男と女、二つの性と同時に新たな第二の性によって細分化された世界。
身体機能・知能が高くなりやすいエリート体質のアルファによって形作られたこの社会は一番一般的なベータによって支えられ、3つの性のうち最も少数派であるオメガの地位は一番低い。その大きな理由としてオメガ特有の発情期であるヒートがあげられる。ヒートとは10代中頃から当人の意思と関係なく約3ヶ月に1度の頻度で、1週間ほど強いフェロモンを撒き散らす現象であり、期間中は手近なアルファや時にベータに見境なく欲情してしまい外出もままならなくなる。普通の生活を送るためには抑制剤の使用を余儀なくされ、その抑制剤による抑制も完璧なものではなくその時の体調や元々の体質などによって効果は変化するという。
私、みょうじなまえはオメガである。
生まれてすぐ病院で行われた簡易性判定はベータ性だった。家族全員がベータ性のため自分もベータだとその判定を信じて疑わなかった。しかし15歳の時に実施される国の第二次性判定の場で言い渡されたのは無情にもオメガ性だった。ごく稀に性が変化することがあると医者が伝えた時、母親も父親も困惑し、そして私から目を背けた。結果それまで平等に注がれていた両親の愛情は全て姉へと向かい、今現在何かにつけて姉と比べられ続けている。
私は自分がオメガ性であることを恨み、どうしてもその事実を受け入れられず、自己申告制なのをいいことに学校や友だちにもオメガ性であることをひたすら隠しベータとして生活していた。
「じゃあまた来週ね」
さっきまで賑やかな時間を共有していた友だちにまたねと手を振って別れ、普段は訪れることのない街並みを颯爽と歩き出す。
鞄から慣れた手つきで携帯を取り出し開けば思っていたよりも遅い時間が画面に表示された。おもむろにメールボックスを開きセンター問い合わせに電子紙飛行機を送る。ポンッと画面にポップアップされた表示はメール受信結果を表示していた。
「こんな時間まで連絡ナシでも無反応ですか」
自嘲気味に呟いた言葉は金曜の夜の喧騒に消えていく。ここ、渋谷の街はもう22時近くだというのに明るく賑やかな景色が続いていた。
相反するように冷え切っていく胸の内にさっきまでの楽しかった時間がもう遠い昔のように思える。家に帰りたくない。
渋谷から乗る予定だったけど少し歩こうかな、電話帳から友だちのアドレスを開き、今日はありがと、楽しかったよ!と他愛無い話題をくっつけてメッセージを送る。しばらくすると、私もだよ、最近渋谷治安悪いって聞くから早く帰りなよ?と気遣うメッセージが送られて来てそれだけで鉛を飲んだように重苦しかった胸が少しだけ軽くなった気がした。
オメガ性と判断されてから2年近く経ったが特徴ともいえるヒートを私はまだ経験していない。アルファ性と偶然すれ違う機会もあったが特に何も起きなかった。このままヒートを迎えなければ、もしかしたらベータとして過ごせるかもしれない。どこかで少しそう期待していた。
そうこうしてるうちにだいぶ歩いたのか雑踏から離れ落ち着きを取り戻した街並みが姿をあらわした。さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返る先は神社なのか玉垣が続き立派な鳥居もあるようだ。
遠目に見みると鳥居の近く玉垣の傍には大型のバイクを停めた人が立っている。男性だろうか、こんな時間に参拝客なんて有名な神社なのだろう。
何の神様を祀る神社なのか知らないけれど、どうせ私には関係ない。
2年前のあの日から私は神様に祈ることは辞めた。神様なんてもの、きっと何処にもいない。
人影の横を通り過ぎる瞬間、物珍しさに手の中でいじっていた携帯からその人に視線を向けた。まず視界に飛び込んできたのは柔らかい桃色を溶かしたような金糸。それから次はこの夜の暗闇を凝縮して落とし込んだような真っ黒の瞳。吸い込まれそうなその瞳も同様にじっと私を映していた。
目があった瞬間、突然今まで嗅いだことのないほどの良い匂いが強く周囲に溢れた。
例えるならば、花の、匂い?何で突然?一瞬のうちにまとまらない疑問が次から次へと頭に浮かぶなか、目の前の男は目線を外さず距離を詰めると私の腕を掴んできた。いきなりの事にヒュッと喉が鳴る。触れられたところが火傷をしたみたいにひどく熱い。
そこで気付く。触れられたところだけじゃなく、身体全体が熱い。心臓が早鐘のように打って、何か言おうにも喉からは酷く乾いた息が漏れるだけ。むせ返るような花の匂いを肺に吸い込めば身体の奥から熱が止まる事なく溢れ出す。それは2年前のあの時からぽっかりと空いてしまっていた胸の奥に予告なく煮えたぎった湯を流し込まれたようなそんな衝撃だった。じんわりと、けれども容赦なく脳味噌を犯す甘い痺れに上手く思考がまとまらない。そもそもこの予測不能の熱の治め方を私は持ち合わせいない。
ただ私を見つめてくる目の前の、きっとアルファ性の男だけがその答えを知っているのだと本能で理解していた。
「すげぇ匂い」
