不幸の双子
ファイの身体を射抜くその瞳は純粋であり無垢で、責め立てられている様な感覚さえ感じる。真っ直ぐなその瞳は今のファイが既に失くしてしまったもので、眼帯で隠れる眉間に思わず力が籠った。押し潰されて行く様なその感覚は、酷く恐ろしくなったのだ。そんな恐怖に塗(まみ)れたその瞳に懐かしく感じるも妬ましい、そんな光景が浮かび上がって来たのである。
「オマエ、ガ、コロシタ」
――その言葉で殺されるオレは、きっともう優しくはなかった。
その光景は石を掴む音から始まった。その音を響かせているのはボロボロになったアンクル丈の服を着た小汚い少年だ。彼の指先はとっくに爪が剥がれ落ちてしまっているのか、血で塗(まみ)れ、真っ赤だった。きっと痛覚さえも麻痺している。それにも関わらず前に進もうとする彼の脳内には屈辱的な言葉達が連なっていた。
『我がヴァレリア国の皆が心待ちにしていたのに』
『弟王の皇子誕生を、兄王も楽しみにしておられたのに』
『何故、双子だったのか』
そんなこと、こちらに言われてもどうする事も出来ないのに。国の事なんて分からない。どうして双子がだめなのかも理解できない。ただ、あの子の側で生きられるならそれだけで良かった。生まれた理由とか、自分ではどうする事も出来ない事で蔑まれてもどうにも出来ないのに。
『弟王が突然の病で身罷られた』
『やはり双子は凶兆』
『作物が育たぬ』
『水が濁って』
『弟王の御妃が自ら命を』
『ご自分が双子の皇子を産んだからこのような不幸が、と』
『やはり凶兆』
『双子は凶兆』
『しかも、強大な魔力を』
『御産まれになって間もないのに、お二人合わせれば既にヴァレリア国の皇である兄王に次ぐ魔力をお持ちだとか』
『成長されれば皇を凌ぐやも知れぬ、と』
『不幸を呼ぶ、不幸を』
『父君と母君、どちらも死に至らしめ、国まで滅す』
『しかし、殺せば、更に厄災が増す』
上を見上げても出口は見えず、ただただ暗闇が続くだけだ。この言い様のない不安は誰にも告げる事は叶わなかった。巨大な穴の中心には朽ちかけた一本の塔がそびえ立ち、そこには多量の雪が降り注いだ。その中から響く決死の足掻きの音はきっと誰にも届かないのだろう。生まれてからずっと投げ掛けられた言葉達が頭の中で響き渡る。それらを掻き消す様に、少年は再び固く目を瞑った。
『不幸の双子』
その言葉も生まれてから何度耳にしただろうか。物心が付き始めた頃を見計らって先程の少年とその少年と見た目が酷似した少年は兄王に呼び出された。どうやらすべての厄災を負わせ、その身に不幸を封じる為に閉じ込めるらしい。双子であること、強大な魔力故に長命であること、産まれてきたこと、全て自身の力ではどうにもならない事だ。
それにも関わらず、目の前の兄王は双子が不幸であればあるだけ、国は栄え、民は幸福となる、そう言うのだ。そして「呪われた双子」と、口癖の様に述べる。兄王は双子をそれぞれ別の場に閉じ込め、幽閉するらしい。魔力が効かぬ、刻の流れが違う谷の上と下へ、その身を捧げろ、と言うのだ。そして、極めつけ、と言いたげに次の言葉を口にする。
『双子が、生きて、不幸でいる事が、皆の幸せ』
その瞬間、少年ははっと目を見開く。谷の上には微かに二つの人影が見えた。その人影はある物体を勢い良くこちらに投げ込む。それは少年の身体と衝突し、今まで積み上げて来たものを崩すのである。そっと地面を見れば、四肢が歪みに歪んだ男性が少年と同じ様な服を着て、雪に塗(まみ)れていた。
痛々しいその姿に再び蒼い瞳を隠すと、谷の事を教えてくれた時を思い出す。この谷は罪人の捨て場である。ヴァレリア国の中では、罪を犯したものに安息の墓などは存在しない。そこで朽ちることもせず、ただうち捨てられたままそこに在る。それが罪人の末路だと言う。所謂「この国で最も呪われた場」であり、少年二人もそこで、ただ「在り続ける」べきらしい。そう言った兄王の顔はきっと何も思っていない、ただの能面だったんだろう。
