初めての奪い合い

「じゃあ、これで良いかー?」

 爽やかな春風が扇ぐ中、教室では気だるげな教師の声が響き渡っていた。新学期、特に新入生にとってのそれは面倒臭いもので、姿勢を崩している生徒たちもちらほらと居る。その中には、麗も含まれていた。並中生の中でわざわざ隣町から来る生徒は麗くらいだろう。カールのかかった明るめの茶髪は腕に押さえ付けられる事により酷い寝癖を生み出しており、遠くから見たら鳥の巣のようである。そんな事にも気付かない程に爆睡している麗は自身の身が危険に脅かされている事にすら気付いていないのだろう。


「ん、ん…」
「おはよ。麗」
「……ぁ゛よ」
「喉潰されたの?」
「体内のおみず蒸発してる……」

 虚ろな声を漏らしながら目を擦るとゆっくりと視界がはっきりとして来る。そうして初めてそこに映ったのは、B組で初めて出来た友達である茉莉(まつり)の顔だった。綺麗な黒髪を胸元まで伸ばしている容姿で大人しく見えるが、笑顔で吐かれる毒には初対面の時には大変驚いたものだ。出会ってから暫く経てば、それも慣れてしまうと言うものである。机にはコンビニの袋があり、そこでやっと今がお昼休憩だと理解したのだ。


「良く寝てたわね」
「昨日、深夜にお母さんにパシられて…」
「あんたの親御さんってかなり面白いわよ」
「どこが!」
「それで寝てたのは構わないけど、先生の話聞いてた?」
「へ?」
「あんたの委員会、勝手に決まってたから」
「え、うそ! どこ?」
「風紀委員会」

 僅かに残る眠気と戦いながら、麗はスクール鞄から母親に作ってもらった弁当を取り出した。それをもそもそと食べる姿は、まるでリスである。その姿に苦笑を浮かべながらも、茉莉は側らに置いてあった紙パックの飲み物に口を付けた。そして、ふと思い出した様に先程のHRの話題を話に出したのだ。――一番風紀にほど遠い人材が風紀委員会何ぞに入っても良いのか。


「よりによって風紀委員会とはねぇ…ご愁傷さま」
「え、そ、そんなに活動面倒臭いの?」
「…あ、そっか。麗って黒曜から来てるから知らないの? 風紀委員会の噂」
「噂?」

 茉莉の答えに弁当の中身を頬張りながら軽く頷けば、彼女は心底同情した様な表情で麗の頭を無雑作に撫でた。そんな茉莉の表情に頭に疑問符を浮かべた麗は見当外れな言葉を口に出す。そこで茉莉はようやく麗の無知さに気付いたのだ。そうして知った事実は、麗の顔色を悪くさせるには充分だったのだ。そして、人間の肌はここまで青白くなる事を生まれて初めて知ったのである。

 ――絶体絶命って、こう言う事を言うんだろうね。




「地獄の門みたい……」

 別に夢を見ている訳ではない。それは先に言っておく。しかし、教室棟から少し離れた現在の場所は校内ではないみたいで、心臓の心拍数がどんどん上がって行っている様に感じる。授業後のSHR後に担任から言われた「応接室からの呼び出し」は麗に自身の心臓を掴まれた感覚にさせた。腰を低くしながらもやって来たそこは妙な威圧感を纏っており、そうした気持ちで思わず零れてしまったのが先ほどの言葉なのである。よし、と意気込んでドアノブを捻ろうとした時に、室内から誰かが現れたのだ。――副委員長である草壁である。


「何か用か」
「う、えっ、あ、あの、呼ばれ、て…」
「呼ばれ、――あっ、日比野か?」
「は、はいっ」
「お、女だったのか……」
「はい?」

 中学生には見えない堀の深い顔立ちは、成人だと言ってもバレないそれである。リーゼントの存在もそれを助長させている。初めて見る目の前の人物は地元にはない威圧感を纏っており、思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまう。――こんなところ、茉莉が見たら爆笑するんだろうなぁ。――そう思ってしまった事に気付けば、麗は案外肝が据わってるらしい事が理解できるだろう。少し落ち着いた彼女は草壁の言葉に思わず眉を顰めるが、次の瞬間には草壁に詰め寄られていた。


