変化した口調

 ――人は何故、出来ない事をやろうとするのだろうか。――そんな問題提起がヒールの音だけが響き渡る暗い部屋に澄み渡った。それをやってみせた者は水中に浮かぶ隻眼の少年を見上げる。時折浮かぶ水泡は彼を殺したい訳ではないのだろうと言う事を証明している。それをひたすら見つめるだけの女性は形の整った小さな唇をそっと開いた。あの人は不可能を可能にしようとして、そして、願ってる。終わってしまった夢をもう一度、と。――ああ、本当、馬鹿みたいな夢ね。




 目の前の巨大な鏡にはレコルト国の医務室の様子が映されている。その前には蝙蝠の装飾がなされたグラスがあり、その中には透明の液体が揺らいでいた。それを歪んだ笑みを浮かべながら優雅に見つめる男の脳裏には、一体どんな野望が浮かんでいるのだろうか。――最初は純粋な「会いたい」だった。それが何故こうなったのか、自分でも分からない。けれど、願わずにはいられないのだ。誰が禁じようと、忌み嫌おうと、もう一度。




 グラスの中の丸氷がカラン、と軽快な音を立てる。侑子は、艶やかな黒髪を肩に垂らしながらその様子を見つめていた。否、眺めていた、と言う表現の方が正しいだろうか。しかし、彼女は遠い昔を思い出すかの様に空を仰いだ。何時も優しい目元と口元を絶やさなかった変わった男。ずっと大切だと、そばに居るのだと思っていた男(ひと)。けれど、それは叶わぬ願いなのだと知った。たとえ、どんな力を得ようとも、それが、在るものだとしても、どれほど願おうと、進もうと、もう二度と叶う事は無いのだ。




「玖楼国って、サクラちゃんと小狼くんがいた国ですよね」
「はい。けど、玖楼国では見た事のない風体と武器でした」
「近隣国って事は…」
「見た事がないんです。すぐ神官様に次元の魔女の下へ送って頂いたから詳しくは分からないんですが、ひょっとしたら異世界から来た者達だったのかもしれません。だから、レイノさんに刀を渡したのも、黒鋼さんのお母さんの祷場に現れたのも…」

 レイノの刀の柄の部分には、さり気なく蝙蝠のマークが記されている。数年間は使い続けている物だが、刀が刃こぼれをしても柄のデザインが崩れて来ても蝙蝠のマークだけは消える事はおろか、傷一つ付く事はなかった。それを、言う事は出来なかった。自分でさえも分からない事でこの人たちを不安にさせたくなかったからだ。――そして、話は玖楼国を襲った者どもについてに変わって行く。恐らく、それらについて一番情報を持っているのは玖楼国の王である桃矢であろう。その話を聞いた黒鋼は今まで姿を見せなかった深紅の瞳を覗かせ、口角を歪めてみせた。


「これで尚更気にする事ぁねぇな」
「え?」
「おまえが俺の過去を見たからあの刀の飾りに気付いた。こいつから情報も聞けた。俺にとっても役に立った。だから…」
「…優しいんですね、黒鋼さんは」

 黒鋼は何時もよりもゆっくりと言葉を紡いだ。その姿は、小狼を傷付けない様に慎重に言葉を選んでいる様に見える。それを見つめるレイノの瞳は、酷く優しげなものだった。不器用と言うか何と言うか。――だからこそ、みんなの信頼を得ているんだろうけどね。――小狼の一言に鳥肌が立った黒鋼は、怪訝そうな表情を浮かべた。その後に続いた小狼の言葉はきちんと的を得ているのだろう。そんな二人の様子に嬉しくなった彼女は、軽快な動きでベッドに腰を下ろした。


「まあ確かに何だかんだで優しいよね、黒鋼は」
「お前急に呼び方変えんなよ。気持ち悪ぃ」
「良いじゃーん。秘密を共有している運命共同体ですよ? 仲良くしましょうよ」
「うぜぇ」
「…仲良いですね。お似合いですよ」
「気持ち悪いこと言うな、ガキ!」

