「何も言えなくて、ごめんね」

 凄まじい勢いで浮かび上がる破片たちは互いに合わさる縁を探し当てるよう、双方の手の平へと引き寄せられて行く。その全てを見る事は叶わないが、何かを成し遂げようとする二人の面持ちと姿勢は確かに前を見据えていた。――時間(とき)を、戻している。きっと、今のわたしにはどうにも出来ない事だ。膨大な魔力すべてを使って、傷ついた世界を取り戻そうとしてる。それと一緒に理も直して行くものだから、わたしの呼吸も少しずつ落ち着いて来た。けれど一向に増えない魔力に、一生ソールにはなれないんだと、少し寂しくなった。


「これは!!」
『壊れたの、元に戻ってく!!』
「破片に映ってるのはなんだ!?」

 黒鋼の問い掛けに、ファイは途切れ途切れながらに「それぞれの世界の記憶」と言った。おそらく、全ての世界が映し出されている訳ではないのだ。だからこそファイは「記憶」と言う言葉を口にしたのだろう。サクラの記憶を基に作られた、世界の一部なのだから。最も根強く残る「東京」での記憶はより大きく、レイノらの前に立ち塞がる。小さく映るヘリオポリス国の神殿に、レイノは僅かに瞳を見開いた。何処までも夢で縁を紡いで行くフレイに、レイノの涙腺は微かに緩み始めたのだ。


「飛王が壊そうとした、理と共に」
「出来るのか!?」
「あの二人の力は凄い! でも…」

 関節に力が入る。1gたりとも力を加えられなかったはずなのに、僅かな震えを生みつつもゆっくりと上体を起こして行く。その動きに気付いた黒鋼はレイノの片腕を軽く引っ張り、支えとなってくれていた。再び与えられた彼の優しさに、微かに残る冷や汗をそのままに緩やかに笑みを浮かべる。そして、未だ巻き起こる風の発生源を見上げた。何とか魔力を捻出するサクラと小狼の頬には汗が垂れ落ちる。飛王の力に抗いながら、自身の片割れを守る為の力も残した上で世界を修正して行く。それがどれ程の所業なのか、分からぬほど無知でもなかった。


「飛王がこれまで壊してきたものを巻き戻す程の魔力なら、別次元にいても気付いたはずだ!」
『モコナも全然分からなかったよ!』
「わたしも目の前で魔力を使われるまで、全く」
「あの二人は一体何処にいたんだ!?」
『それに、さっき父さん母さんって言ってたのに、なんで小狼、サクラと見た目も格好も同じなの!?』

 疑問ばかりが湧き上がる中でも、様々な次元の修復は行われていく。それに抗う様に破片同士がぶつかり合い、その衝撃で小狼の二の腕からは一筋の血が滴り落ちた。その色は確かに彼の命を削るもので、しかし「気を散らすな」との彼の一喝に『小狼』は隣で未だ目を覚まさぬさくらを視界に捉え、「死なせない」と口にしたのだ。その一言にただ笑んで、一度だけ頷いたサクラは確かに『小狼』の母であった。――そして再び、星の力と羅針盤が展開される。それと同時に襲い掛かる飛王の魔術は、かの玖楼国の遺跡の紋様を模したそれであった。
 まるで生きた獣の様に、二人の小狼とサクラへ喰らい付く。確かに直撃したそれに、飛王は独り、口角を歪めた。しかし白煙の中から現れたものに、目を見開く事となる。――羅針盤だ。


「風華!!」
「――小狼!!」

 羅針盤を中心に、突風が巻き起こる。その一方で、二つの球体を纏う様な風は二人の小狼とサクラを守る様に包み込んでいた。その想いを全て無に帰そうと、飛王は再び魔術をぶつける。与えられた力と創造したそれ、どちらに軍配が上がるかなど火を見るよりも明らかであった。それを見兼ねたファイは衝突部分に魔術を飛ばし、そんな彼の様子を見てレイノも魔力を溜めて行く。――少しずつ減って行く、純粋な太陽の力。最後の残り火を灯そうと、ソールが訴えかけているのは分かってる。もう少しだけ信じて、わたしのこと。わたしが一人で生きて行ける、ってこと。そうしたら貴女、喜んでフレイの元に逝けるでしょう。
 ファイと小狼の魔術に重ね掛ける様にレイノのそれが展開されると、僅かばかりだが飛王の衝撃波が遠ざかる。しかし、互いに異なる源が集中した事により『小狼』の手元には雷撃が生まれ、耐え切れなくなった空間で暴発し、気流が乱れる事となったのだ。


