【 社会人四年目 冬 】

 ふと目が覚めると、わたしは厨房の丸椅子に腰掛けて頬杖をついていた。
 しんと静まりかえった閉店後のパティスリー・スヴニール。ステンレスの冷たい作業台の上には食べかけのアップルパイがあって、ふんわりとスパイシーな香りが漂っている。
 クリスマスからバレンタインにかけて怒涛の日々を過ごしてきた。今日、無事にホワイトデーまで終わって、ようやくひと段落したところだった。
 時刻はすでに二十二時を回ろうとしている。売れ残りで小腹を満たそうと思ったら、途中でうたた寝してしまったらしい。目頭を押さえてため息をこぼす。
 このアップルパイは、わたしが初めて一から作り上げた商品だ。初めて店頭に並んだ作品が、パティシエを目指すきっかけとなったお菓子というのは感慨深い。
 記憶を辿ると、懐かしい顔が浮かんでくる。
 ──研磨。
 ふとため息をついたら、その息が白く立ち昇っていく、幻覚を見た。橋の下を流れる川の、静かなさざなみ。
 まぶたを閉じると、アップルパイの香りと共にすべての記憶が流れ込んでくる。
 あの初々しいバレンタインデーに渡したアップルパイも、確か品種はふじりんごだった。長期間流通している、甘酸っぱい禁断の果実──。
 いったいわたしたちは、いつから間違えていたのだろう。アップルパイなんて渡さなければ、モンハンなんてやらなければ、別れて一年経った今でもこんなに胸を締め付けられることなんてなかったのに。
 もしも二人がただのクラスメイトであったなら、今ごろわたしは、同じく独身の友人と実家近所の居酒屋で祝杯をあげていただろう。乾杯! ホワイトデーなんてクソ食らえ! そして隣の席に座るサラリーマンのスマホからKODZUKENの配信が流れてくると、「あれ高校の同級生なんだよね」って、プチ自慢。バタフライ・エフェクト。そんな人生も、悪くない。

──本当に? 本当にそう思ってる?

 記憶にない研磨の声が聞こえて、ハッと目を覚ます。わたしは実家近所の居酒屋の丸椅子に腰掛けて頬杖をついていた。
 しばたたいて、ぐるりと辺りを見回す。賑やかな店内。ぼうっとして、ようやく思い出す。わたしは食べかけのケーキをかき込んだあと、それでも満たされずにこの居酒屋に訪れたのだった。
 少しだけ口に含んだアルコールのせいで、またうたた寝してしまったらしい。恥ずかしくて縮こまる。けど、誰もわたしのことなんて気にも留めていない。ホッと胸を撫で下ろして、もういい加減帰ろう──と財布を掴んだとき、ふと隣の席から研磨の声が聞こえた。

『──だから、本当に? おれが彼女いたことないって、みんな本当にそう思ってる?』

 くくっと嘲笑うような声。どくんと心臓が跳ねて、一気に酔いが醒めていく。

『これでも一応、いたよ。一年前に別れたけど。情報解禁=H ふふ、うん。ホワイトデーだし、特別に教えてあげる』

 隣に座っているサラリーマンのスマホから、研磨の配信が流れている。わたしは固まって、息を呑んで、目を逸らすことができない。

『出会ったきっかけはモンハンだったんだよね。たまたま同じパーティーになって、それが高校の同級生だったんだけど……あ、けっこう人集まってきたね。ちょうどいいや。ちょっと相談したいことがあるんだけど、このまま聞いてくれる?』

 恋愛事情をずっと伏せていた研磨が、あっけらかんと暴露している。わたしとのこと。

『彼女CAKEGURUGURU≠チて名前でやっててさ──で、ついこの間、モンハンで同じ名前の人を見つけたんだよね』

 どきっとする。
 ありえない。だって、まさかそんな、

『──CAKEGURUGURU2≠チて名前。おれ、まさかと思ってメッセージ送ったの。久しぶり≠チて。そしたら、うん≠チて返ってきた。たぶん、やっぱり元カノなんだよね』

 ──え? ちょっと待って。
 わたしはそんなやりとりしていない。
 そもそも2≠ネんて付けてない。
 研磨、ちがう。わたしじゃない。それはたぶん────

『で、相談なんだけど。今日これから彼女と会うことになってるんだ。例の場所で≠チて約束して。彼女、来てくれると思う?』

 ガンッと頭を殴られるような衝撃。いったい、どうなってるの?
 例の場所なんて、ニセモノが知るはずない。だってあの場所は、わたしと研磨だけの思い出の場所なのだから──。
 ふと、ひとつの可能性が浮かび上がる。
 KODZUKENという名前を耳にしただけで、たちまち職場に広まったり、高校の同級生が二人の行く末を気にしていたり──。
 もしもなりすまし≠ェ、わたしとKODZUKENの関係を知っているとしたら、絶対にないとは言い切れない。
 ざわっと胸が騒ぎだす。誰なの? 2≠チて誰なの? やめて。研磨をたぶらかさないで──!

『え? やめとけ=H 危ない、騙されてる=H みんなそう思うの? えー、やっぱりそうかな?』

 研磨は呑気に視聴者と雑談している。
 ──そうだよ! やめて、研磨!