 今まで敬語だったレイノが元の話し方に戻す事には、少なからず意味があるのだ。自分のせいで何もかもを壊してしまったと思い込んでいた彼女は、何時の間にか「信じること」が恐怖の対象となっていた。それは、全て壊してしまった後に出会ったのが飛王だと言う事が起因となっている。常に裏を掻く様な会話に慣れてしまった彼女は、黒鋼の様な真っ直ぐな人間に対する経験がない。だからこそ、信じる事が出来たのだろう。小狼の言葉に一瞬にしてファイの笑顔を思い出した黒鋼は小狼に対して吠えてみせた。しかし、同時に響いたノック音にそれはなかった事にされてしまったのだ。


「お話終わったー?」
「はい」
『サクラの羽根について情報、仕入れてきたんだ』
「小狼君、大丈夫ー?」
「はい」

 開いた扉の間から顔を覗かせたのはファイとサクラ、そして、彼の肩にちょこん、と乗っているモコナだった。ベッドに近付いた彼は、ハット越しのレイノの頭を彼にしては雑に撫でてやった。僅かな衝撃に思わず目を細めたレイノは小動物の様で、きゅん、と心臓が掴まれる。――ああもう、かわいい。――モコナはそこからレイノが腰掛けるベッドに飛び降り、小狼に向かってジャンプを繰り返した。しかし、その途中でモコナのお腹らしきところからは空腹を知らせる音が漏れたのだ。それに釣られる様にサクラからも同様に音が漏れ出す。――そう言えばお昼時か。


「そろそろ空く時間だもん。仕方ないよー」
「すみません。おれが起きなかったから」
「オレも、おなかすいたしー。話は、さっき見つけてきた所でしよー」
『わーい』
「見つけてきた所?」
「美味しいところですか?」

 レイノは真っ赤に頬を赤らめるサクラに笑みを向けては、ファイの手を借りて立ち上がった。その横ではモコナが黒鋼の顔面に飛び付き、額や眉間、頬を踏み付けて行く。こう言う絡みを見ると、黒鋼も随分と丸くなったなぁ、と感じる。ファイの言う「見つけてきたところ」とは本人らしか分からない情報で、一行はファイを先頭に目的地へと歩を進める事となったのだ。




「『記憶の本』?」
「って呼ばれてるんだってー。手にした者の記憶を写し取って、次に開いた者にそれを見せる本」

 ファイに連れて来られた場所は洒落た喫茶店だった。お昼時のそこは多くの客で賑わっており、空いてる席もなかなか見付からない。テラスに席を見付けた一行はアフタヌーンティーセットを頼み、優雅な軽食の時間を楽しんでいた。「記憶の本」と呼ばれるそれの説明を受けた小狼は目元に影を作るや否や、ちら、と黒鋼の顔を覗いた。黒鋼はモコナと攻防を繰り広げており、阪神共和国でのお好み焼き争奪戦を思い出す。黒鋼と小狼の一連の表情の応酬にファイは意味深な笑みを浮かべた。
 ファイの横に座るレイノは籠の中に綺麗に飾られているマカロンに手を伸ばした。しかし手の平一個分遠いそれを取る事は出来ず、彼に奪われてしまったのだ。そして、彼はマカロンを彼女の口元に近付けては遠ざける、と言う行動を繰り返し行った。――これ絶対おちょくられてるよね。――そう言った行動を数回繰り返した後、やっとの事でマカロンを口に含む事が出来た彼女はサクラに微笑ましそうに見つめられながらも美味しそうに咀嚼した。そして、再び頭を撫でられたのだ。


「でねー、さっき小狼君が持ってた本のマークが」

 レイノとのマカロン争奪戦を終わらせたファイは頬杖を付いて話を再開させた。同じタイミングで黒鋼とのサンドウィッチ争奪戦の勝利を手に入れたモコナが机に降り立つ。すると、モコナは口の中からとある紙を取り出した。それは、サクラの羽根のデザインにそっくりな表紙をした本をコピーした物である。


