06 二つの落差


聞き慣れたチャイムが響けばそれを合図にクラスが騒がしくなる。友達と話し始める人、身支度を整える人、颯爽とクラスを出て行く人。そんな中、名前がちらっ、と後ろに視線をやれば、もう既に赤司は席にいなかった。やばい、と焦って乱雑に鞄を掴んで廊下に出れば、少し離れた先に赤髪が揺れていて、まだ間に合いそうなことに一瞬の安堵が生まれた。そして名前は自分が緊張していることも忘れて只管廊下を走った。やがて赤司が廊下の角を曲がろうとした時、名前は考えるよりも先に彼の名前を呼んでいた。

「赤司くん…っ!」

突然名前を呼ばれた事に少し驚いた赤司は、目を丸くさせて振り返り、名前が走ってくるのを見てその場に立ち止まった。

「赤司くん、あのね、CDありがとう…返さなくちゃ、って思って…」

「ああ、そのことか。別に構わないのに」

赤司くんはきっと急いでいるに違いない。だってこんなに早く教室から出て行ったのだから。それなのに私なんかが呼び止めてしまって…早くお菓子を渡さなくちゃ、と名前は肩にかけていた鞄をぎゅっと強く握った。そしていざ、あの、と声を出すその直前に、赤司が何かを思い出した様に、あ、とその沈黙を破った。

「もしよかったら、そのCDを隣のクラスのミランダさんに渡してもらえないかな」

名前は赤司の口から唐突に出てきた女性の名前を心の中で何度も復唱した。やがてその意味を理解すれば心臓がドクンと鳴って、誰かにぎゅうと掴まれた気がした。頭の中が混乱している為に、え、としか返せなかったが、赤司は名前の動揺に全く気付かずに話を続けていく。

「彼女もこのCDを借りたいそうでね。本当だったら持ち主の俺が渡すべきなんだろうけど、生憎、今は時間が惜しいんだ」

赤司は眉を下げてすまない、と腕時計を一瞥した。あ、私迷惑かけてる。そう思った名前は申し訳なさから、小さな声でわかった、と告げた。赤司はじゃあ、お願いするよと踵を返して歩いて行った。その背中を見つめながら再び鞄をぎゅっと握りしめ、名前はその場から暫く動けなかった。



隣のクラスまで戻ると、丁度HRが終わったようで、沢山の人が教室から出てきた。名前は、その中にミランダがいないことを確認してから教室の中を覗き、すぐに金髪の綺麗な髪がキラキラしているその姿を見つけた。やっぱり何度見ても美女だ、と羨ましくなりながら、今回初めて話すであろう彼女に近づいていく。

「ミランダさん…?」

机の中の教科書を纏めていたミランダはその手を止めて名前を見上げた。突然知らない人に話しかけられてびっくりしたのか、キョトンとした様子で名前を見つめながら黙り込んでしまった。

「あ、私隣のクラスの苗字だよ、あの、これ、赤司くんから…」

「…!」

スッと控え目にCDを差し出せば、再びびっくりした様子でCDと名前を交互に見つめた。漸く状況を理解したミランダは、目を伏せながら小さな声でありがとう、と言ってそのCDを受け取った。

「…征十郎は、部活?」

「へ、あ、赤司くん…?そう、部活…」

征十郎。鈴の音のようなその声が名前の心にちくりと針を刺した。少し動揺しながらもそれをうまく隠すように誤魔化した名前。このモヤモヤとした感情が何なのかわからない程名前も馬鹿ではなかった。じゃあ、と下手に笑顔を浮かべて去ろうとすると、ミランダは名前の瞳を真っ直ぐ見つめてきた。

「あなたも、好きなの?」

ドキン、
冷や汗が頬を伝う感覚。振り返れば、ぱっちりくりくりの人形のような澄んだ瞳と視線が交わる。その瞬間に劣等感が名前を襲った。ミランダはまるで天使のようだった。そう、確かモデルのスカウトを何回もされたことがあると噂には聞いていたが、それも含め、改めてこの子には敵わない、名前はそう思った。

「…クラシック」

言葉に詰まり戸惑う名前を暫く見つめて、ミランダは見計らった様にそう言った。名前は呆気にとられ、へ、と声を漏らす。

「好きなの、クラシック、あなたも?」

「あ、く、クラシック!うん、好き!」

一度嘘をつけば嘘はどんどん広がっていく。名前は内心面倒なことになった、と頭を抱えたくなった。ミランダは名前の返答を聞いて、初めて嬉しそうな笑顔を名前に見せた。

「私も、クラシックが大好きなの…征十郎もクラシックが好きだって知った時、本当に嬉しかった…」

(か、かわいい…!抱きしめたい…!)
同じ女でありながら名前はミランダの笑顔に見惚れてしまった。名前の目には、彼女の背景に天使の羽が舞うのが見えたそうだ。

「CD、わざわざ届けてくれて、どうもありがとう」

可愛い上に、なんていい子なんだろうと何処か保護者のような気持ちで涙を拭って名前はミランダに手を振った。教室を出た後、廊下を歩きながらミランダのことを考えていたら、自分が重大なことを忘れていたことに気が付いて名前はハッとする。

ミランダさんって、赤司くんのこと好きなんじゃん!

ぽわぽわとした感情に冷水をかけられたように、サッと顔が青くなる。赤司とミランダは確かすれ違えば挨拶していたし、お互いのクラスを行き来していることもあった。きっとそれは単にCDの貸し借りなのだろうと想像は付くけれど、それでもその際にあのかわいい笑顔で先程の様にありがとうなんて言われたら、あの赤司でもきっとああ、なんてかわいいんだと思うに違いない。名前は自分で勝手に妄想を繰り広げておきながら、ヤキモチを焼かずにはいられなかった。もし、あんなにかわいい子から好きだなんて言われたら、きっと赤司くんだって…。名前はどんどん悪い方向へ考えていき、最後には自分の足元を見ながらトボトボと帰路を歩いていた。

赤司くんと関わるようになってからの今までが幸せすぎたからなのかもしれない。一気に落ち込んでしまったのは、きっとその所為だ。名前は自分が今までしてきた朝の挨拶も、不自然に側に行くことも、物の貸し借りをするのも、なんてことのない行動だったと思った。赤司はとてつもなく人気で、それはもう理解の上で。今までの名前のように陰からひっそり赤司を見る者もいれば、ミランダのように、必死にアタックしている者もいるのだ。それも当然だった。頭では理解しているつもりが、いざこうして現実を受け入れようとすると、胸が苦しくて仕方がなかった。赤司に誰か特別な人ができてしまう。その本当の意味を初めて理解したような気がして、名前は抱きたくもないどうしようもない嫉妬を振り切るように、意味のなかった鞄の中のそれを奥の底の方にぐいっと押し込んで少し乱暴にチャックを閉めた。




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