さちをまとう朝
「ん、――」
細やかな声を洩らし、レイノは覚醒する。朧気な意識の中、彼女はそろり、と桃色の瞳を世へ曝け出した。うすらと露わになる視界に映るは、どんな時でも美しい己の欲すべてを与えた男の姿だ。――名をファイ。カーテンの隙間から乱入する太陽光に照らされて、持ち前の金髪は酷く輝いていた。その反射を数秒間眺め、レイノは彼の胸板へ身を寄せる。その瞬間に響いたスプリング音に、彼女の身体は思わず強張った。
「…いつから起きてたの?」
「……最初から」
「…ひどい」
「かわいい事してるなぁ、って思って」
「かわいくない」
「かわいいよ。――朝からどきどきするもん」
「ほら、ね」とファイはレイノの手首を己の胸板まで誘(いざな)い、押し付ける様に想いを伝えた。ゆるり、と弧を描く口角は出逢った頃と何も変わらない。――否、うそを吐いた。少し変わったかもしれない。本当に偶にだが、歯を見せて笑うようになった。ただ張り付けるだけではない。両の碧眼にまで笑みを浮かべる姿を視界に捉えて、レイノはよりファイへの想いを自覚する。すきだと、もっと知りたいと、そう思う。――何気なくそう思った瞬間、再び二人を支える寝具が軋む。気付けば、天井はファイの身体そのものに覆われていた。
「ふ、ふぁい、さん」
「…あれ、ファイって呼んでくれないの? 昨夜はいっぱい呼んでくれたのにぃ」
「あ、あれは! 気持ちが昂っちゃって!」
「興奮してくれてたんだ? 良かったー」
「だから、言い方! ッぁ、ちょ、――」
薄暗がりの照明と、隙間から顔を覗かせる自然の光。良く見ると全身を纏っている筋肉は、しっかりとファイの体幹を支えている。旅の一行の前では優しい男の人なのに、二人きりになれば途端に雄の顔を覗かせるのだからタチが悪い。ゆるり、と上がる口角と共に、僅かに揺らぐ金の毛先はレイノに昨夜を思い起こさせる。
ぽたり、ぽたり、と落ちる汗に酷く色が孕む。それらを認識する度、レイノの体温は上がった。本当にそう言う目で見ていてくれているのだ、と。それと同時に、今までその欲を何処に隠していたのか、と。――そんな問い掛けをする暇もなく、ファイの唇は己の首筋を優しく食む。その感覚に、彼女は酷く弱いのだ。
「ま、まって」
「やぁだ」
「で、でも、もこなたちに、聞こえちゃう……」
そう言うと、ファイは何時も拗ねた様に眉を顰める。その顔も、少しすきだったりもするのだ。――違う部屋ではあるものの、決して分厚くはない壁は恐らくきっと、レイノの声を漏らしてしまっている。その仮定が不本意なものであるが故の表情なのだろう。思わず笑みを零すとファイに噛み付かれた。がぶり、と与えられるあまい痛覚に、彼女の両脚は優しく彼の身体を包み込む。僅かにあたたかいその肌に安心してしまったのは秘密だ。
「……じゃあキスだけ」
「…欲しがり」
「…ほんとはずっとさわってたいんだけど?」
「あんまり可愛いこと言わないで」
レイノはそう言うと、ちゅ、と唇同士を触れ合わせた。驚いた様なファイの表情は、やはりかわいいな、と思う。けれど、そんな事を言えば、きっと今夜も寝かせてもらえないだろうから言わないと決めていた。――そんな結論を導き出す最中(さなか)、ファイの舌が己の口内に捻じ込まれる。にゅるり、と生々しい感覚には一生慣れる事はないのだろうが、それがうれしくてたまらない。
次第に大きくなる水音に睫毛を震わせれば、一瞬、ファイが微笑(わら)った気がした。頬の赤らみも、きっと隠せてはいない。それがひどく恥ずかしくて、しあわせだと思った。くちゅりと響く音が、こんな朝から響いてしまう現実にくらりとする。きゅ、と二の腕を掴むと、その掴む指ごと攫われて、寝具の布へと縫い付けられた。――きもちいい。
「…ン、……ぁ」
「…スイッチ入っちゃった?」
「ちが、…ぅ」
「ほんとかなぁ」
「ね、も、だめ、――」
「やぁだ」
