先輩が、落ち着いた安定感をもって見事に吹きあげる。
 部員全員の呼吸がひとつになる。夢中だった。途切れることのない集中力で、最後まで駆け抜けた。
 あっという間の十二分間だった。気がつけば拍手喝采に包まれていて、このうえない快感と達成感に満ち満ちていた。
 指揮者の合図で立ち上がる。なんて清々しい眺めだろう。太陽のように降り注ぐ照明のまばゆい光を見上げたとき、わたしはもう心に決めていたのかもしれない。

 孤爪くんは今日、合宿から帰ってくる。
 向こうはそろそろ練習を切り上げるころだろうか。



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