#5

「孤爪くんは、ずるい」

 わたしが下唇を噛んで振り向くと、孤爪くんは「急にケンカ売らないで……」とげっそりしていた。
 孤爪くんは今日も朝から絶好調で、「なんで緊張してるの?」「音が震えてる」と的確に図星をついてくる。なんだか悔しくてつい悪態をついてしまったけれど、その悔しさの中にわたしのむずがゆい感情が隠れていることは、さすがの孤爪くんにもわからないだろう。

「なに……またなんかあったの?」
「べ、べつに何も」
「またそうやってすぐ目逸らす」
「…………」

 孤爪くんは、ずるい。
 普段は引っ込み思案でおどおどしているくせに、バレーボールを捉える手のひらと眼差しには迷いがないところとか、めんどくさいと不本意ながらに鍛えられた筋肉を制服の下に隠しているところとか、やさしい嘘をつきながらわたしの練習に付き合ってくれるところとか、全部全部、ずるい。
 ──けれど本当は、わたしの方がもっとずるい。
 あの日、バレー部の朝練がなかったことを問い詰めてしまったら、孤爪くんはきっと恥ずかしがって、もしくはわたしに気を遣って、この教室に来る回数が減ってしまうかもしれない。そう思ったから、わたしは彼の優しさに甘えてずっと知らんぷりをしている。
 そして、いったいどうして自分がそんな行動を取っているのか、その理由にも知らんぷりをしているのだから、本当に、わたしはずるいと思う。

「なにかあったんでしょ?」
「な、なにもないって!」
「じゃあなんでそんな挙動不審なの」
「きょっ……!」

 言えない。言えるわけがない。
 黙ったままふるふると首を振ると、孤爪くんはじとっとわたしを睨みつけた。いつの間にかスマホの電源を切って、じりじりとにじり寄ってくる。まるで昨日の三毛猫のように。わたしもじりじりと後退りして、互いに譲らない。

「おれのこと、避けてるでしょ」
「さ、避けてない」

 突然、腕を掴まれる。手のひらから伝わる体温にぶわっと頬が熱くなる。孤爪くんは猫みたいな鋭い眼差しで、わたしを射抜いた。

「苗字さん」

 ち、近い……!
 孤爪くんに名前を呼ばれると、それだけで心が乱される。全てを見透かされてしまいそうな気がして、わたしは無理矢理腕を振り切った。

「もうっ! なんでもないってば!」

 トランペットを構える。ヤケになって息を吹き込む。いつものメロディー。Fの音は出なかった。

「だから音が震えてるってば」
「も、もう一回!」

 ドキドキして、胸が苦しい。息を吸って、もう一度構える。窓の外に目を向けると、ちょうちょがひらひら舞っていた。心を落ち着けて、譜面を見る。いつか描いた勇者のイラスト。魔法使いの孤爪くん。君はいったい、わたしにどんな魔法をかけてしまったの──?
 ソロパートの九小節は、まもなく苦手なFの音へ。祈るように息を吹き込む──その時だった。

『にゃーお』
「──ッ!?」 “プーーーッ!”

 突然、目の前に猫が現れた。開け放たれた窓枠にぴょんっと飛び乗って、ゆらゆらとしっぽを揺らしている。花壇のちょうちょに狙いを定めると、飛び降りて、嵐のように去っていった。
 ね、猫、あ、びっくりした。急に、ああ、びっくりした──いや、ちょっと待って。
 孤爪くんと見つめ合う。目を丸くして、ぱちぱちと瞬いて、それから、

「でっ…………出たぁーーっ!!」

 気まずさも忘れて、わたしは孤爪くんの手をとって飛び跳ねた。

 その日、わたしは初めてFの音を克服した。


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