「でも、レイノさんとモコナは…」
『うん! モコナ「めきょっ!」ってならなかった』
「わたしも特に感じなかったなぁ」
「あの図書館にあったのは複本なんだって」
「なんだそりゃ」
「元になった本を写したものだそうです」

 この国に来てからレイノがした事と言えば着替え、黒鋼と小狼に情報を与えた事くらいである。しかし、決してサクラの羽根の気配を忘れていた訳ではない。だからサクラをファイとモコナに任せたのだ。――次にファイが見せたのは原本の表紙をコピーした紙である。それには、サクラの羽根が大事そうにガラスケースで覆われていた。描かれた、と言うよりかはそのまま閉じ込めた、と言う感じである。


「どこにあるんですか!?」
「ん、それも調べて来たよー」
「中央図書館だそうです」
「さっきの図書館とは違うんですか?」
「うん。この国で一番大きい図書館でね、ちょっと大変な感じなんだよー」

 サクラの言う「中央図書館」とは乗り物に乗って移動しなければいけない程には遠い距離に位置している。何日もかかる訳ではないが、出入り口が少し厄介な作りになっているらしい。そこには国宝などの貴重な書物が多く保存されており、過去に盗みなどが多発したのだ。それを理由に出入り口には番犬が二匹、備え付けられているのだ。


『お空飛んでるー』
「なかなか出来ない体験だよね」
「これも魔術で飛んでるんだねぇ」
「すごいです」
「座席も色々あるらしいんだけど、お金あんまりないからー」

 空に浮かぶのは、魔力で飛んでいるであろうシックな印象を持たせる列車、不思議な模様が描かれている球体、そして、何処かに繋がっているのであろう橋である。そんな不思議な景色を見れる様な場所に、一行は居た。記憶を失っているサクラは、初めて見る光景に気分が高まっているようだ。普通に過ごしていたら、雲の間を通るなど絶対に体験できる事ではない。


「ごめんねぇ。おとーさん、甲斐性がなくてー。その上、飲んだくれでー」
「もはやニート状態ですもんねぇ」
「お酒ばっかり飲んでて全然、働かないけど、お父さんはいいひとよ、レイノちゃん! ファイかーさん!」
「レイノさん! ファイかーさん! おれ、父さんの分まで働くよ! 黒鋼とーさんの分まで!!」

 列車の中で始まったのは、モコナの悪ふざけであった。今回は長くなりそうである。彼女の意図に気付いたレイノとファイは声を出さずに口の形だけを変え、モコナの声に合わせている。そして、次々と位置を変えて間接的に黒鋼を茶化したのだ。すると、ふと力強い何かに掴まれる。視線を向けると、そこには嫌な雰囲気を纏いながら笑みを浮かべる黒鋼が居た。予想通りである。


「――少しずつ遅くなってきてる?」
「駅が近いんでしょうか」

 列車が進む度に宙に浮かぶ線路から音が漏れ出す。先程のすぐ終わるものではなくゆっくりと絞り出して行く様なそれは目的地が近付いて来ている事を示していた。小狼の声にちらり、とそちらを見れば、サクラの視界には何時もの真剣な顔付きをした彼とその後ろで騒ぐ黒鋼とモコナの姿が映った。それで思い出したのは、図書館での小狼の涙。この長い旅の中、一度たりとも見た事がなかったそれは彼女の心の中に違和感としてしこりを残し続けている。――それが少し、悔しかった。けれど、それを貴方に言う事はきっとないんでしょう。わたしが笑顔でいれば、貴方はずっと喜んでくれるんでしょうから。


「着いたみたいだよー。はい、レイノちゃん」
「…有り難う御座います」
「…大丈夫だよ」
「え、――」

 列車が線路を踏み潰す音がなくなると、それが止まる音が一行の耳にも行き渡った。周りの乗客と同じ様に、一行もゆっくりと席を立つ。そんな時でさえも黒鋼とモコナは先程のおふざけを続けており、相変わらずだと呆れるばかりである。そう苦笑を浮かべるレイノの目の前に手が差し伸べられた。ファイである。少し迷った後に触れたそれは仄かに冷たさが宿っていた。それが余計にファイを意識させている。ゆっくりと紡がれるファイの言葉はレイノの目を覚まさせるには充分で、この人に隠し事は出来ないのだと、改めて感じたのだ。