喘ぐ声すら消したい。しかしきっと、ファイにとってはこの上なく求めたものだ。その事実を自覚しているからこそ、頬の赤みとあまりに高いぬくもりを消し去る事は出来なかった。――ちゅ、ちゅ、と響く水音がはずかしい。こう言う関係になってからだけど、ファイさんは意外と欲に忠実だって知った。スキンシップは好きだし、すぐにキスするし、えっちな雰囲気に持って行こうとする。でも、その顔がとてもしあわせそうだからわたしはつい、ゆるしてしまう。でも、――でも! 何分もこんな雰囲気で、しかもこれから活動する時間帯ってなると絶対にバレると思うの! だから、このタイミングで鳴ってしまった本能は、やっぱりきっと、わたしに味方してくれている。
「…………レイノちゃんってさぁ」
「……な、なんですか」
「ほんとかわいいよね」
「そう言われるくらいなら笑われた方がマシです!」
「おはよう、レイノ」
「おはよ、小狼」
「…一緒じゃないのか?」
「後で来ると思う。…黒鋼は?」
「母屋で鍛錬中だ」
通気性の良いワンピースに袖を通したレイノは、ファイよりも一足先にリビングへと歩を進めた。そこには小狼、そして、その肩に居座るモコナが居る。じゅう、じゅう、と軽快に響く油の音は何やら、生地を焼いているようだった。カウンター席から覗き込めば、香ばしい色合いが広がるパンケーキが視界に広がる。横のシンクには、おそらく作ったばかりであろう生クリームと、朝市で買ったと思われるフルーツが瑞々しく輝いていた。
「――やっと出て来たか、不良娘」
「誰が不良娘? 刀オタクさん」
「ア゛?」
「白米とパン、どっちが良い?」
「米」
「分かった。すぐ用意する」
玖楼国では一人暮らしだった小狼の生活を見るのは、実は初めてだったりする。ぱち、ぱち、と幾度か瞬きを響かせつつ、レイノは用意された紅茶にて喉を潤した。その直後に現れた黒鋼の身体は全身を汗によって纏っており、すぐにでも栄養を欲しているようだ。また、その要望にすぐさま応える姿勢を見せた小狼も、随分と家庭的な人間になったらしい。そんな空間へ割って入る様に、新たな足音が響き渡る。
「…あれ、小狼くん。朝食作ってくれてたんだ?」
「ああ」
「ありがとー」
「いつも作ってくれているだろう。その礼と言うか、…似たようなものだ」
「オレは好きだから良いんだよぉ」
この旅の中で随分と伸びてしまった金髪は一つに纏められ、黒いリボンが肩へと掛かる。その感覚にも随分慣れたファイは、キッチンへと立つ小狼と挨拶を交わした。黒鋼は既にシャワールームへと行き先を変更しており、おそらく顔を合わせるのは朝食の際になるだろう。その時を待ちつつ、ファイは誰にも言わぬ微かに特別な時間を過ごす事になったのだ。
「――えっ、誕生日!?」
「? うん」
「っ、ばか! 何で言わないの! ばか!」
「えっ」
全員分の朝食の準備が終わり、レイノらは燦々と輝く太陽の下で食事を取る事になった。そんな中、何気なく呟かれたファイの一言にレイノはいの一番に喰い付き、可愛らしくも単調な罵声を浴びせたのだ。――しかし、そう思うのは何もレイノだけではない。めきょっ、と目を見開かせたモコナも、幾度も瞬きを繰り返す黒鋼と小狼もきっと、根本的には同じ事を思っている筈なのである。
「だってオレ魔力のせいで長命だし、今更〜って感じだったから教えなかったんだけ、ど…」
「オイ、ポンコツ魔術師」
「……え゛っ、オレのこと?」
「他に誰がいやがる」
「ん」と一瞬だけ声を漏らし、くい、と顎を動かしてファイの視線を操る。そこにはお世辞にもかわいいとは言えない、ぶすくれたレイノが居た。これでさえ、慈愛を感じてしまうのだから惚れた弱みと言うものは侮れない。そして、そんなレイノを見てしまえば、罪悪感と同時に優越感さえ抱いてしまうのは仕方のない事の様に思えた。――旅の序盤と比べれば、あまりにも短くなってしまった茶色い毛先をつい、と撫でる。柔らかくて、艶がある。きれいだ。
「だ、……だめだった?」
「だめでした」
「…どうして?」
「…だってわたし、ファイさんがいてくれてすっごく嬉しいんですよ? なのに、そんな人のお誕生日を祝えないなんてだめです。ありえません」
『モコナも同意見! それに美味しい物食べれないじゃんー!』
「おめーは食い気だけだろうが」
