斜向かいのお宅に住む男の子、花垣武道くんのことが私は昔から好きだった。
泣き虫で臆病なくせにいざという時には誰よりも強い意思で自分の正義を貫くヒーローのような彼が私にはきらきらと眩しく映り、彼のそんな姿は私の幼い恋心をときめかせるには充分だった。
けれども私と花垣くんは別に特に仲が良い訳ではない。同じクラスや通学団として最低限の会話をするくらいの普通に良くあるクラスメートという関係である。そんな私が告白する勇気なんてある訳もなく、仲の良い友達にすら花垣くんが好きなことを言えないでいた。
花垣くんと偶然でも話せた日はその日おこった嫌なことが全部どうでもよくなるくらいとても素敵な日に思えたし、逆に花垣くんがお休みの日はその日一日がとてもつまらないものに感じられた。
そんな彼の存在ひとつで一喜一憂する自分の中の恋心と上手く付き合っていたある日、中学2年に進級すると同時に2組の橘さんが花垣くんのこと好きなんだって、なんて噂が友達づてに私の耳に入ってきた。
噂の当人、橘日向さんとは同じ委員会だった時に少しだけ話したことがある。他校の男の子が橘さん目当てに見に来るくらいモテるんだよと聞いていた噂通り、可愛い上に優しい子で同性の私から見ても素敵な女の子だった。
そんな物語でいうところの圧倒的なヒロインの存在の登場に、真面目だけが取り柄の至って平々凡々な私は自分がそこら辺にたくさんいる名前もないモブの一人だったことを知った。
そのヒーローとヒロインのような二人が付き合いはじめたのは噂を聞いてすぐのことだった。
一介のモブでしかない私が、告白する勇気すらなかった意気地なしの私が、ヒロインになれる可能性なんて最初からなかったのだ。
私の初めての恋心はこうして誰にも気付かれることなく、誰にも看取られもせず静かに息を引き取った。
初恋の残骸と自分はモブであるという呪縛を抱えたまま私は高校生になった。
中学からの大多数が同じ高校に流れたため、見知った顔が並ぶなか私は同じ教室にその人を見つけた。中学最後の年は隣のクラスだった花垣くんと今年は一緒のクラスらしい。橘さんとはクラスが離れてしまったらしいが二人のお付き合いは順調らしく休み時間や放課後など一緒にいる場面を度々見かけた。
私は小学、中学と同様に花垣くんとは最低限の関わりしかない良きクラスメートとして過ごしていた。
そんななか私は今、何故か同じクラスのあまり話したことがない男子、松野くんに連れられ教室から少し離れた社会科準備室にいる。
私の目の前で教室の窓を開けているクラスメート、松野千冬くんは入学当初から花垣くんと仲が良くて、花垣くんが少年漫画に出てくるヒーローなら松野くんは少女漫画に出てくるヒーローのような男の子だ。トップだけ明るい刈り上げマッシュボブの髪にやや釣り上がり気味の猫目が印象的な彼はホームルーム終了と同時に私の席に近づいてきた。
「みょうじ、今から少し時間ある?」
突然そう私に尋ねてきたため、大丈夫だよ、と緊張気味に返事をした結果ここ社会科準備室に案内された。
普段まじまじと見ることなかったけど松野くんの後頭部って綺麗な形してる、なんてどうでもいいことを考えつつ私みたいなしがないモブになんの用事だろう、とぼんやり松野くんの後ろ姿を追いかけて入った室内は準備室という名前の通り至るところに授業で使われるのであろう資料と長机とパイプ椅子が置かれているだけの部屋だった。普段授業を受けている教室と同じ作りのはずなのにどこか違って見える室内に視線を彷徨わせていると、異様に慣れた手つきで窓を開け終わったらしい松野くんが窓を背に私の方を向き、雲ひとつない空のような澄んだ青い瞳で私をじっと見つめてくる。そして何かを決心したように、あのさとどこか緊張した面持ちで口を開いた。