『でもおれ、もう一度会ってみたいんだ。会って話したいことがたくさんある』

 ──違うんだってば!

「ちょっとすみません」

 気づくとわたしはサラリーマンのスマホを奪い取ってチャットに文字を打ち込んでいた。

[研磨、ちがう。それわたしじゃない]

 送信したメッセージは目にも留まらぬ速さで流れていく。

『──あ、もうこんな時間か。そろそろ行かなきゃ』

 配信を切ろうとする研磨。最高潮に盛り上がるチャット。埒が開かない。わたしは呆然としているサラリーマンにスマホを突き返し、テーブルに万札を叩きつけて店を飛び出した。

 三月の夜風が頬を切る。乾いた空気が喉に張り付き、焼けるように痛い。
 思い出す。あのバレンタインの日も、同じように夜の街を駆け抜けた。
 ただひとつ違うのは、今わたしが抱えているのはアップルパイではなくて、あの頃のように純真無垢に彼を愛し抜けなかった後悔だ。
 どうしてずっと同じままでいられなかったんだろう。ずっと二人でいたかった。ただ二人でいるだけでよかった。誰にも邪魔されたくないと思っていたのに、わたしが、魔女が、お菓子の家が、わたしたちを閉じ込めてしまった。

 ポケットからスマホを取り出し、電話をかける。──繋がらない。もうこれで五回目だ。
 走りながら考える。このまま会いに行っていいのだろうか。ひどいことを言った。謝らなくちゃ。──でも、あれも本心だった。わたしがずっと感じていた不安や不満。そっと蓋をしてやり直したところで失敗するに決まっている。お菓子作りに妥協は許されない。じゃあ、どうすればいいのか。
 わからない。わからないままわたしは走る。今はただ勇敢なグレーテルになりたい。救難信号を発射している研磨のもとへ駆けつけたい。

 二人の街をつなぐ橋を渡る。土手を駆け下りていくと、橋の下に座り込む人影を見つけた。
 ──研磨!
 わたしが勢いのまま駆け寄ると、「あ」と驚きもせず顔をあげた。研磨だ。わたしの目の前に研磨がいる。
 パーカーの紐をぎゅっと締めて、裏起毛スウェットの上にもこもこのルームソックスを履いて、目元だけ出した雪だるまみたいになっている。
 わたしは膝に手をつき、ぜえぜえと肩で息をして、なんて言ったらいいのか、その場でようやく思考を巡らせた。

「来てくれたんだ」

 フードを後ろに落として、研磨は薄く笑みを浮かべた。「ちがう」と咄嗟に首を振る。

「それ、わたしじゃないから……! 2≠ネんてニセモノに決まってるじゃん!」
「うん、知ってる」
「えっ!?」
「あれ全部嘘だから」
「はあ……!?」

 勢いが空振りして、ずるっと滑りそうになる。研磨は淡々と表情を崩さない。

「ど、どういうこと……?」
「名前が慌てて駆けつけてくれるかなって」
「うそ、そんな、でも、なにもあそこまでしなくても……! いまごろネットは大騒ぎだよ!」
「そうかもね」
「だいたいわたしが来なかったらどうするの? こんな場所で夜遅くまで待ち続けるつもりだった? そもそもわたしが配信見てなかったら──」
「うん。でも、会えた」

 ほっと息をつくように、顔をほころばせる。その表情を見て、本当にあの研磨が博打をうったのだ、と実感した。
 わたしは拍子抜けして、ぽかんと立ち尽くした。研磨のことだから、種も仕掛けも用意しているものだと思ったのに。
 
「会おうって言ったら、たぶん会ってくれるってわかってた。でもそしたら、名前はいろいろ難しいこと考えてから会いにくるんだろうなって思ったんだ」

 言葉を失う。研磨は誰よりもわたしのことを知っている。おそらく、わたし以上に。

「ねぇ、一年離れてみてどうだった? ちょっとすっきりしたんじゃない?」

 確かに、研磨と別れてから、悪気のない比較や羨望の眼差しから解放されたし、嫉妬の対象がすぐ側にいないことでわたし自身、肩の荷が下りた気もする。でも──

「でも、やっぱり研磨がいないと……」

 いつだって思い浮かぶのは研磨のことばかり。忘れようと思えば思うほど胸が締め付けられる。

「じゃあ、同棲だけ解消しようか」
「え?」
「それか別れたままでもいいけど」
「え、え……?」

 まるで今日の献立を決めるような調子に戸惑っていると、研磨はけろっとした顔で「どうしたの?」と首を傾げた。

「そ、そんな都合よくていいのかな……」

 ずるい。ルール違反だ、と思う。研磨はムッと顔をしかめた。

「都合よくて何が悪いの? 同棲が難しいなら無理に続ける必要はないし、また一緒に住めるときが来たらそうすればいい。別れたって、また数年後に付き合い直せばいい。ルール違反? それは誰が決めたルールなの? 環境が変われば価値観も変化していくよね。それは名前が一番よくわかってるんじゃないの?」

