#7

 放課後の音楽室にひときわ大きな拍手が鳴り響いた。トランペットから口を離した先輩は、手応えを噛みしめるように頷いて後ろに下がった。
 やっぱり、先輩は偉大だ。深い音色の余韻に浸って、わたしはぼんやりと拍手を送っていた。

「──次、三番の方」

 ハッとして前に出る。譜面台をセットして、固い床を踏みしめる。ついにこの時がやってきた。
 審査員は部員の仲間たち。たった一人のソリストを決めるため、みんな後ろ向きに座って目を閉じている。憧れの先輩も今はライバルだ。聞き惚れている場合じゃない。
 ごくりと喉を鳴らす。深呼吸をして、譜面に視線を落とす。そこには二人の勇者がいた。孤爪くんとわたし。朝練で積み重ねてきた時間。ずっと二人で戦ってきた。わたしはひとりじゃない。そう思った瞬間、すっと震えが止まった。

『がんばれ』

 今朝、孤爪くんがくれた言葉がわたしの背中を押す。やっぱり、孤爪くんにお願いしてよかった。こんなにも心強く胸に響く言葉はないもの。
 わたしは大きく息を吸い込んで、どこまでも続く草原の真ん中で、トランペットを構えた。





 翌日の朝、わたしは空き教室に訪れていた。もう来る必要がないのに、なんだか落ち着かなくて、居場所を求めたらここに行きついていた。
 すっかり手に馴染んだトランペットを右の手に持ち替えたり、左の手に持ち替えたりしながら、朝の時間を持て余す。
 窓の外にはすっきりとした青空が広がっていて、開け放たれた窓から爽やかな風が舞い込んできた。清々しい。そんな気分だった。

「やっぱりいた」

 当然のように現れた孤爪くんが、掃き出し窓からふらっと猫のように入ってくる。約束なんてしていないのに。
 なんかもう習慣になっちゃったよね。そう言って笑ってみるけれど、孤爪くんは落ち着かない様子でそわそわしている。そうだよね。気になるよね。

「落ちちゃった」

 吹っ切れた声が、すとんと胸の中におさまる。そう、わたし、落ちちゃったの。
 課題曲のソロパートを担当することになったのは、憧れの先輩だった。過半数の票が集まって、あっさりと決まってしまった。その差は歴然だったし、実際わたしも聴き惚れてしまったくらいなので文句のつけようもない。

「……そう」

 孤爪くんはそれだけ言って、床に腰をおろした。

「もちろんショックだったけど、同時に嬉しさもあるの。本当に尊敬してる先輩だし、大好きな人だから。それになにより、不思議とすっきりしてるんだ」

 からっとした声で、昨日のオーディションを振り返る。
 落ち着いて堂々と演奏することができた。Fの音もうまくいって、曲のイメージも音に乗せることができた。全部うまくいった。全力を出し切るってこういうことなのかなって実感したくらいに。

「たぶん、今までで一番いい演奏ができたと思う」
「そっか……よかったね」

 孤爪くんが小さく微笑んだ。
 そうだね。本当によかったと思う。

「……わたし、去年のコンクール、演奏しなかったの。舞台の上にのぼらなかったとか、そういう指示があったわけでもなんでもなくて、言葉通り、演奏しなかった。たくさん練習したのに、みんなは全力を出し切っていたのに、緊張して、ただそれだけの理由で、ひとつも音を出さなかった」

 わたしは逃げた。達成感に包まれた舞台裏。拍手喝采。なにも心に響かず、ひとつも共感できなかった。恐ろしかった。置いてきぼりの空気ではなく、なによりも、演奏するふりをした自分が恐ろしく情けなかった。

「オーディションに参加したのは自分への戒めのためだったの。臆病者の自分への挑戦状のつもりだった。ソリストは、逃げも隠れもできないから」

 思い出す。オーディションで演奏した時の、心が湧き立つ瞬間を。わたしがずっと欲しかったもの。

「やりきったよ、わたし。達成感で胸がいっぱいなの」

 清々しい風を全身で受け止める。わたしのなかに、新しい風が吹き込んでくる。
 すっきりしている。それは確かなのに、どこかぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。

「……くやしいよね」

 体育座りでじっと耳を傾けていた孤爪くんが、ふいにそんなことを言った。
 途端、ぽろっと涙がこぼれ落ちたので、わたしは自分でもびっくりしてしまった。
 ──そうか、わたしはくやしいのか。

「なんでだろうね。やりきったし、全力を出し切ったし、」

 やりきった。全力を出し切った。だからこそ、

「後悔はしてないけど、ただ──」

 ──くやしい。
 それを口にした途端、とめどなく涙が溢れてくる。
 ぽろぽろこぼれ落ちる涙を拭う。次から次へと溢れてくる。しゃくりあげて、声が出る。堪らず顔を覆って泣いた。声をあげて泣いた。
 気づくとそばに孤爪くんがいて、わたしの背中にそっと触れた。あたたかい手のひらのぬくもりが、じんわりと心の中に染み込んでいく。

「うう、そんなのずるい……」

 結局わたしは、心ゆくまで泣いてしまった。孤爪くんは黙ってそばにいてくれた。何も言わずに寄り添ってくれるやさしさが、余計に胸に沁みた。
 好きだと思った。彼のやさしさ、ぎこちない手、すべてがきらきら光る特別なもののように思えた。

「孤爪くん、今までありがとね」
「そんな永遠の別れみたいに……」
「ふふ、違うよ。今まで朝練に付き合ってくれてありがとう」

 孤爪くんはあからさまに嫌そうに顔をしかめたけれど、これは照れ隠しなのだとわたしは知っている。

「バレー部の朝練がない時も、来てくれてたでしょ」

 知ってるよ。そう言うと、孤爪くんは決まりが悪そうに目を泳がせた。気恥ずかしそうに口を尖らせて、そしてひと言、こう言うのだった。

「……友達なんだから、当たり前でしょ」
 
 そうだね、と言って頷いた。わたしはうまく笑えていただろうか。
 ともだち。その言葉がこんなにも残酷に響くなんて、わたしは今まで知らなかった。
 
 

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