「みょうじってさ、もしかしてタケミっちのこと好きなの?」
松野くんのその言葉に私は一瞬呼吸を忘れる。一拍置いてから、心臓の鼓動がうるさく鼓膜に響き、全身の穴という穴からじんわりと汗がふきだす。
「な、なんで?」
動揺で口が上手く動かせないし酷く喉が渇く。私は乾いた喉を潤そうと無理やり唾液を飲み込んだ。松野くんの言葉によって2年前に私の中でひとりぼっちで死んでいった初恋が、静かに鎌首をもたげたような気がした。
「なんでって、みょうじっていつもタケミっちのこと見てるなって思って」
どうやら長年染み付いた習慣は簡単には直らず、それどころか知らず知らずのうちに癖になってしまっていたようだ。松野くんに言われてはじめて気がついた事実に動揺し、そこでひとつの考えが頭に浮かぶ。
「そ、そんなに見てたかな?もしかして花垣くんも気付いてたり、する?」
苦々しく笑いながらそう恐る恐る松野くんに尋ねれば、
「いや、タケミっちは気がついてないと思うけど」
と答えてくれた。花垣くん本人に知られるという最悪の事態を免れてよかった。これ以上ない安堵に胸を撫でおろす。
よかった、と呟けばなおも真剣に私を見つめている松野くんに友達にも誰にも話せなかった初恋の残骸が言い訳のように次から次へと口から溢れ出す。
「確かに私の初恋は花垣くんでね、あ、勘違いしないでね、花垣くんたちの仲を壊したいとかそういうんじゃないから、私なんかが橘さんに敵うわけないし、というかそもそもそれ以前に私みたいなやつが花垣くんのこと好きだなんて烏滸がましいにも程があるよね」
笑っちゃうなんて自嘲気味にそう言えば
「いつも思ってたんだけどさ、なんでみょうじってそんなに自己評価低いの?橘は橘でさ、みょうじはみょうじじゃん、それってそもそも比べるもんじゃねぇと思うし」
あー、なんて言えばいいんだろ、なんて後頭部を掻きながら必死に言葉を探している松野くん。
「みょうじにはみょうじの良さがあるじゃん、困ってるやつほっとけないバカみたいにお人好しなとことか、人の話ちゃんと最後まで聞いてくれる優しさとか、みょうじがタケミっち見てたみたいにオレもみょうじのことみてたからさ、知ってるんだよ」
だからさ、とまだ話を続ける松野くんの姿をとらえていた視界がじんわりと滲みはじめる。自分は一介のモブで、誰も私のことなんて見ていないと呪いのように自分で自分を縛り続けていたものが、初恋の残骸が音をたてて崩れ去る気配がした。
ふと顔をあげた松野くんは、いきなり泣き出した私に気付くと、慌てて自身のワイシャツの袖で涙を拭ってくれる。
「えっ違う、ごめん、泣かせるつもりじゃなかった」
その手つきは荒くて、拭われた目元が少し痛い。それでも拭い続けてくれる彼の優しさが嬉しくて、申し訳ないけれど涙はすぐにはとまりそうになかった。
暫く私の涙と格闘し、右の袖を代償に無事勝利をおさめた彼はぽつりと話し始めた。
「タケミっちは確かにいいやつだよな、さっき好きかどうか聞いたのはさ確認したかっただけっつーか」
「みょうじがタケミっちのこと好きでも諦められないくらいみょうじのこと想ってるからさ、取り敢えずみょうじにオレのこともっと良く知ってもらいたいからまずはオレと友達になって欲しいんだけど、どうでしょうか」
そう伝えてくれた彼に
「私なんかでよければお願いします」
と返事をすれば、まるで子どもみたいに無邪気な笑顔で小さくガッツポーズをした。
その姿が少女漫画のヒーローなんかじゃなくてただの男の子で私は笑ってしまった。