「ここかよ」
「ビブリオって都市らしいよー、黒ぽん」
「本って意味なんだよー、黒ぷー」
「…大きい」
「あれが、中央図書館」

 モコナは黒鋼の頭上を気に入ってしまったらしく、おそらくこの国に居る間の定位置に決まってしまったのだろう。彼の問いに答えたレイノとファイの目線は黒鋼本人ではなく、黒鋼の頭上に居座るモコナに向けられていた。ささやかな嫌がらせである。レコルト国最大級と言われる中央図書館は周りが氷で覆われており、何処か人を避けている様な印象を覚えさせる。列車に居た時に視界の端に映った橋はここに繋がっていたようだ。


『感じる。微かだけど、サクラの羽根の感じ』
「可能性、ありますよ。小狼くん」

 氷の部分は意外にも頑丈に出来ているらしく、五人の人間が体重を掛けても壊れる事はおろか、ひびが入る事もなかった。何の障害もなく渡れた一行は中央図書館の入口を見上げた。そこから感じるのは微かな気配。ここまではっきりと感じ取れたのは何時振りだろうか。そんな素朴な疑問を抱きながら足を一歩踏み出すと、突風の様な風が一行を包み込んだ。そこから現れたのは先ほど、喫茶店で話に出た番犬である。


「さー、中入ろっかー」
『そう。本借りなきゃねー』
「あれが番犬とやらか」
「あの威圧感だけで帰っちゃう人絶対いるよね」
「やー、何か怖かったねぇ」
「なんだか怒ってたような…」

 番犬に対して鋭い視線を向けていた小狼とは対称に、ファイとモコナは何時もの笑顔を絶やしはしなかった。それだけでは飽き足らず、彼女はセンス皆無の即興ソングを歌い始めたのだ。それに呆れながらも背後に居る番犬にちらり、と視線をやると、黒目がないので分からないが睨まれている様な気がした。それはサクラも感じ取っていたらしく、思わず冷や汗が溢れる。


『分かっちゃったんじゃないかな』
「黒鋼が悪い人だって?」
「はい図書館では静かにねー」

 サクラの呟きに反応したのはモコナだった。余り見る事がない様な真剣な表情を浮かべており、その雰囲気はサクラと小狼にも感染している。しかし、事の行き先が何となく分かっているレイノは苦笑を浮かべるしかない。そんな緩んだ空気の中なのだから、失言をしてしまうのは仕方のない事だろう。だが、そんな言い訳は黒鋼には通用しないらしい。黒鋼の怒気を感じたレイノはモコナを抱えてかなりの段数がある階段を駆け上がって行く。そんな何処かシュールなこの場所には、黒鋼の声が轟いていた。




「見せてもらうことも出来ないなんて」
「困ったねぇ」
『どうするの? 小狼?』
「それでも取り戻します」
「どうやって?」
「…っ、まさか…」

 一行は鳥の囀りのみが響き渡る中、とある広場にて腰を落ち着かせていた。結果は惨敗。「記憶の本」の原本は本国の国宝書に指定されており、持ち出す事も閲覧する事も出来ないのだ。それの理由として、過去の事例が挙げられる。その度に入り口の番犬も含まれる守衛機能が全て捕まえたらしいが、レコルト記・三千四年より、閲覧は禁止されているとの事なのである。挙げ句の果てには複本の閲覧を勧められたのだ。
 しかし、一行が欲しているのは本ではない。本に保存されているであろう、サクラの羽根だ。しかし、見る事すら出来ないとなると、事を進めるのは厳しいだろう。だが、小狼はそれでもサクラの羽根を諦めてはいなかった。その証拠に小狼の瞳にはまだ希望がある。それによりある一つの答えが出て来たレイノは思わず身を乗り出した。――ああ、そうだ。この子は全ての手段をやり尽くす、一番厄介な男だったのだ。


「盗みます」

 ――ああやはり、侮れない。