「…おれも一緒だ。貴方がいるから流れる、穏やかな空気がある。そんな貴方に対して感謝をする機会を、おれ達にくれないか?」
――ず、ずるい。この子たち。――それが、オレの率直な思いだった。オレの存在が嬉しいだとか、感謝させて欲しいだとか、どれだけ褒め称えれば気が済むんだろう。なんて、他人事のように思った。ちらり、と二人の様子を盗み見ると、似たような、真剣な顔つきだ。さすが幼馴染み、こんなところまで似るんだなあ。と、これもまた他人事のように思ってしまった。そして、呆れるように、恥ずかしさを誤魔化すように深く溜め息を吐く。……ちょっと黒ちゅう、にやにやしないで。顔がうるさい。
「……オレは何をすれば良いの?」
「それは、――」
結論を口にする前に小狼は言葉を区切り、顔をレイノの方へ向けた。相変わらず似た様な表情を浮かべ、ゆるり、と双眸が弧を描く。――決まっているだろう、と言いたげなそれに、ファイはぐぬ、と言葉を詰まらせた。…とぼけるな、オレ。分かってるくせに。この子たちがどれだけオレを好きでいてくれて、びっくりするくらい大切にしてくれているか。言葉にしたがるのは、多分レイノちゃんだけじゃない。
「…ただ、いつも通りで良い」
「いつもみたいに笑っててくれるならそれだけで良いよ」
「……う゛、も、――分かったぁ」
『やったー! 夜はパーティーだね!』
「酒はあんのか」
『もー! 黒鋼ってばすぐお酒!』
「てめーには呑ませねぇぞ。レイノ、お前もだ」
「えー!? 何でよ!」
「タチがわりぃからだ」
「それには同感だけど、……まあ、久し振りだったら良いんじゃない?」
「……おめぇ、結構浮かれてやがるな?」
何時だってそうだ。あまりに優しく、そして驚くほど不器用な小さい存在にファイは何時だって弱かった。渋々と言いたげに間延びした声音を響かせた瞬間、モコナはテーブルの上で幾度と飛び跳ねる。そんな様子を視界に捉え、黒鋼は何処か楽しげに口を開いてみせたのだ。呑む気満々である。しかし、レイノを味方する様な助言にあまりに小さな一言を送る。
「そりゃあ、ね」と、少し濁す様にファイは呟く。――期待を、していない訳じゃなかった。けれど、期待をしただけ怖いから。身体へと染みついた恐怖心は、そう簡単に消えるものでもない。なのに、この子たちはそれら全部を軽々と超えて来る。恐ろしいと同時に、躊躇わない様子に思わずわらっちゃった。無意識に笑みを零すと、くいくい、とレイノちゃんに袖を引っ張られる。
「レイノちゃん?」
「あのね、でーと、したいな」
「……オレと?」
「ばか、ファイさん以外いない」
「どこかに連れてってくれるの?」
ぽそり、と響くソプラノは僅かにあまい。こちらからも少しだけ顔を傾かせてわざとらしく首を右へと倒しつつ、ファイはゆるり、と双眸を細めた。――これは、分かっている顔だ。二人きりの時に良く見かける、わたしを出し抜こうとする時のそれ。ぐぐ、と言葉を詰まらせるも己の口元を覆い、ファイさんと秘密を共有する。そんなファイさんから、もう一度お伺いを受けた。やっぱり分かってるくせに、ひどいひとだと思う。でもそんな彼が、わたしはすきですきでたまらない。――一言、言葉を送ると、ファイはきらきらと煌めく碧眼を丸く見開かせた。
「――アシュラさんとも、ユゥイさんとも作った事のない思い出、わたしがファイさんにあげる!」
その言葉を耳にした瞬間、ファイはレイノの身体を力の限り抱き締めた。ラブラブだ、とモコナの声。呆れた様な黒鋼の視線、包み込む様な小狼の笑み。それら全てを振り払っても、ファイはレイノのぬくもりが欲しくて欲しくて仕方がない。――昔も今もいつだって、レイノちゃんはオレのすべてだ。片割れや王の存在は別として。距離を置くなんてそんな芸当、今ではもう出来そうにない。
「ファイ」として存在を認めてくれる子ども、すきですきでたまらない女の子。オレの、オレだけのしあわせ。レイノちゃんを抱き締めて、オレはあまりに近い桜色の目を見つめた。
「今日も寝かせてあげられないかもしれない」――オレはそう謝って、トマトみたいに真っ赤になったレイノちゃんの顔を見て、笑った。
2022年ファイ誕