『選べ、それを厭うならひとりに。どちらかを殺せ』
こんな幼子らに言うべき事ではない。冷静に考えれば、そう言った考えも出て来るだろう。しかし、「凶兆」と呼ばれる存在を前にすれば誰もがそれを排除する、そんな考えしか出て来ないのである。――死にたくない、死にたくない。きっとそんな思いもあった。けれど、自身の写身(うつしみ)の様なそんな存在を殺すなんて、出来るはずもなかった。今ここでその存在を殺せたとしても、きっと酷い罪悪感に苛まれるのだろう。生まれた時が一緒なら、死ぬ時も一緒だ。そんな思いから、手を放せなかったんだと、そう思う。それを見た兄王は少年らを谷へ幽閉するようにと、そう告げた。しかし、その後に続いた言葉こそが「呪い」の様だと思ったのは隠せない事実だった。
『決して、そこから出てはならぬ。世界が滅ぶまで』
『生きているひとは、ここにはいない。生きてるのは…』
そう呟いた少年はちらり、と天に伸びる朽ちかけた塔を見上げた。そこにはきっと、あの子がいる。そんな微かな希望を感じては、少年は雪が降り続ける空を見上げたのだ。その下には死ぬ事すら許されない大量の罪人たちが倒れ込んでいる。きっと底には五体も満足にない、もはや死体になった罪人も居るのだろう。けれど、それらを犠牲にしてでも少年はもう一人の自分にもう一度会いたかった。
――出たい、出たい。そんな気持ちがもう既にボロボロになった身体を突き動かしてくれる。罪人らの身体を引き摺り、それを山の様に積み上げて行く。それらを階段の様にしてあの子に近付けて行く。何時かここを出れると信じて、何時かは魔力を使えると信じて、ただ進むしかないのだ。
『行くんだ、二人いっしょに。ファイ』
『…ユゥイ…』
ファイとユゥイ、それが「不幸の双子」と謳われる少年らの名だ。塔にあるたった一つの窓には錆び付いた格子が付けられており、ファイはそれを掴んで白い息を吐き出した。ただ見ている事しか出来ない自分が恨めしくて、情けなくて少しだけ、ほんの少しだけ、死にたくなった。――そんなこと、ユゥイに言ったらどんな顔をされるのだろう。
幾分か時が経った。相変わらずこの国は寒く、雪が途絶える事はない。地響きの様に響き渡る風の音は、まだ自分が生きている事を証明してくれていた。そんな中、再び嫌な音が響く。しかし今回はどうやら何時もと違うらしい。一度だけではないその音は連続的に響き渡り、ユゥイの目の前には夥しい数の死体が転がる事になった。見開かれた蒼い瞳には先の見えない不安や疑惑、そして、僅かな好奇心が孕んでいた様に思う。
『ヴァレリアに、何かあったのか』
その声は、ただただ暗闇に吸い込まれるだけなのに。
地響きの様に響き渡る風の音がユゥイの心をじくじく、と蝕んで行く。呼吸から漏れる白い息だけが自身の生存を物語っていた。ふと、何気なしに上空を見やればそこからは有り得ない数の人影が放り投げられる。次々と響き渡るドサドサ、と言った重みのあるその音は聞くまい、とユゥイは死体の山の上で縮こまった。思わず耳を塞ぐその手は寒さだけではない、確かな恐怖がそこにはあった。
『罪人が着せられる服を着てない。それにまた、こんなに…』
この谷に沈められる際には必ず、ユゥイやファイの様にアンクル丈の衣服を着せられる。罪人とそうでない者、その違いを視認できる様にする為だ。しかし、つい先刻投げ入れられた人々はそれすら着せられてはいなかった。それに、こんな短期間で次々と罪が犯されるのもおかしい話だ。空からは相変わらず、飽きもせず小さな白い塊が降り注ぐ。それを眺めるファイが何を思っていたかなんて、きっと本人にしか理解しえないのだろう。
雪はまだ、止まない。
