勿忘草の詩(前編)
憧れている人がいる。
花屋で働いている、若い男性。彼に対する憧れが恋愛感情であることは明確だったけれど、私にはどうすることも出来ない。ただ、花を買いに彼の元を訪れるだけ。
何回も繰り返し訪れる内に、いつしか彼は他愛のない言葉をかけてくれるようになった。
しかし、私には“自由がない”。同じ行動を繰り返す以外は許されない。彼の言葉に答えることが出来ず、唯一、わずかに自由に動かせる表情で、誤魔化すように微笑むしかなかった。
「いらっしゃいませ」
来店した私に気付いて、いつもと同じように優しい笑みを浮かべる彼。
せめて言葉だけでも伝えることが出来るのなら、もう少し近付くことが出来るのに──どう足掻いても変えられない距離に、今日も胸が締め付けられた。
店で買ったチューリップの花を手に、機械的に自宅へと足を運ぶ。
石畳でできたこの道を通るのは、もう何回目だろうか。意思に反したこの行動を、いつまで続ければいいのだろうか。自分の意思で近付けないのなら、胸が苦しいだけならば、いっそ彼の姿を見たくはないのに──。
「お姉さん」
足早に通りを進む私の耳に、中性的な声が届く。目だけで確認すれば、少し先に帽子を被った少年が佇んでいた。彼の視線は真っ直ぐに私を捉えていて、声をかけられているのが自分であることは疑いようがない。
それでも、足を止めることすら出来なくて、申し訳なく思いながらも素通りするしかなかった。
黙って横をすり抜けた私に、少年は気を悪くした様子もなく、軽い足取りで横に並ぶ。隣を歩き始めた彼は特に話し掛けてくるでもなく、私を観察するように眺めているようだった。横顔に視線が刺さるのを感じて、居た堪れないような気持ちになる。
それから暫くの間、少年は黙っていた。私が脇道に逸れたところで唐突に口を開く。
「……もう、声も出ない?」
まるで、今の私の状態をわかっているかのような問いかけ。既に自分の意思で動くことのない表情は一切変わらなかったけれど、飛び上がりそうなほどに驚いた。それなのに、もう視線すら向けられない。
しかし、反応がないことが少年にとっての答えとなったらしい。そっか、と一人納得したように呟いた。
そして、進路を塞ぐように前へと回り込むと、私の瞳を覗き込む。首を傾げて口を開いた。
「このまま同じことを繰り返して生きていくのと、目覚めることなく眠り続けるのと、どっちがいい?」
「……っ!?」
同じ行動しかとらないはずの身体が跳ねるように反応して、驚愕する。
少年から逃げるように動いた身体は、腕を捕まれて静止した。反射的に振り向けば、少年の赤い瞳と視線が合う。
「僕は、お姉さんに聞いてるんだよ」
細い腕のどこからそんな力が出るのか。そう問いたくなるくらいの強い力で、私の腕を握る少年。私の中にいる《何か》に語りかけるその声は冷ややかだったが、私自身へと向ける視線は穏やかで、不思議と怖くはなかった。
「ねぇ、生きたい? それとも、消えたい?」
──選んで、と。
静かな口調で、それでも有無を言わせぬ強い調子で返答を迫られる。
私の中の《何か》は少年に対峙して怯んでいるのか、久しぶりに自分の意思で喉が動いた。
「わ……たし、は……」
状況は飲み込めない。けれど、少年の提示した選択が、移ろう世界から自分だけが取り残される恐怖から、目の前の彼に近付けない苦しみから、この世界から切り離してくれるということならば。
「……た、すけて」
流れた涙に滲む視界。歪む世界の中心で、少年は確かに私に向かって優しく微笑んで──そして、懐中時計を取り出した。
to be continued.
