#4

 ある日、孤爪くんの忘れ物に気がついた。

「あれ?」

 タオルが椅子にかかっている。わたしのじゃない。どうやら孤爪くんが置いていってしまったようだ。
 わたしの朝練に付き合ってもらって、ついさっき、孤爪くんは自分の朝練に行ってしまった。

(どうしよう……)

 たぶん、朝練で使う……よね。預かっておいて、クラスで渡したところで間に合わない。必要なら取りに戻ってくるはずで、それを待っててもいいけれど、このまま知らんぷりするのはなんだか心苦しい。いつもお世話になっている孤爪くんに、いま、わたしができること。
 ──届けなくちゃ。
 互いにむつみし、日ごろの恩だ。仰げば尊し幻の二番を思い浮かべながら、わたしは立ち上がった。





 そうっと体育館を覗く。ためらって、引っ込む。さっきからそんなことを繰り返している。
 吹奏楽部のわたしにとって、そこは別世界だった。いくつも弾むボールの音や、キュッと床を蹴るシューズの音、運動部らしく飛び交う掛け声。聞き慣れない音たちが、わたしの場違い感をいっそう煽ってくる。
 ──孤爪くんは、本当にここで練習しているのだろうか。
 もっと言ってしまえば、本当にバレー部なのかと疑ってしまうくらい、この空間は彼のイメージとかけ離れていた。それはマイナスな意味なんかじゃなくて、むしろ、

「──研磨さん、トスお願いします!」

 研磨さん。その名前にドキッとして振り向くと、まさに探していた彼の姿があった。──けれど、何かが違う。いつもの孤爪くんとは、少し違う。
 ボールが高くあがっている。しなやかな手のひらがスローモーションのように、捉える。胸を打たれるような違和感だった。
 例えば、袖から伸びる腕。手の甲に浮かぶ筋。ボールを見上げて反る喉。それらはもっと華奢で、さらっとなめらかなものだと思っていた。違った。当たり前だ。
 孤爪くんは、男の子なんだ。

「研磨さん、お友達ッスか?」
「……え、苗字さん……?」

 目の覚めるようなスパイクが決まったあと、しばらく呆然と突っ立っていると、孤爪くんが汗を拭いながらやってきた。汗、かくんだ。そりゃ、そうか。

「……どうしたの? 俺に用?」

 孤爪くんは珍しいものでも見るみたいに目をぱちくりさせている。わたしはハッと我に返って「これ……!」とタオルを差し出した。

「あれ……忘れてたんだ……ありがとう」
「うん、でも急いで持ってこなくてもよかったかな?」
「あ、うん……いくつか持ってきてるから」

 孤爪くんは既にタオルを首にかけていた。けれど、徒労だとは思わない。
 「でも、ありがとう」そう言って頷いた彼の喉仏に汗が光る。なんとなく視線を逸らした先には筋張ったふくらはぎがあった。目のやり場に困るということの意味を初めて知ったような気がする。わたしは動揺して、頬の傷痕を無意識に隠した。

「じゃあ、練習がんばってね」
「うん」

 小さく手を振って、踵を返す。ゆっくり歩き出したはずが、自然と駆け足になっていく。ドキドキと高鳴る鼓動のリズムと重なっていく。
 孤爪くんの眼差しが、腕が、脚が、喉が、汗が、頭から離れない。なんだこれは。わたしはいったい、どうしてしまったのだろう……!

『にゃーお』
「ひっ……!」

 ──ね、猫だ……!
 びっくりして息が止まりそうになる。外に出たところでばったり鉢合わせてしまい、もんもんと考えていたことが全部すっとんでしまった。
 おそらく孤爪くんに助けてもらった時と同じ三毛猫だ。この辺りに棲みついているのだろうか。いや、それよりも……。

『にゃー』
「あ、あっち行って!」

 なぜかロックオンされてしまって、じりじりと猫が近づいてくる。
 うう、お願い。誰か助けて──そう思った時、救世主がやってきた。

「おや?」

 低い声がして、振り返る。背の高い男の人がわたしと猫を交互に見やっていた。すごいトサカヘッド……三年生だろうか?

「あ、あのっ! すみません、助けてください……!」
「いーよー」

 男の人は慣れた手つきでひょいっと猫を抱えると、「こいつ、最近この辺うろちょろしてるんだよねぇ」と頭を撫でた。

「うちのバレー部になんか用だった?」
「えっ、あっ、はい!」

 この人もバレー部なんだ。わたしが忘れ物を届けに来たことを説明すると、男の人は何やら思案して「おやおや?」とひらめいた顔をした。

「もしかして君──研磨のオトモダチ?」
「あ、はい! 孤爪くんとは同じクラスで……」
「……なるほどねぇ」

 男の人はニヤニヤと舐め回すようにわたしを見た。なんだかおもしろがっているような気がする。

「あの……わたしのこと、知ってるんですか?」
「まあ、噂はかねがね」

 孤爪くんがわたしのことを誰かに話すなんて意外だと思ったけれど、朝練の前に時間を作ってもらっているのだから、先輩に断りを入れていてもおかしくはない。一人で納得して、わたしは頭を下げた。

「いつも孤爪くんをお借りしてすみません、ありがとうございます」 
「いやいやいや、そんなそんな」

 男の人は大袈裟にかぶりを振った。おどけているのか謙遜しながらもニヤニヤしているところが、わたしの知らないことまで知っているようで、ちょっぴり怖い。けれど、悪い人ではなさそうだ。

「昨日もバレー部の朝練の前に、早い時間から付き合ってもらっちゃって……本当にありがたいです」

 わたしがへらりと笑うと男の人はきょとんと首を傾げて、それからまたあの怪しい笑みで「おやおやおや?」と心底楽しそうに顎を撫でた。

「昨日、うちは朝練なんてなかったはずなんだけどなぁ」
「え?」
「点検で使えなかったのよ、体育館……あ、もしかしてコレ言わない方が良かった感じ?」
「え?」

 ──え?
 

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