ズルズル、と死体を引き摺る音だけが響き渡る事ほど、空しく申し訳なくなる事はないのだと思う。それは、罪人が着せられる服を着ていない人だ。本当なら死ぬ運命にはなかったのではないか、そんな事さえ思う。それでもユゥイには夢があった。ファイと共に外に出て、色んな景色を見て笑い合う、そんな夢が。それを叶えるまでは死ねない、死ねない筈なのだ。なのにその夢にはほど遠い。泣きたくなる程に現状は何も変わっちゃいなかった。
死体の山の頂点まで来た途端、掴んでいた腕が離れる。どうやら腐敗していたらしい。どれだけの時間、外で放置されていたのだろうか。そうなった反動で尻餅を付くも、ユゥイはただただ沈黙を貫いて無事である右腕に力を込めた。しかし、その時に再び響いた重苦しい音に蒼い瞳を丸くさせる。次々と増えて来る死体には、やはり自身らと同じ様な服は着せられていなかった。
『こんな子供まで…!』
先刻、投げ入れられた死体の中には小さな赤ん坊も居た。そんな子を優しく抱き締め、守る様に包み込んでいるのは母親だろうか。そっとフードに手を触れさせるが、既に温もりは消え失せていた。――ああ、せっかく生まれて来た命をこんなにも早く摘まれてしまったのか。こんなに早い死を、なぜ「罪人の捨て場」と言うこんな場所で迎えなければならないのだろうか。それに、こんな子どもやその側で横たわっている老人らがどんな罪を犯したと言うのだろう。この国に何かあったことは明白だった。
『ファイはあの塔から出られない。でも、ここにいるなら、壁を伝って出られる。出られるんだ』
新しく見つけた死体の肩を掴み、積み上げて行く。脱力しきったそれは僅かな力みでも簡単にずれてしまい、その力の掛け方が酷く難しいのだ。それでもユゥイのやるべき事と言うのはこれしか残っていなかった。登って、爪が剥がれて血が滲んでも登って、外に出たらファイと別の国に行く。ただ、それだけの為に。けれど、その前にヴァレリアで何が起きているのか確かめる。もし二人で、この国の人たちに出来る事があるならやりたい。そんな健気すぎる思いが空回ったとしても、自己満足だったとしても、何かをしたいのだ。
しかし、レンガの溝から指を滑らせてしまい、ユゥイの身体は再び死体の山に埋もれる事になる。その時に響いた弾ける様な音は巻物だった。それはとある死体の手によって掴まれており、ユゥイはそれを手に取る。
『…何か、書いてある?』
そこに書いてある文字は「ヴァレリアの皇、乱心遊ばし」から始まっていた。「罪もなき民人を殺め、既に、止める者もいない。どうか、隣国から兵を」と続くそれは救援要請を意味していた。しかし、それを届ける間もなく殺されてしまったらしい。紙の下部は血で染まっており、握る手に力を込めていた事が分かる。
『皇が…乱心……?』
その「皇」とは、ユゥイとファイを幽閉させる事を決めた人物である。その人物が現在、ヴァレリアで暴走しているのだと言うのだ。急激に増加したこの谷への死体の投下もこれが影響しているのだろう。民を、自分を守る為に二人を「不幸の双子」と名付け、遠ざけたのにも関わらずこの現状の原因は一体何なのだろうか。そう思い読み進めて行くと、そこには絶望を感じざるを得ない文が綴られていた。
『これも全て我が国に双子の皇子が産まれたためと。すべては、不幸の双子の…』
ああ、こんなにも。何もしていないのに、ただ産まれただけなのに、存在が罪な事などある筈がないのに。どうして全てが二人のせいなのだろうか。どうして二人が理由となるのだろうか。あの時にどちらかが死ねば良かったのか。けれど、今あの瞬間に戻ってもきっとまた共に在る事を願うのだろう。だからこそ、辛かった。苦しくて、逃げたくなった。
『ユゥイ…ユゥイ…』
――どう足掻いても、僕はユゥイに寄り添う事さえ叶わないんだ。
