報われない努力
「…あなた、だあれ?」
小狼が手に入れたサクラの羽根は、彼女が目を覚ますには必要なものだったらしい。しかし、大切な姫君の口から出された言葉は彼の心を打ち砕くには容易いものだった。彼は目を見開き、先程まで強く握っていた彼女の小さな手をゆっくりと離す。彼女はまだ記憶が足りないのか、虚ろな瞳をしていて焦点が定まってはいなかった。――こうなる事は分かってたじゃないか。それでも、傷つく心は確かにあった。そこで、本当の意味でおれは覚悟なんてしてなかったんだと、初めて悟った。
「おれは小狼。あなたは桜姫です。どうか落ち着いて聞いて下さい。あなたは他の世界のお姫様です」
「他の…世界?」
「今、あなたは記憶を失っていて、その記憶をあつめるために異世界を旅しているんです」
「…一人で?」
「いいえ、一緒に旅している人がいます」
「…あなたも…一緒なの?」
「はい」
大きい瞳はゆっくりと揺らめいていて、本当に誰だか分からないようだ。外で降っている雨は、小狼の想いを表している様だった。――もう、笑顔は見る事が出来ない。あの元気な声も、おれを見かける度に大きく跳ねる身体も、何もかもがひどく昔の事のように思えた。きっとそれは、おれの意識がここにはないからで。
「……知らない人なのに…?」
ああ、痛い、なあ。
「サクラ姫、はじめましてー。ファイ・D・フローライトと申します」
知らない人、と確かにサクラはそう言った。確かに彼女は記憶を失い、小狼との記憶は二度と戻らない、けれど、彼の心にはしっかりと残っているのだ。しかし、その言葉によってそれまで築いて来た二人の絆は一瞬にして砕け散ったのだ。ファイはどんな意図を持ち出て来たのかは分からないが、浅くお辞儀をし、小狼の気持ちを優先する様に軽く肩を叩く。
「で、こっちはー」
「黒鋼だ」
「で、こっちがー」
「レイノ・アン・クォーツです。レイノで良いよ」
「で、このふわふわ可愛いのがー」
『モコナ=モドキ! モコナって呼んでっ』
モコナは短い手を挙げ、レイノらと初めて会った時と同じ様にサクラと握手を交わした。小狼は涙は決して見せず、どんよりとした雰囲気を身に纏い、下宿屋の外へと歩を進める。多くの雨が降る中、小狼はずぶぬれになりながらも立ち竦む。その心は、やはり愛しい姫君を想っていた。
「――泣くかと思った、あの時。サクラちゃんは小狼君の本当に大切な人みたいだから、だからこそ「だれ?」って聞かれた時、泣くかと思った。今は…泣いてるのかな」
「さぁな。けど泣きたくなきゃ強くなるしかねぇ。何があっても泣かずにすむようにな」
「これからも続くんですかね。こう言う、報われないこと」
「羽根を集める限り、そうだろうね。けど、泣きたい時に泣ける強さも、あると思うよ」
びしょびしょになって行く熱き少年の身体だった。濡れそぼっている小狼の服は肌に張り付き、しかし、そんな息苦しさも今の彼には必要だった。そんな姿をレイノとファイ、そして、黒鋼はそっと見つめていた。三人の視界には淡い緑と透き通る蒼の羽が入る。炎の巧断と木の葉の巧断はそっと小狼に寄り添い、風の巧断と水の巧断は激しい雨から小狼を守る様に羽を広げていた。きっと今は、泣いているのだろう。
今だけ、今だけだからどうか神さま、想い出に浸らせていてくれたら。
「眠っている間、誰かがにぎっててくれてたのかな。手…すごく…あたたかかった」
その温もりの正体をサクラが知る事は、きっと、ない。
「記憶がひとつ、戻ってしまったようですね」
「ああ。しかし、これからの旅も今回のような幸運に恵まれるとは限らん。次空を超える力は、必ず手に入れる。どれだけ血が流れようとな」
巧断たちに見守られる小狼を巨大な鏡に映し、見つめる男の名は飛王と言う。その男に話し掛ける女性と視線が絡み合う事は無い。飛王は意味深な言葉を紡ぎながら笑みを浮かべた。脳裏に思い浮かべているのはきっと、悲願し続けた自身の夢の果てだろう。最初は純粋だったその想いも、今はもう歪んでしまっている。けれど、今更引き返せる事ではない。――できる事はただ会いたいと、そう願う事だけだ。
「正義君。ほんとうに有り難うございました」
「僕も…巧断も、ずっと弱いままだったから、だから…だから…! ちゃんと渡せてほんとに良かったです!!」
翌日、一行は再び正義と共にお好み焼き屋「風月」に訪れていた。さっそく黒鋼とモコナはお好み焼きの取り合いをしていた。お好み焼きはモコナの分もあるのにも関わらず、である。一方で小狼に話し掛けられた正義は浮かべた涙を乱暴に拭い、拳を作り、嬉しそうに笑ったのだ。
「正義くんは弱くなんかないです。現に、ちゃんと巧断を信じていたんですから」