目の前の男は掴んだ腕を引き寄せると私の身体を自分のそれで包み込んだ。密着した身体。男は私の首もとの服を寛げさせると、露わになった首筋に顔を近付けその場で大きく息を吸った。そして確信したように私に告げる。
「お前、オメガだろ」
首筋にかかる息が、掴まれた腕が、伝わる体温が、漂ってくる匂いが、全てが心地よくて、だけど全然足りなくてそれが切なくて、何故か無性に泣きたくなった。ひた隠しにしてたオメガである事実がバレたとか、知らない男の人にいきなり抱きしめられているとか、そんな理性的なことを何一つ考えられないくらいただ目の前の男の存在だけが今私のなかを占めている。
おもむろに首筋から顔を上げた男は、腕を掴んでいない方の手で私の唇に触れる。男の人らしい無骨な親指が私の唇の表面を確かな意思を持って撫でる。
その小さな刺激ですら今の自分には耐え難い程の快感を生み、まるで待ち望んでいたことのようにただただその手を受け入れてしまう。
お互いの視線がぶつかり合う。犬のように荒くなった呼吸の隙間、その唇に目の前の男のそれが重ねられた。
重ねられただけのキスは一瞬で、離された唇が酷く寂しくて切なくて目の前の男に非難めいた視線を投げ掛ければ、男は楽しそうに口端を上げ今度はしっかりと片手で頭を支えながら口付けを落としてくる。
先程とは違い割り入るように差し込まれた舌が生き物のように咥内を弄び私のそれを器用に絡めとる。こちらの事情などお構い無しに無遠慮に与えられるその快感に身体中の力が抜け反射的に男の服を掴んだ。人の咥内を充分に愉しんだ男は軽いリップ音をさせ私の唇を解放する。先程まで自分のなかで燻っていた熱は少し落ち着き、自分の状況を確認する余裕が生まれた。はふ、と整わない息を吐きながら視線を落とせば、腕を掴んでいた筈の男の手はいつの間にか私の腰にまわされ、太腿に硬くなった何かを押し当ててくる。
男は、ねぇ、と耳元で囁くと私の腰を押さえたまま自分の腰を軽く揺らす。
「わかる?もうこんなになってんの」
押し当てられたものが何か理解した途端、自分の中の欲がどろりと溢れ出し下着を汚した気配がした。
「すげぇね、ヒートのオメガにあったの初めてだけどほんとにいい匂いすんだね、堪んない」
男はもう一度首筋に顔を近付け何を思ったか一瞬考えた素振りを見せるといきなりそこを舐め上げた。ちょっと、と身体を押し返そうと抵抗を試みるも力が入らないためか男の身体はピクリとも動かない。そんな私の抵抗をものともせず男はあれ、と不思議そうに首を傾けた。
「こんなに匂いすんだから甘いと思ったのになぁ」
ま、いいや、と、まるで悪戯っ子のような顔でそう言った男は再び首筋に唇を落とし口付けるとそこに赤い跡を残す。口付けては離し、口付けて離し、数回繰り返したところで男は自分の唇を舐め上げた。
「こんなもんかな、ねぇ、名前は?」
ぎらぎらとまるで獣のような鈍い光を隠した瞳で満足そうに私を見ると自分が寛げさせた首もとを丁寧に直した。その優しい手つきに目眩が起きそうなくらい不覚にもときめいてしまい名前を名乗る。
「なまえちゃんね、俺は万次郎、マイキーでも万次郎でも好きに呼んで」
マイキーってなんだろう、"ま"しか合ってないけどとどうでもいいことを考えれるくらいには一先ず落ち着いてきたらしい。
「万次郎、さん」
「やべ、さん付けとか呼ばれ慣れてなくて笑える」
そう屈託なく笑う万次郎さんはすごく幼く見えて、さっきまで私を翻弄していた男とは別人のようでつられて私も笑ってしまう。よくよく万次郎さんを見ると、肩から掛けられた黒い服には煌びやかな刺繍が施されており、それが世間でいうところの特攻服だと気付く。しっかりとした黒地の生地に浮かぶ刺繍は息を飲むほど綺麗でもっと間近でそれを見たくて近付けば何を勘違いしたか万次郎さんは再び触れるだけの口付けをくれた。
「ね、取り敢えず後ろ乗んなよ」
万次郎さんは自分の横に停めていたバイクにかけてあったヘルメットを私に渡すと、バイクに跨りエンジンをかけた。バイクのエンジン音独特の身体に響く低い音がする。
受け取ったまま動かない私の手からヘルメットを奪うと私の頭に被せ、顎の下で留め具を留めた。
「俺ん家でもいい?」
されるがままにバイクの後ろに座らされ、手はこう、と万次郎さんの腰にまわされたところで行き先を伝えられた。さっきまで家に帰りたくはなかったけど、帰らなかったら帰らなかったできっとうるさく言われる、そう思い、家に帰ります、と伝えればまわした腕の片方を取られ、手の甲に軽くキスをされた。
「帰す訳ねぇじゃん、ほんとは今すぐ抱きたいの我慢してんのに」
キスされたその流れで人差し指を軽く甘噛みされ甘い痛みが走る。
「せっかく抱くならゆっくり抱きてぇもん」
あ、それと、と付け足された言葉は私の人生を揺るがすもので、
「俺なまえのこと気に入ったからさ、家に着くまでにうなじ噛まれる覚悟しといてね」
弄んでいた手を元の位置に戻すとそれが合図のようにバイクが動き出した。
このアルファ男、佐野万次郎が自分より2個下の15歳で、尚且つこの渋谷の治安を悪くさせている原因の男だと知るのはもう少し先のお話。