何時も薄暗いヴァレリア国は、夜になると一層暗く落ち込む。しかし、空から降り注ぐ雪は変わらずユゥイとファイに寒さを与えて来るのだ。そしてユゥイもまた、壁をよじ登る事を諦めてはいなかった。しかし、先程の巻物の中身が精神的にも堪えているのは確かだ。壁のレンガに爪を立て、グッと力を込める。その指に増えて行く赤は、上空から落ちて来ていた。ユゥイの瞳に映るのは勢い良く落下する大きな塊だ。それはユゥイの背後を通過し、雪に埋もれた。
剣を、持っている。これまでの死体とは少し訳が違うようだ。白い息を吐き出しながら、恐る恐る、と言った様子で後ろに目を向ける。ゆっくりとこちらに手を伸ばす正体は、この国で暴走しているらしい皇だった。ズルズル、と這いながらこちらに近付く彼はもはや虫の息である。それなのにも関わらず、彼は痩せ細ったユゥイの足首を掴んでみせたのだ。
『ユゥイ!!』
『…すべて…は、おまえ達双子が…招いた不幸。おまえ達が産まれたことが…不幸の始まり。既に…この国に生在る者は、私とおまえ達だけ……』
ファイは格子を持って声を張り上げるが、そこではガシャン、と言った音が響くだけで現状は何も変わりはしなかった。そうしている間にも、皇はユゥイの足首を掴み上げ、剣を持っている右手を上げて行く。そしてそれを力いっぱい握り締め、しっかりと構えたのだ。目の前で震えている幼子など、皇の視界にはきっと入っていないのだろう。そんな皇はただ一言、「そして」と言葉を放つ。
『これで…終わる』
その言葉と共に吹き飛んだ血液は、再びユゥイに絶望を浴びせた。その剣は皇の首に突き刺さっており、そこからは一直線に血液が飛び散っていた。口からも血を吐き出している筈なのに、彼はただ笑みを浮かべている。嘲笑(わら)っているのだ。自害、と言うその行動が、ただただ人を蔑むその言葉が、あまりに無邪気なその表情が、この場に居る幼子らにどれだけの影響を及ぼすなんて考えてもいないのだろう。だからこそ皇は、再び呪いとも言える言葉を口にしたのだ。
『生きて、その罪を贖え』
幼子の断末魔が響き渡る。それの前には頸動脈をひと突きした皇の死体、それから出る夥しい程の血はユゥイを守る様に飛び散っていた。爪が剥がれ、血だらけとなった指で頭を抱えて声を荒げるユゥイには、ファイの健気な声など耳には入っていなかった。ただただ目の前の光景に、その身に降り掛かった言葉に、この世界の全てに絶望し、その蒼い瞳はそれに支配される。その瞳の中にはもう、「片割れと共に外に出る」と言うささやかな夢さえも消えてしまっていた。
『…た……けで』
『ユゥイ! ユゥイッ!』
『…産まれただけで罪なのか。双子として、ただ、一緒に産まれただけなのに。ただ、産まれただけなのに。違う国に行っても同じ事が起こるのか。何の関わりもない人達が…死ぬのか』
『ユゥイ!』
『ただ、双り一緒にいるだけで、生きているだけで!』
細々と聞こえるユゥイの声色には、ただひたすらに純粋な絶望しか感じる事は出来なかった。ガチガチ、と響く軋んだ様な歯の音はきっと寒さだけではない。その後に視界に入る自身の手は血だらけで、酷く汚(けが)れている様に見えた。その血を、命を踏み台に幸せを掴み取ろうとした自身は、どれだけの悪なのだろうか。そんな思考に苛まれたユゥイには、もう既にファイの訴えなど眼中にはなかった。そしてユゥイはダン、と雪が積もった山に力強く手を付く。
『また、みんな、死ぬのか』
ググッと力を込めて雪を掴みに行く。しかしそこには何もなく、犠牲にしようとしていた国民の血がただただ染み渡って行くだけだった。ただ、空しかった。この手には、何もない。何を手にする事も出来ない。何かを望み、何かを欲する事さえも許されない。そんな人のものとは言えぬ運命を、受け入れるしか道はないのだ。ファイはきっとその事が分かっていた。なのにどうして泣いている? ――ああ、ユゥイが泣けないからか。――そしてユゥイは「ただ」と嫌に力強く言葉を続けた。