「ファイさん!」
「ご、ごめ…」
「――レイノ! 動くな!」

 ボロボロに擦り切れた青の服裾を掴み、レイノはこちらへ引き寄せる。暴発した魔術によって切り付けられた頬を拭うと、ファイは僅かに目尻に力を込める。そんな彼の謝罪の半ば、再び乱れた気流が二人の眼前へと訪れた。その瞬間に響く黒鋼の声に思わず目を瞑ると、モコナの耳を掴んだ腕にファイ共々引き寄せられ、難を逃れたのである。――気流の隙間から見上げると、少し離れた場所に『小狼』の四肢が浮かび上がる。それを掴んだ瞬間に展開される魔法陣にレイノだけではなく、飛王までもが目を見開いた。それは「世界一の魔術師」と謳われるクロウが小狼に与えたものだ、と侑子は言う。


「――では、おまえ達は私が創った、写身か!!」
『一緒に旅した、サクラと、小狼!?』

 クロウが力を与える存在など、考える限りでは数少ない。その中で飛王と敵対する存在、『小狼』と瓜二つな存在など一人しか考えられないのだ。――恐らく同様の思考を巡らせたらしいファイは、その考えが見当違いではなかった事に安堵の吐息を吐き出す。そして、ふと視界の端に捉えられたレイノと視線が絡み合うと、笑みを零し合ったのである。未だ生き長らえる純粋な太陽の魔力が、戻って来てくれた事を教えてくれている。ソールさえきっと、人道に反した飛王の行いを見逃している訳ではなかったのであろう。


『良かった! 二人とも戻って来てくれたんだね!!』
「ほんとに、おまえら……なのか…」
「「……はい」」
「てめえら、まさかあいつらが現れた時から分かってやがったんじゃ……」
「そうだったらいいな、って思ってただけ。本当に来てくれるなんて思わないじゃん」
「まさかとは思ったけどね」
「ならさっさと言え!」
「確信なかったから。もし違ったらげんこつじゃ済まないし」
「間違ってたら腕切り落とす、くらいはするでしょ」
「しねぇよ。どんな人でなしにしてぇんだ、てめーは」

 そう言って、黒鋼はレイノを見下ろしながら睨み付けるも当の本人は何の事やら、彼から顔を背けたままだ。そんな様子を眺めながら、ファイはただただ苦笑を浮かべるばかりである。黒鋼は舌打ちを一つ響かせて、再び長い時を共にした旅の仲間を見上げる。――約束は果たす。だからもう消えるな、と。勿論小狼も、眠ったままのさくらも消える事は許さない。本物だとか、創られたものだとかは関係ない。ただ見ているだけでは分からない時間の過ごし方がある。黒鋼は今いる四つの存在を二つの塊としては見ていない。そしてそれは黒鋼だけではない、レイノやファイ、モコナも一緒だった。
 直後、再び飛王の魔力が高まる。それに呼応する様に、レイノの心臓がひと際大きく飛び跳ねた。――魔力が、漏れる。毛先から色が抜けて行く。意識が薄まる。ただ、――私と違う人間たちを守ってあげないと。――その思いだけがこの手を動かした。


『まわり、止まってる!!』
「あいつが……止めたんだ」
「……次元の魔女が、いない」

 遺跡の紋様を中心に、様々な次元の欠片が制止する。阪神共和国、「東京」国、レコルト国、高麗国、訪れた事のない次元も多くある。それら全ての世界線の理を捻じ曲げ、時間(とき)を止め、ただ一人の女を探し続ける。しかし居ない。あの妖艶な、存在すればすぐに分かるあの魔力。圧倒的な強者を、感じ取る事が出来ない。――そんな事は許されない。魔女は生き続けなければならない。それが、己の遥か彼方へ位置するクロウを超える証。理を壊し、次元を捻じ曲げ、神でさえも成し得ないこの所業を必ず成し得るのだ。


「――もう一度時間を巻き戻す! おまえの自由を対価にな! そして、姫の力で魔女が存在する次元を探し出す!」
「在る筈だ!! どこかに! 魔女が消えない道筋が!!」
「それが成るまで、おまえと姫は我が手の中で生きろ!」
「但し、お互い触れ合えず、声も届かないままに!」
「――安心しろ! 用が済めば殺してやる!!」

