#8

 オーディションが終わると同時に、わたしの朝練も終わった。
 もともとオーディションのために始めたものだったし、テスト前ということもあって勉強に集中しなければならなかった。
 孤爪くんとクラスで話すことはほとんどなかった。孤爪くんはずっとゲームをしているし、クラスだと話しかけるなオーラみたいなのも特に強いから、用事がない限りわたしから話しかけることもしなかった。今は「おはよう」と「ばいばい」だけがわたしと孤爪くんを繋ぎとめている。

『別に、堂々としてればいいじゃん。──友達なんだから』

 いつかの言葉を思い返す。堂々と話しかけることができないのは、わたしの気持ちに変化があったからだった。“友達”という言葉に違和感を覚えて、隠しきれなくなってしまった恋心。
 それに、わたしと孤爪くんが急に仲良くしているところを見れば、クラスメイトはあれこれ追及してくるに違いなかった。変に囃し立てられたくない。それはただ、わたしが図星をつかれて恥ずかしい思いをするからという理由だけではなくて、なにより嫌な顔をする孤爪くんを見たくなかった。そうだよね、勘違いされたら嫌だよねって、改めて納得するのが怖かった。
 わたしたちは簡単に、クラスメイトの距離感に戻った。
 朝練をしていたときは、“人知れず特訓している秘密のタッグ”みたいな関係がかっこいいと思っていた時期もあったけれど、今はただ、ひたすらにさみしい。

「つぎ移動教室だってー」
「あ、うん」

 友達の後を追うように席を立つ。ちらりと目を向けるといつも通りゲームをしている孤爪くんの姿があった。
 すぐ近くにいるのはずなのに、どうしてこんなに遠くに感じるのだろう。





 なんとなく思い立った放課後。わたしはひとり、あの空き教室に訪れていた。
 今日は部活も休みなのでトランペットも持たず、これといった目的も持たず、いったいわたしはなにをしにここに来たのだろう?
 窓を開けると、夕暮れの心地よい風がさらりと頬を撫でた。懐かしい匂い。たくさん練習したな。たくさん話して、たくさん笑ったな。そんなふうに思いを馳せていると、

『にゃー』

 猫の声がした。つい反射的に身体を強張らせたけれど、わたしはもう猫を克服したのだった。
 掃き出し窓を開けると、いつもの三毛猫がふらっと教室の中へ入ってきた。さも当然というような顔をして、自由気ままに歩き回っている。
 マイペースに現れる姿はどこか孤爪くんにそっくりで、わたしは無意識に微笑みながら猫に目線を合わせた。

「ひさしぶりだね」

 そっと話しかけて、手を伸ばす。まだ少しだけ緊張するけれど、孤爪くんに教えてもらった通り、人差し指を立てて、ゆっくり、下から近づける。
 ドキドキしながら待っていると、猫は真っ直ぐこちらにやってきて、迷うことなく鼻をくっつけてくれた。そしてすりすりと甘えてくれる。

「ふふ、かわいい」

 ごろんと寝転がる身体を撫でてやると、猫は嬉しそうに目を細めた。
 やっぱり、孤爪くんに似てる。お日様をいっぱい浴びたやわらかいぬくもりに触れると、心がぽかぽか温かくなるところ。それにこの子の、頭のてっぺんから顔にかけて黒と金のグラデーションになってるところとか、特にそっくり。わたしは笑って、そして少しだけ寂しくなった。

──会いたいなあ。

 ふと、こぼれた言葉に息を呑む。あれ、今、わたし声に出してた? 動揺して、鼓動がはやくなる。

『にゃー?』

 猫が不思議そうにわたしを見上げている。そうだ、ここにはわたしとこの子しかいないのだった。ふう、と心を落ち着ける。そして向き合う。
 同じクラスで毎日顔を合わせているはずなのに、会いたいなんておかしな話だ。でもこの会いたいという気持ちも嘘じゃない。それは、いったいどういうことなんだろう?
 孤爪くんの姿を思い浮かべてみる。じんわりと頬が熱を帯びて、心がぽかぽか温かくなる。
 同じクラスで、朝練に付き合ってもらって、それでももっと会いたいなんて、わがままだよね。
 ぼんやり耽っていると、猫が大きなあくびをした。その姿が、いつかこの教室の端っこで眠そうにゲームをしていた彼とまた重なって、わたしはもう一度笑ってしまった。

「君はほんとうに孤爪くんにそっくりだね」

 くすくすと笑って、撫でて、それから言葉の響きを確かめるみたいに、そっと呟いてみる。
 
 “すき”
 “すきだよ”
 “だいすき”

──ガシャンッ

 突然、何かが落ちる音がして、驚いた猫が窓の外に飛び出していった。
 一瞬の出来事だった。
 わたしは唖然として、口を開けたまま、少しのあいだ動けなかった。

──誰?

 窓の外からした音を確かめるため、立ち上がる。心臓がさっきとは違う脈の打ち方をしている。ドクンドクンと震えて、つま先はぴりぴりと痺れていた。
 掃き出し窓から外へ出る。
 左を見ると、駆け出した猫がちょうど曲がり角を曲がるところだった。
 右を見ると、慌てて走り去っていく背中があった。さらさらと靡く、黒と金のグラデーション。わたしはあの後ろ姿を知っている。

「孤爪くん……?」

 呟いた声は誰に届くこともなく足元に落ちていった。さわさわと葉をゆらす風の音。いったい何が起きたのか。わたしはぽかんと立ち尽くして、しばらくそうして、それから一気に脱力した。

──き、聞かれた……ッ!?

 ガクッと地べたに手をつく。全身の血の気が引くような、のぼるような、とにかく抱えきれないほどの感情がドッと押し寄せて、わたしはそこからずっと動くことができなかった。
 


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