『生きているだけで』
――生きているだけで罪ならば、ぼくらの存在は何なんだろう。
雪足は止まる事はなく、その白い塊は共に静寂を落とし続けた。誰も居ない世界だからか、その静けさや寂しさは一層強まっている気がする。そんな世界にぽつん、と佇む塔のみが人が生きていた、と言う事を証明してくれていた。その中に居る二人の幼子は伸びきった金髪を床に垂らし、広げている。ユゥイに至っては、もう既に谷を出る事を諦めてしまっていた。
プルプル、と震えている手を格子に伸ばすのは、ファイだった。力さえも上手く操れないままやっとの事で格子を掴み、谷で力なく横たわっているユゥイを見下げる。ピクリとも動いていないのか、ユゥイの上には雪が積もっていた。そんなユゥイを、脱力しきったユゥイを見てファイが何を思うのか、その目を見れば一目瞭然だった。
『ごめんなさい。あの時死んでいれば、ユゥイはこんな思いをせずにいられたのに。ごめんなさい。ごめんなさい』
視界がぼんやりと朧げになる。――ああ、どうやら涙が出て来てしまったようだ。けれど、仕方ないと思う。こんな風にしたかった訳じゃなかった。ただユゥイと一緒に、少しでもささやかな幸せを感じられるならそれだけで良かった。だから死にたくなかった。けれどその末路がこれだ。何がしたかったんだろう。何を望んでいたんだろう。分かっていたはずなのに。幸せになんかなれない、と。もう、死にたくなって来た。
『死ねば、ユゥイはここから出られる。双子でなければ生きていける』
数年前から何の栄養も採っていないこの身体は、もうそろそろ限界のようだった。ズル、と下りて行くその手には、何の力も宿ってはいなかったのだ。けれど、そんな状態になってでも、ファイは白い息を吐き出しながら雪が降り続ける空を仰いだ。死にたい、死にたい、と何回も唱えても、彼は確かに外の世界に恋い焦がれていた。そして、僅かな願いさえ芽生えた。死ぬ前に、誰かに言わなきゃ。
『誰かに、ユゥイだけは助けてって伝えなきゃ』
一度で良いから、ユゥイの瞳(め)のような蒼い空を見てみたかったなぁ。
そこで記憶は途切れていた。我に返ったファイの身体には責め立てる様な「ファイ」の視線が突き刺さっている。お前のせいだ。ファイはこんなにもユゥイの事を思っていたのに、ユゥイはファイを裏切った。そんな混沌とした思いが流れ込んで来るようだった。それと同時に耳に入るアシュラ王の言葉は、より一層ファイに罪悪感を持たせるものとなったのだ。
「選んだんだろう、あの時」
『出たいのか、ここから』
『…また…夢?』
『夢ではない。これは現実だ』
『そんな…はず…ない。ここには誰も…来ない。死体以外』
『それはこの国での決め事』
『でも…隣国でも双子は…』
『それはこの世界での決め事。世界は他にもある』
久し振りに身体を動かした。寒さと栄養失調による痙攣が止まらない血で塗(まみ)れた手を見つめていると、ある男の声がこの場の空気を震わせる。そちらに目をやると、空間を割った様な切れ目がそこにはあった。彼は右目にモノクルを翳しており、不敵な笑みで顔を飾り付けている。そんな彼が言った言葉に、ユゥイは思わず目を見開いた。
『ここは魔法が効かぬ谷。しかし、我が身は次元が異なる別の世界にある。だから影響を受ける事はない。――出たいか、ここから』
突然現れた男はこちらに手を差し出すが、それは何らかの膜で覆われた様に触れる事は叶わなかった。どうやら彼の言っている事は事実らしい。そんな彼から続いて紡がれる魅惑的な一言に、ユゥイの瞳に僅かな光が宿った気がした。けれど、冷静になる。すると、脳内を占めるのは片割れの顔だった。
『……出たい。世界が他にあるなら…出たい。そして、誰かに…』