 ――バカバカしい、夢物語ね。――そんな罵声がわたしの中で反響する。聞くに堪えない自己満足、なぜお父さまはこいつを殺さなかったのか分からないと溜め息を吐き出す始末だ。本当に、もう一度逢いたかっただけかもしれないでしょ、と言うと笑い声が聞こえた。絶対鼻で笑ったよ、この子。――クロウを超える道具として、魔女が必要だっただけでしょう。愛とか情とかお綺麗なものじゃないわ。――そう言って、わたしの中へ座り込む。少しずつ放出される魔力に、わたしの指先が震え始めた。その姿を盗み見て、その子はもう一度笑みを零す。


『もう力がないのでしょう? そろそろ代わりなさい』
(……いやだ)
『駄々を捏ねるのはよしなさい。自分だって分かってるのでしょう、限界よ』
(…いや!)
『……貴女、本当に私の一部? あの男、どれだけあまやかしたのかしら……』
(貴女が! わたしの一部なの!)
『どっちでもいいわ。――ねぇ、レイノ。私、あの男に言いたい事があるのよ』
(あの男…?)

 至るところで魔術が行き交う。そんな中、レイノは上手く魔力を練れないでいた。ファイと黒鋼に防御膜を張る事が限界だった。それにいの一番に気付いた女は優しく、包み込む様に支配権を譲れ、と命じる。しかし何度も駄々を捏ねる分身を目の前にして心穏やかでいれるほど、女も精神的にはレイノと変わりはなかった。だが、そんな女にも勝るところがあるのだ。何処か戸惑いを見せるレイノを前に、女はほくそ笑む。――ふと、ガラスの筒に魔力が宿る。自身だけではなく、ファイと黒鋼の足元にもレイノの魔法陣が展開される。放たれた雷撃と竜に桃色の螺旋が組み込まれ、それがガラスの筒へと到達した瞬間、それら全てが弾き返された様に三人の身体へと襲い掛かって来たのだ。しかし、凛とした声音が響いたと同時に襲い掛かる斬撃と突風はなりを潜める事となる。


「――仕方がないわね、人間ども」

 ばちり、ばちり、と小さな雷撃が衝突する。激しい力は、淡い蛍石とはほど遠い姿をしていた。恐る恐る開く視界の端には、記憶に新しい黄金(こがね)色の毛先が揺らめく。無意識に下界の者を見下す冷たい声色は、とてもじゃないが人間のものとは思えなかった。靡く風に服裾が優雅にはためく。ただそこに立っているだけなのに、背丈は何も変わらない筈なのに、言いようのない威圧感に言葉すら出なかった。


「そー、る、ちゃん…?」
「…無様ね。ファイ・D・フローライト」
「……なぜ出て来た?」
「貴方に一言、言いたくて」
「オレに…?」

 ただ名前を呼んだだけで見下される感覚は、幾らレイノちゃんと似ている外見でも慣れるものではなかった。鼻で嘲笑(わら)う仕草さえ腹が立つ。眉間に皺を寄せて睨み付けたけれど、当の本人はオレの気持ちなんて露知らず、一瞬、優しげな表情を零した。――こう言う表情(かお)は、レイノちゃんによく似ている。けれど、それだけだ。魔力の鋭さも、高圧的な口調も、何もかもが違う。何より、オレを見る瞳(め)に温度がなかった。そしてその感覚は、決して間違っていなかったんだと自覚する。


「――貴方、あまやかしすぎだわ。レイノのこと」
「…………ハァ?」
「これから弱くなって行っても、自分の身は自分で守らせなさいよ。――もう私も、いなくなるんだから」

 腰を曲げて、座り込んでいるファイと目線を合わせる。口角を歪めながら言葉を紡ぐソールの表情とは裏腹に、あまりにレイノの未来を案じている言葉の数々に彼は思わず、もう一度眉間に皺を寄せた。しかし、その後に続いた独り言の様に小さな一言に僅かながら瞳を丸くする。――きっとレイノちゃんには言ってないんだろうな、と思った。もちろん察してはいるんだろうけど、直接言われでもしたら泣くだろうから、あの子は。――何度衝突したか分からないボロボロな身体に鞭打って、ゆっくりと立ち上がる。一切視線が合わなくなったソールに思わず笑みを零すと、彼女は感情を誤魔化す様にファイを睨み付けた。


「…力、全部使いに来たの?」
「そうね。レイノの魔力とは相性が悪いから」
「レイノちゃんの未来の為なんだ? お優しいお姉ちゃんだねぇ」
「ナメた口きいてると飛王共々殺すわよ」
「物騒過ぎない? レイノちゃんが泣いちゃうよ」