「レイノさんの言う通り、正義くんは弱くなんかないです。戦うことだけが強さじゃない。誰かのために一生懸命になれることも、立派な強さです」
「有り難う、ございます!」
「――よう」
正義はレイノと小狼の言葉に心動かされたのか、笑みを浮かべたままぐいっと涙を拭った。そんなところに響き渡った声色は先日聞いたばかりのそれである。しかしそれに見向きもしない彼女は目の前のお好み焼きに夢中だった。今彼女が口に含んでいるのは正義に勧められたトンペイ焼きである。
「笙悟さん!」
「うちのチームの情報網も捨てたもんじゃねぇな。――あ、ここちょっと詰めてくれな。あ、俺も豚モダン。んで、虎コーラ」
「はーい」
先ほど黒鋼の箸から奪い取ったお好み焼きをモコナはむぐむぐ、と美味しそうに口に含む。そんなモコナを疑いの目でじー、と見つめるのは言わずもがな、日本国の忍である。一方、小狼の発言のお陰で変な渾名を付けられた店員は否定の言葉と多少の苛立ちの表情を見せた。トンペイ焼きを口に含んだまま顔を上にやったレイノの口には僅かにソースが付着しており、それに気付いたファイはナプキンで拭いてやる。親子みたいだ、と思ったのはここだけの秘密である。
「ケガとか大丈夫か?」
「はい」
「戦いの途中ですみませんでした」
「いや。あの状態じゃ仕方ねぇだろ。それに、あのバトルは完全に俺の負けだ」
黒鋼はさっきの仕返しだ、と言う様にモコナを鉄板に近付けるとモコナは奇声を上げ、めきょっと目を見開いていた。向こうでは賭けに負けた笙悟の仲間がブーイングを出しており、痺れを切らした笙悟によって叫ばれる事となるのである。――ああ、平和って良いなあ。
「きゃー!モコナが焼けちゃうー!」
「いつまで阪神共和国にいるんだ?」
「もう次の世界…いえ、国に行かなければならないんです」
「そっか。あちこち案内してやったりしたかったんだけどな。プリメーラも残念がるな」
黒鋼は自分のお好み焼きを取られたのがよほど嫌だったのか、モコナを両脇から挟み込み、痛々しい音を出させていた。小狼は笙悟と握手を交わした後、笑みを浮かべて正義に手を差し伸ばす。しっかりと握られた双方の手からは確かに友情が生まれた。そんな気がした。
「また、この国に来たら会いに来ます。必ず」
「元気でー!!」
小狼は傷付いた顔に笑みを浮かべて、レイノとファイ、そして、モコナは手を振り、あっさりとした別れを告げたのだ。きっとまた会えると、そう信じている。――そう伝えたら正義くん、また泣きそうだもんね。言わないけど。――そう含み笑いをした彼女は商店街を抜ける為に歩を進めたのである。
「で、ものは相談なんだけどな。入らねぇか。うちのチーム」
「……は」
唐突に話し掛けられた正義はふと笙悟の顔を見上げた。すると、いきなり正義の視界は真っ暗になったのだ。ぱちくり、と目を開けるとそれの正体は笙悟のゴーグルだ。それを被ると言う事は「正義は仲間」だと言う事を表していた。――きっとこれでもう大丈夫。貴方はもう、充分強いよ。
「はい!!」
「もう行くんか」
「はい」
「まだまだ、わいとハニーの愛のコラボ料理を堪能させてへんのにー」
「大丈夫ー?」
「まだ、ちょっと眠いだけだから」
「むり、しないでね」
「はい」
空汰の下宿屋に帰って来た一行はそれぞれの国の衣服に身を包み、これからの旅に備えていた。もうすぐ居なくなる一行に対して空汰は悔しそうに目を細めるが、嵐はそんな空汰を放って小狼から蛙型のがま財布を受け取る。そんな横では、こし、と眠そうに目を擦るサクラを悲しそうに見つめる小狼が居た。――見ててひどく辛くなるのは、何故だろうか。
「下を向くな。やらなきゃならねぇことがあるんなら、前だけ見てろ」
「…はい」
黒鋼の言葉は厳しく、けれど、何処か慰めている様にも聞こえた。それが小狼にとって、どれだけ心の支えになるだろうか。――大丈夫。やるべき事がある限り、おれはきっと前だけを見ていられる。――そう心が決まった時、モコナの背には次元移動の為の羽が生え、足元には侑子の魔法陣が現れた。
「ほんとうに有り難うございました」
「なんの! 気にするこたぁない」
「次の世界でもサクラさんの羽根が見つかりますように」
神に願う様に目を瞑り、嵐はそっと呟く。それは本当に神々しい、巫女そのものだった。モコナは五人を吸い込み、自身も魔法陣と共に消え失せたのである。その場に残ったのは空汰と嵐のみだ。――きっと、大丈夫。これから何があっても、何が起こっても、どうにかして切り抜けるだろうと、空汰は言う。また会える日を信じて、二人は次元移動の残り香を見上げたのだ。