『その願いを叶えてやろう。けれど、出られるのは一人だけだ』
ユゥイがゆっくりと言葉を紡ぐ。「出たい」と、確かにそう望んだ瞬間、男が僅かにほくそ笑んだ気がした。その意図が分かる様になるには、ユゥイは些か幼すぎたのだ。条件を提示され、目を見開き、そして自分を追い込んで行く。母親が死んでから問答無用でこの谷に落とされたため、ユゥイの中には誰かに頼る、と言う選択肢さえなかったのだ。その「誰か」と言うのも、もうこの国には存在しないのだが。
男は笑みを携えながら言葉を放つ。それは酷く残酷なもので、幼子が決断するべきものではなかったと思う。そして、それを受けるユゥイも酷く残酷で、優しすぎたのだ。迷った素振りを見せたものの、ユゥイの心の中はきっと決まっていたのだろう。
『ユゥイを出して』
その言葉こそが、もう一つの始まりだった。
ふと、風を切る音が耳に届く。空を仰ぐと、そこには雪と共に降りて来るものがあった。うそだと信じたかったそれは、ゆっくりと、そして確実に近付いて来る。互いの蒼い瞳には互いの姿が映り、それが交錯した瞬間、重なる様にとある記憶が頭に流れ込んで来るのだ。
格子が見える。どうやらこの記憶はファイのもののようだ。どうやら目の前に居る男はファイの元へも行っていたらしい。そして、同じ様な質問をファイに投げ掛ける。ぼそり、と白い息を吐き出しながら紡がれた一言は、ユゥイに絶望を与えるには充分だった。そして、その後に響いた重苦しい音が、ユゥイに現実を見せたのだ。
『…ファ…イ』
『おまえは選んだ。その結果がこれだ。おまえが選んで消した命、おまえはその責を負わなければならない。――これは、呪い』
『ファイ!!』
恐る恐る、視線を下に向ければ、そこには夥しい程の血液を撒き散らして絶命したファイの姿があった。それを「これ」と表した目の前の男は、そっと笑みを携える。膜の向こう側で震えるユゥイに、ほくそ笑んでいるのだ。そして、畳み掛ける様に休む暇もなく言葉を紡いで行く。その言葉は、ユゥイの精神をおかしくさせるには充分だった。しかし、そんなそれを救い上げる様に、男はそっと囁く。
『やりなおしたいか、選択を。戻したいか、時間を』
『そんな事…出来な…』
『出来るとしよう。どうする、死んだ者を生き返らせる術があるとしたらどうする』
『ファイ…を…』
『その為に、おまえにはやって貰わねばならん事がある』
『何…を?』
『もうすぐ、おまえを迎えに来るものが現れる。おまえはここから出られるだろう』
淡々と紡がれるその言葉達は、冷静に考えれば有り得ない事ばかりだった。けれど、その時のユゥイの心の状態では、その言葉は神の様な、酷く神聖なものに成り代わっていたのだ。地面に広がる血がなくなって、元気に笑顔を浮かべるファイが頭の中に現れる。そうなれば、どれだけ良いか。きっと、幸せになれるのに。
何時の間にか縮小していた狭間からは、男の手しか見えなかった。そこから響くのは、自身が背負わなければいけない業(つみ)である。「強大な自分の魔力を凌ぐ者が目の前に現れたら、その者を殺す」と言うそれはインフィニティで既に解かれているが。しかし、その後に続いたもうひとつの呪いを言う直前にふっと画面が変化した。
次の場面は、周りの景色が残像になる程の大きな地鳴りから始まる。絶命してしまったファイを抱え、ユゥイは再び空を仰ぎ見た。雪が止んでいるのを見たのは初めてだったと思う。その代わりに落ちて来るのは塔を形成していた石の瓦礫である。それは次第に巨大な物となり、それから守る為に、ユゥイはファイの身体を覆い隠した。ユゥイと話していた男は何時の間にか消えており、あの不思議な空間も消えてしまっている。それを境に谷はどんどん壊れて行き、周りでは痛々しい音が響き始めた。
『世界が…滅ぶのか……』