 ――特大の雷撃をお見舞いしておいてよかった。弾き飛ばされたとは言え、それをするのに多大な魔力を使っているだろうから畳みかけるには絶好の瞬間でもあった。落ち切らなかった汚れを落とそうと、服の布を何度か叩く。その間に揶揄うような口振りで告げると、予想よりも数倍の攻撃力で返って来てしまった。その暴言の数々にさえ笑みを零せば、ソールちゃんは拗ねたようにもう一度顔を背ける。そんな光景を見て、黒んぷは「性格悪いな」と言葉を吐き捨てた。その時の表情は、とてもじゃないけど仲間にするものではなかった。


「…私、貴方の方が好きよ」
「あぁ? つーか誰だてめぇ」
「…………レイノの姉、とでも言っておくわ」
「姉?」
「…あと、飛王をぶっ殺したついででいいからこいつのお綺麗な顔面、見るに堪えないくらいに殴っておいてくれない?」
「……考えておく」
「ちょっと!」

 ソールにも黒鋼の呟きは聞こえていたらしい。しかし、彼女の好意的な言葉でさえもこの忍びを前にしてはただの言葉となってしまうようだ。そんな彼の問い掛けに、数秒の間、沈黙を守る。その後に紡がれた言葉は恐らく、彼女にとっては言いたくなくて堪らなかったそれであろう。そんな心情を理解して尚、ファイは思わず笑みを零す。苛立ちをそのまま言葉にした彼女と、その思いを汲み取った黒鋼の相性はやはりいい部類に入るであろう事は明らかであった。
 ガラスの筒に再び力が宿る。しかしそれは筒の中を巡るだけで、亀裂一つ生み出す事も叶わない。その様子を見上げる飛王は、この四つの個体の力を支配したと言わんばかりに嘲笑(わら)っていた。――バカね、それで終わる訳がないでしょう。――ソールの予想通り、少しずつガラスの筒は軋む。その様子を見て互いに頷き合ったさくらは片翼ずつ、羽を広げた。


「まさか!!」
『わたし達の中にあるこの力は、次空を超える力』
「その力を使ってそこから出るつもりか!!」
『わたし達にだけ、使える力』
「やめろ! おまえ達の力はそんな事の為に貯えさせたのではない!!」

 先程の余裕とは打って変わり、焦躁の色を見せる飛王の隙を突いた黒鋼の一太刀は、漸く飛王の身体を弾き飛ばした。それがよろめいた瞬間、ソールが生み出した蔦が飛王の動きを封じ、ファイの雷撃が檻の様にガラスの筒を包み込む。――壊れた理も、崩壊する次空もどうだっていいのよ、そんなもの。父さまはきっと分かっていた、神さまだから。分かっていて尚、側にいた。輪廻の中でうずくまるより、前に進む方がいいに決まってるじゃない。文明を生んでは殺して、を繰り返しながら成長して来たのが人間だもの。群れを成して前へ進んで来たのがこの者たちよ。最期までその結論に達せなかったお前の負けだわ、飛王。


「わたしの羽根」
「どうか、覚えているなら」
「すべてを刻んだままに」
「やめろぉ!!!」
「「――還して」」

 桜の力は、躯に次元を記憶すること。その記憶が、数多の道筋を正してくれる。壊れた理も、崩壊しかけている次空も。――全ての記憶が還元されてゆく瞬間、ガラスの筒に亀裂が走る。それを見た飛王はようやっと魔術を展開するが、それと同時に黒鋼も刀を構える。ファイとソール、そしてレイノの魔力で増幅された力は仄かに暖かかった。その暖かさと冷たい刃(やいば)に貫かれた飛王は鈴の音が鳴り響く中、黒い澱みに包まれるガラスの筒へ手を伸ばす。


「魔女は…生き返る……その為に私は存在するのだから……」
『小狼の時と同じ……!』
「そして……伝えねばならない事が……私は……その為に……私、は……  を……」

 最期のよすが、と言わんばかりに追い求める手がガラスの破片の様に散らばって行く。その現象は全身へと広がって行き、地面に落ちたモノクルは既に意味の成さない物となっていた。それでも笑みを浮かべる飛王は「対価を払え」と言う呪いの言葉を残して行く。その瞬間、黒の澱みは二人の小狼を包み込み、飲み込んだ。周囲には突風が巻き起こり、立っていられない程に膨れ上がる。銀竜を仕舞い込んだ黒鋼によって引き寄せられ、恐る恐る澱みを見上げた。――世界が、元に戻る光景。私もきっと、このように創られたのかしら。


