勿忘草の詩(後編)
決して広いとは言えない店の中に並んだ、色とりどりの花に手を加えていく。変色してしまった葉を取り、見栄えを整え、切花の挿してある花瓶の水を取り替えた。鉢植えにも水をやり、水差しが空になったのを機に作業の手を止める。
ガラス越しに空を見上げれば、先程まで真上にあったはずの太陽の痕跡は跡形もない。外の通りは街灯に照らされていた。
もう少し経っても明るくならなければ、今日はもう店を閉めようか。
そんなことを考えながら、ふと一人の女性が頭をよぎる。いつも花を買いに来てくれる常連客──今日は、まだ来ていない。
「待ち合わせでもしてるんですか?」
心を読んだかのようなタイミングで声をかけられて、驚きから肩が跳ねる。
振り向けば、いつの間に入ってきていたのか、帽子を被った少年が佇んでいた。少し長めの髪に縁どられる中性的な顔立ちは、見ようによっては少女にも見える。
思わず不躾に凝視してしまっていたことに気が付いて少し慌てるが、少年は気を悪くした様子もなく笑う。誰か待っているんですか? と首を傾げてみせた。
「お兄さん、さっきから落ち着かないみたいだから」
「あー……そんなにわかりやすかったですか?」
気恥ずかしさを覚えて、無意味に前髪を横に流す。
「毎回、店を開くと花を買いに来てくれる人がいるんです。……今日は、まだ来ないなぁ、と」
「そうでしたか。暗くなってしまったし、もう難しいかも知れないですね。あ、これ下さい」
購入意思を示した少年が手を伸ばしたのは、鮮やかな黄色のチューリップ。それは偶然にも、彼女がいつも買っていく花だ。
「ありがとうございます。何本ですか?」
「えーと、五本?」
何故か疑問系で答えた少年の希望通りに、切花を五本、包装紙で包む。根元に濡らした脱脂綿を止めて、全体を淡い色の紙で包むように巻く。完成したそれを差し出せば、受け取った少年も代金の硬貨を差し出してくる。
受け取ろうと伸ばした手に、固い硬貨と柔らかい何かが乗せられる。
「これは……」
掌を遮っていた少年の手が離れて目に映ったのは、どこから取り出したのか、先程まではなかった小さな野草。
意味をはかりかねて視線を上げれば、少年は僅かに寂しそうな微笑みを浮かべてみせた。少し困ったようなその表情が、いつもの彼女の微笑みと重なる。
「……花屋のお兄さんに、とあるお姉さんから」
そう一言、静かに告げた少年は、呆然とする自分を残して扉へと向かう。
「『さよなら、お元気で』」
出て行く直前、小さく囁くように呟いて、少年は薄暗い通りへと消えた。
扉の閉まる乾いた音を境に再び静かになった店内で、手の中に残された花が切ない存在感を醸しだす。
青い、小さな勿忘草──『私を、忘れないで』。
思い出すのは、何回も目にした困ったような彼女の微笑み。今更、温かい感情が胸の中にこみ上げて、思わず涙が出そうになる。
もう伝えることの叶わないこの気持ちが、せめて昇華するように。
「……覚えていますよ、ずっと」
花に向かって、そっと呟く。
名前すら知らず、もう逢うこともないのであろう彼女を想い、ただ静かに目を閉じた。
fin.
2012/02/05 公開
2021/05/13 修正
