Crack Clock



10時のはじまり


 テン・ユークリッドは、生まれる前から時計屋だった。
 産まれたときから時計屋としての素質があった、などという、そんな単純な話ではない。素質があろうがなかろうが、計時機関に籍を置いていなければ一般人だ。
 しかし、テンは文字通り《生まれる前から》時計屋だったのだ。

───

「ユークリッド、10時の気配がする」

 唐突に呟かれたサクヤの言葉に、ユークリッドは一瞬、自分の耳を疑った。

「……本当か?」

「あぁ、間違いないよ。……腹の子だ」

 サクヤはそう頷いて、自分たちの目の前に座り込むお腹の大きな女性を視線だけで示す。
 どうする? と訊ねてくるサクヤに、ユークリッド──黒猫は目を細めてぱたりと尾を振る。時計屋として高い能力を有し、気配の察知に長けたサクヤが気配を読み違える可能性は限りなく低い。となると、女性の腹の子が《保持者》となるべき時計屋であることは確実だろう。
 先代の保持者が殉職してから早数年。現れる気配すら見せなかった10時の時計保持者。この子を失えば、次はいつ現れるかわからない。

「出来ることなら連れ帰りたいが……」

 しかし、とユークリッドは言葉を濁す。
 女性と同化したタイム・セルは、既に不可逆的な状態まで侵攻している。臨月は近いようだが、出産する前にタイム・ドールと成り果てて、視認出来なくなるだろう。そうなってしまえば、お腹の子供はどうなるか。
 どうしたものかと苛立たしげに尻尾を揺らせば、斜め上から呆れたような溜め息が降ってくる。

「同情なんて偽善に過ぎないよ、ユークリッド」

 サクヤの言葉に、ユークリッドは尻尾を揺らすのを止める。

「セルに横槍を入れられたとしても、彼女の人生だ。選ぶのは彼女だよ」

 そうはっきりと言い切り、地面に膝をつくサクヤ。俯く女性と視線を合わせて、言い聞かせるようにゆっくりと女性に告げた。

「貴女は、もう人間には戻れない」

 その言葉に、女性は怯えるように肩をすくませる。当然だろう。自分はこうして生きているのに、もはや人間ではないなんて。
 震える肩を優しく、宥めるようにサクヤが撫でる。

「だから、せめて選ばせてあげるよ」

 どこまでも穏やかに発せられるサクヤの言葉に、不安に揺れる瞳は少しずつ落ち着きを取り戻す。
 そんな女性に少し微笑んで、サクヤは問う。

「子供と一緒に眠りにつくか、産んでから死ぬか──どちらにする?」

 迫られたのは、救われない選択。逃げることは許されないのだと、真摯なサクヤの視線が言外に告げる。
 怯えと戸惑いに震えながら、それでも彼女は口を開いた。



 ──数ヵ月後。
 計時機関本部であるユークリッドの邸宅に、赤子の泣き声が響く。

「よしよし、テン。泣かない泣かない」

 テン・ユークリッドと名付けられた産まれたばかりの赤子。それを楽しそうにあやすサクヤに、ユークリッドは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「……いっそ自分の養女にすればよかっただろうに」

 結局、彼女は母親として死んでいった。目覚めることがないとはいえ、秩序の中で安息の眠りにつくことも出来たというのに。

『この子を、お願い』

 そう子供を託して、彼女は逝った。
 タイム・セルに侵された女性が、自分の命と引き換えに産んだ子供。この子を時計屋として育てることを決めた以上、幸せになど出来ないだろう。

「……恨まれるかも知れないな」

「そうかもね」

 ため息と共に呟いたユークリッドに、呑気に頷き返すサクヤ。泣き止んだ赤子を抱え直して、ユークリッドへと笑いかける。

「まぁ、その時は僕が憎まれ役を買うよ。彼女に選択を迫ったのは、僕だしね」

 泣き疲れたのか、腕の中で静かに寝息を立て始めた赤子へと、サクヤは微笑む。小さな頭を撫でるその手は、どこまでも優しく穏やかだった。





fin.
2011/12/18 公開
2018/10/18 修正

Crack Clock
七つの水槽