(……聞こえる? レイノ)
『…聞こえてる』
(代わるわ。そこを退いて)
『……代わったら、ソールは――』
(消えるわね)

 二人の桜が戻った事を確認し、ソールは瞳を閉じる。恐らく体内で意識があるであろうレイノに声を掛けた。何処か戸惑いがちな声音に笑みを含ませるも、ソールはもう既に表で居続けるつもりはない。それが分かっている筈なのに、レイノは恐る恐る、と言った様子で震える声で言葉を紡ぐ。――もしかして、嫌なの?――そう問い掛けると、レイノは「バカ!」と泣きそうな声で拙い罵声を吐き出した。……この子、本当に私と同じ魂なのかしら。思わず溜め息を吐くと、レイノが身体を震わせた感覚が分かる。もう一度名前を呼ぶと、レイノは返事をした。いい子ね。


『……どうして、最期までわたしと一緒にいてくれたの』
(…父さまがいないから)
『…意地っ張り』

 恐らくむくれているんだろう。レイノの表情を想像して、ソールは今度こそ笑みを零した。――子どものような子ではあるけれど決してバカではない、少しずつ人間に近付いているこの存在はやはり私と同じ存在だった。私が表に出せなかった感情全てを表に出し、あいされて、慈しまれて。私がいたせいで傷の治りも早くて、桁外れの魔力を持って、街一つ破壊する羽目になったのに。もう少しで人間になれそうなのに、泣きそうになるのを堪えて私を責めるの。…ねぇ、レイノ。


(もう、決めたのよ。手放してあげる。それから、…あの男と生きるんでしょう?)
『…うん』
(なら、もう目を覚ましなさい。――待ってるわ、きっと)
『ソールは…』
(父さまの元へゆく。…レイノ、人として生きて、人として死んで。私に会うのはそれからでいいわ)

 私が内(うち)にいると、レイノは人間として生きられない。それはきっと。レイノが望んでいないこと。そして、レイノの望みはあの軽薄な男がいなければ叶わない。こんな事を言うのは癪だけれど、きっと、レイノの人生にはあの男が必要なのでしょう。そしてその過程に、私は要らない。なら、私はここで潔く死ぬべきね。――そう言って微笑(わら)うと、レイノは顔を俯かせた。しかし、すぐに視線を前に向ける。涙と僅かな情けで潤んだ双眸を微かに細めて、何か言いたげに唇を震わせるが一文字(いちもんじ)に閉ざした。

 それが、最期だった。




 そっと瞳(め)を開ける。桃色のそれが姿を現す。隣にはファイが居て、その肩口からはモコナが心配そうにこちらを覗き込んでいた。目の前に居る黒鋼は痛々しい、と言いたげにレイノを見つめている。その光景を視界に捉え、「小狼」と言うさくら達の悲痛な声を聞いて、初めてレイノは置かれている状況に気が付いた。――竜巻は収まっていない。小狼らも居ない。それに加えて、サクラの躯が解けた糸の様にするすると霧散して行く。そこで、漸くレイノは明確な意識を取り戻したのだ。


『サクラ!?』
「そ、の躯は…」

 その直後に、モコナの悲痛な声が遺跡内で響き渡る。――空気と混じり合う、音もなく消えてゆく。焼け落ちる生々しい臭いも、灰になる筈の骨の残骸も、何もかもが残らない。それが、一度殺されたサクラの死に方だった。小狼と違い心までもが複製されたとしても、「創られたもの」と言う定義から外れる事が出来ない以上、この最期から逃れられる筈もなかったのだ。揺れる瞳とサクラの視線が交わり、彼女はふと表情筋を緩めた。その後に紡がれるであろう言葉は、もう予測は出来ていた。


「……こうなる事は分かってた」
「ど、…どうして!?」
「例え創られたものでも、術者がいなくなっても術は残るはずだ! なのに、どうして君が!」
「…わたしは写されたもので、その上わたしも、小狼くんも一度消えてるから。壊れたものは、どれだけ手を加えても元に戻る事はないんです。……ファイさんが、よく分かってるでしょう?」