 一気に捲し立てられ、気圧けおされる。
 「今度からはさ、」と研磨は続ける。

「ちゃんとこういうこと、話し合お。二人で解決策を見つけなきゃ」

 わたしの手をとる、研磨の指がとても冷たくてびっくりする。

「一人で抱え込まないで、全部おれに教えて。あと、一人で抱え込ませたおれも、ごめん」

 眉間に皺を寄せて唇を尖らせる研磨を見て、あぁなんだ、と思う。肩の力が抜けて、すとんと腑に落ちる。
 わたし、全部一人で解決しようとしていたのか。
 生活費が苦しかったときも、インターンシップでこっぴどくしごかれたときも、妙な噂が流れていると知ったときも、人気者になった彼にわだかまりを抱いたときも、へたくそなアップルパイでも渡したらよかったし、素直にさみしい≠ニ言えばよかったし、わたしも研磨って呼んでいい?≠チて訊けばよかったんだ。
 甘えたらよかった。わがままを言って困らせればよかった。モンハンだったらわたしは、すぐに救難信号を発射していたはずなのに。

 「わたし、」 ぽつりとつぶやく。

「高校生のとき、研磨が人気者になってもやもやしてた。下駄箱にチョコが入ってたときも、知らない先輩に声をかけられたときも、研磨が遠くに行って、誰かにられちゃうような気がしてた」
「おれはどこにも行かないし、ずっとあの家で名前を待ってる」

 研磨がぎゅっと力を込める。

「仕事だってがんばっても上手くいかないし、後輩に先越されちゃうし、研磨ばっかり褒められて、認められて」
「それは……ごめん。おれにはどうしようもできないから、その悔しさをバネにがんばって」

 ちょっとおもしろくて、笑ってしまう。

「なんの有り難みもなく高級チョコぱくぱく食べたり、買い物カゴにエナジードリンクぽいぽい入れたり、業務用オーブン備え付けの部屋借りるとか、びっくりするし、むなしくなるからやめてね」
「だってお金あるし……」
「わたしが嫌なの」
「うーん……」

 研磨が唸って一生懸命考えてくれるので、堪えきれず吹き出してしまう。

「ふふ、こんな理不尽なわがままにも合わせようとしてくれるんだ?」
「え……そりゃあそうでしょ」

 なんか文句ある? と言いたげな顔に、首を振る。なんだかおかしい。おかしくて、涙がこみあげてくる。

「もしも別れたままでいるとして、研磨はずっとわたしを好きでいてくれるの?」
「当たり前でしょ……ってか本当は去年のホワイトデーに、結婚しようって言うつもりだったんだけど」
「えっ、そうなの?」
「でも名前はそれどころじゃないって知ってたし、時期とかいろいろ相談しようと思ってたから、すぐにってわけじゃないけど。仕事がんばりたいんだろうなって、わかってたから……」

 ああどうして、一番側にいてほしい人を大切にできなかったんだろう。
 まじまじと見つめると、「……なに」と嫌そうに顔をしかめる不器用な人。一番にアップルパイを食べてほしかった人。
 「……研磨」噛み締めるように名前を呼ぶ。

「ひどいこと言ってごめんね。たくさん迷惑かけて、遠回りさせてごめん。それから一人で抱え込んで、本当にごめんなさい」

 その手を、強く握りかえす。

「あと、やっぱり別れたままは嫌。もう一度わたしと付き合って、一緒に住める日が来るまで待っててほしい」

 あ、わがまま言えた。びっくりしていると、研磨がわたしの腕を引き寄せて、本当にひさしぶりのキスをした。たくさん話し合った唇が、かさかさしている。研磨の吐息。橋の下を流れる川の、静かなさざなみ。

「……寒いね」
「……うん」

 まるで初めてキスをした恋人同士みたい。ぎこちなく視線を彷徨わせて、目が合うと、ようやく笑えた。

「そういえばわたし、アップルパイ作ったよ。期間限定の新商品」
「知ってる。早く食べたいって思ってた」
「確か明日までだったかな」
「え、うそ。おれの分とっといて。それかうちで焼いて」
「はいはい」

 スヴニールのアップルパイ。サクサク生地にりんごのフィリングをたっぷり閉じ込めた、甘酸っぱい魅惑の味。
 ふと、ふじりんごは有袋で育つことを思い出す。陽の光を浴びすぎず、甘すぎず、それゆえ日持ちする品種の果物。
 りんごは禁断の果実だったのだろうか? すると高校生のとき、アップルパイを食べたわたしと研磨は楽園を追放されたのかもしれない。
 恋をする苦しさを知った。恋人を苦しめる罪深さも。でも、酸いも甘いも、甘酸っぱいも、全部噛み締めて生きていく。わがままを言わなきゃなにも始まらない。失楽園、万歳!


 ようやく巡り逢えたわたしたちは、今日これからそれぞれの帰路につく。だけど大丈夫。もう迷わない。
 二人で過ごしたあの家までの道のりには、月の光に照らされて輝く小石が続いている。きっと研磨がポケットから落としていった小石。それはわたしの道しるべとなって、いつかやさしくわたしを導いてくれる。


end


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