そうして、最後まで残っていた塔までもが崩壊して行く。この国の中でも頭一つ抜きん出ていたそれは、錆になった様にゆっくりと地面に落ちて行くのである。しかし、それと入れ替わる様に宙に浮いた水が現れる。それはゆらゆら、と動きながら人の形となり、ユゥイの前に降り立った。
『迎えに来た』
『…地獄から……?』
『別の世界から。――ここにいたいのかな』
『やらなきゃ…ならないことがある…から』
『それならここにいてはいけないね。生きなければ』
突如として現れたその男は、さらり、と胸下まである黒髪を靡かせてユゥイに近付いて行った。そんな彼に対して、ユゥイは警戒する様に長い金髪から蒼い瞳を覗かせてそれを向ける。その瞬間、ファイを抱き締める腕の力が強まった気がした。こうなってしまったのには、周りの大人の利己主義的な思考が原因なのだと思う。簡単に人を切り捨てるその姿は、酷く醜かった。けれど目の前の男は静かな瞳を向けながら、決して罵言を口にはしなかった。自分の存在を認めてくれる様な、そんな言葉にファイはピク、と僅かに反応を示す。「不幸でいるために?」と問い掛けるが、その男は静かに首を振り、「願いを叶える為に」とただ一言、そう告げたのだ。
『行こう。世界はここだけじゃないから』
そう言った男は、その行為が当たり前だと言いたげにこちらに手を差し出した。それに、ユゥイは光を見た。大人に救われた事は、頼った事は、記憶の限りではなかった様に思う。実の親でさえ、「不幸の双子」と謳われた二人を捨てたのだ。けれどこの男は、それをする事は決してなかった。―――信じても、良いのかな。――口には出さずに問い掛ける。けれど、ここに縋り付くしかない事は分かっていた。そんなユゥイはそっとその手に触れる。久し振りに感じた人肌は酷く温かかった。
『名前は?』
『……ファイ』
これが、「ファイ」と言う存在が生まれた瞬間だった。
「そう。その子の記憶を受け取った君なら知っている筈だ」
アシュラが差し出した手に、ファイは触れていた。これはもう、条件反射の様なものだ。心の奥底に根付いている「嫌われたくない」、「裏切ってはいけない」と言う思いがファイの身体を動かしていた。しかし、言った事のない自身の本名はアシュラには知られていたのである。また、その理由もアシュラには筒抜けなのだ。それに加え、「けれど」とアシュラは優しげな笑みでファイを追い詰めて行った。
「それでも、君の罪は消えないよ。――大丈夫。君と一緒に来た三人にも視てもらっているから、君の過去を」
そう優しく語り掛ける様に言葉を紡いだアシュラは、昔と変わらない静かな瞳を後ろに居る筈のレイノらに向けた。そこには苦しげに頭を押さえる『小狼』と、そんな『小狼』を支えながら前を睨み付ける彼女と黒鋼が居たのだ。怒っている、と言うよりかは何が起こるか分からない、そんな不安があった様に見える。そんな同行者らを見つめるファイの傍ら、アシュラは「本当の君を視て貰おう」と、再び口を開く。
「過去に君がした約束を。君が、知っていた事を」
その言葉を引き金とし、場面は再びヴァレリア国の谷底となった。
『…それが、もうひとつの呪い』
『……え?』
『覚えている必要はない、この呪いはな。そして、おまえには旅に出てもらう。様々な世界を渡る旅に』
頭の中に靄(もや)が掛かった様に何も思い出せない時が、一瞬だけあった。それが何なのか、ユゥイ――基い、ファイ――は今も思い出す事が出来ない。そんな彼を置いて、目の前の男はほくそ笑みながら次々と言葉を放って行く。それをただぼうっと聞く事しか出来ないファイは、ただひたすらにこの現状を享受するしか術は無かった。それでも生きる為に、願いの為に、ファイは男の言葉を頭に入れるのである。
『砂漠の姫と、こちらが用意した写身と共に』
――我が一手として。