 「それでも、どんな最期を迎えるとしても小狼くんに逢いたかった」と、笑みを零しながらサクラは言う。問いを投げ掛けられたファイは何も言えず、言葉を詰まらせた。――蛍石(フローライト)で何百年も保管しても、片割れが息を吹き返す事はなかった。伸びっぱなしの金髪も、閉じたままの碧眼も、止まってしまった鼓動も生きていた頃の、元に戻る事はなかった。自身の手で壊してしまった育ちの街が、どれだけ復興が進んでも元の形に戻らないのと同じ様に。
 「大切なものを、守りたかった」と、サクラはもう一度微笑む。柔らかな視線をレイノに向け、紡がれた「もう一度、会いたかったの」と言う言葉にレイノは大きく目を見開いた。


「……いっぱい、傷付けた。桜の下でもきっと、泣かせてしまっていたから」
「……、…ちがう、の」
「違わないよ。いっぱい我慢、させてたでしょう……?」
「っ、――ち、がう!」

 解けた躯を、レイノの頬へとすり寄せる。温もりなんて感じない。なのにどうして、これ程までに涙が溢れるのだろう。何かが引っ掛かった様に、掠れた声音しか吐き出す事が出来ない。あれだけ優しく紡いでいた筈の固有名詞を、どうして言えないんだろう。すぐさま否定される言葉に、思わず歯を食い縛る。それでも、触れない筈のサクラの手に指先を伸ばした。予想通り、触れる事は叶わなかったが、驚いた表情を露わにさせる事が出来ただけで充分だろう。


「――貴女の名前を呼べなかった事が、悔しくて、情けなくて堪らなかっただけなの」

 そう言って涙を零すレイノちゃんは、やっぱり神さまとはほど遠い。


「……ご、めんね。サクラちゃん、ごめん…」
「……、…その顔、もっと早くに見たかったな」
「え…?」
「…それとも、ファイさんだけのものだったりするのかな。ちょっと悔しい」

 漸く呼べた名も、しゃがれた声で響く。そんな情けない姿であるにも関わらず、サクラの笑みが絶やされる事はなかった。肌を撫でる腕だった風が、優しくレイノを包み込む。困惑の色を見せるレイノをこちらに引き寄せたまま、翡翠の瞳はファイへと向けられた。答えなんて分かってるのに、双眸を丸めたファイを視界に捉える。顔の筋肉を緩ませて、しかし何処か困った様に笑みを深める彼はやはり他の誰にもレイノを渡すつもりなどないんだ、と悟った。それと同時に彼だけのものなのだと、サクラは微かに瞳を伏せ、その名を口にする。


「――いっぱい、わたしの心を守ってくれてありがとう」
「…サクラ、ちゃん……」
「これからは、レイノちゃんの心を大切にしてね。絶対だよ、…約束」

 訴え掛ける様なサクラの言葉に、レイノは何も言えず下唇を噛み締め、大きく首肯した。そんなレイノの様子にサクラも笑みを深める。そして再び、涙を溢れさせるもう一人の片割れと向き合った。――小狼くんはとても聡い人だから、きっと、相応しい置き土産が分かる。だから必ず、帰ってくる。もう一人の「わたし」ともう一人の「小狼」の記憶があれば終わりじゃない。小狼くんはそれを理解してるから、必ず戻るから、ぜったい、絶対大丈夫だよ。――そう言って消えた。「小狼」に会う事なく、羽根に成った。
 その直後に竜巻も消え去り、小狼だけがその場に現れる。写された「小狼」の姿は確認できず、代わりに小狼の手の中には紋様のない羽根が握られていた。その羽根とさくらのそれは不意に光を纏い、それぞれの体内へ取り込まれる。二つの身体は水場へと落ち、ファイと黒鋼の腕によって支えられる。ファイの肩口に掴まっていたモコナは知らず知らずのうちにレイノの掌の上へと移動しており、そのままレイノは小狼の傍らにしゃがみ込んだ。霞む視界の中、額に温もりが与えられる。――黒鋼の、拳だ。


「あいつは殴られずにいきやがったからな。おまえが受けとけ」
「今は眠って、ふたりとも」

 掠れた二つの声音と、世界から全てを隠してくれる様な小さな温もりが小狼を安心させてくれる。寝言の様に溢れ出た感謝の言葉を最後に深い、深い夢の世界へと意識を奪われたのである。――何も解決しなかったし、何も伝えられやしなかった。写身である小狼くんとサクラちゃんは消えて、小狼に繋がるものはこの次空にはいない。それは、わたしも同じだけど。でも、大丈夫だから。わたしが守るから。ファイさんと黒鋼さんが見守っているから。モコナが精一杯愛すから。それを伝える事は、きっとないけれど。


「――それから、始めればいいから」

 夜が、明ける。――ねぇ、小狼。