「あ、あの、ちか、――」
「日比野、お前、強いのか?」
「はい?」
「だから…」
「――草壁、何してんの」

 もう少しで額にくっつきそうになるリーゼントの先端に思わず腰を引いていると、草壁は麗に質問で攻め始めたのだ。意味が分からない。委員長の存在が大きいからと言って部下まで強くなければいけないのだろうか。そう言った疑問が生まれてしまえば、彼女は不信感が伝わる歪んだ表情を隠す事は出来なかった。その時だった、今一番聞きたくない声が草壁の鼓膜を震わせたのは。

 この時ほど終わった、と思った事は無い、とのちの草壁は言う。


「で、この子が新入り?」
「は、はあ……」
「ふぅん……貧弱そうだね」
「いっ」
「このナリで、君、強いの?」
「強いって…」

 先程は草壁の威圧感がすごい、と言った。訂正させて欲しい。目の前の、委員長である雲雀の方がよっぽど強い威圧感を纏っている。吊り気味の目元は激しい殺気を抑えているようで、雲雀の雰囲気は近寄りがたい何かを含んでいた。そんな人物に舐め回す様に見つめられれば、身体の力を抜け、と言われる方が難しい。しかも、ただ見つめられているだけではないのだ。品定めの様な、審査されている様な、そんな感じ。そんな考えを脳内に巡らせていると、頬にひやり、とした金属の感触がある。後ろで草壁が声を張っている気がするが、少しでも視線を逸らせば喰われる。それを分かってた筈なのに、こう言う時ほど身体と言うものは動いてくれないのだ。金属と何かがぶつかる衝撃音と共に、麗の身体は床と平行に倒れ込んだ。


「……本気?」

 ――草壁の驚いた視線も気にせずに零れた言葉は、限りなく僕の本音だった。




「はぁ? 殴られた!?」
「初対面で殴られたとか初めてでね、目ぇ覚めた瞬間直帰した」
「当たり前だわ! それ完璧喧嘩売られてるじゃない!」
「だから今日会ったらしかえ、――」

 殴られた日の翌日は中学に入学して、初めての授業だ。初日から移動教室とはなかなかハードである。教科書やノート、そして、筆記用具類を持って廊下を歩いていると、話題は昨日の放課後の呼び出しの事となる。その話の途中で響いたのが、先程の茉莉の叫び声である。思ったよりも彼女にとっては衝撃的だったのか、かなり顔を見られている気がする。初めての表情を見せてくれた彼女に苦笑を浮かべながらどうどう、と流していると、視界の端に黒が映り込んだ。その瞬間、麗は無意識に唇を舐めていた、と言う。


「ごめん。これちょっと持ってて」
「あっ、ちょ、麗!」
「日比野! 昨日お前…」

 廊下中に、渇いた音が鳴り響く。先ほどまでの喧騒は何だったのだろうか、と思う程に今のここは驚く程に静寂に包まれていた。流れる様に茉莉に自身の荷物を預けた麗は茉莉や草壁の声などものともせず、真っ直ぐに雲雀の元へと進み、雲雀の頬をはたいたのだ。制止の声をあげた二人やはたかれた本人はもちろん、周りの生徒らも目を見開く事しか出来なかった。しかし、それをやってのけた張本人はしてやったり、と言う満足気な表情を浮かべており、その表情が余計に雲雀の苛立ちを増加させた。


「っ、ぶっ殺す」
「委員長落ち着いて下さい!」
「女子ですよ女子!」
「関係ない」
「あんた馬鹿なの? 頭おかしいの? 馬鹿なの?」
「それ全部馬鹿って意味だよね?」

 雲雀の口癖である「咬み殺す」ではなく、「ぶっ殺す」と出て来た言葉はよほど苛立ちがあるのだと分かる。草壁や他の部下に後ろから羽交い絞めにされているが、雲雀の手には既に自身の武器であるトンファーが握られている。一方で茉莉も青ざめた顔で麗に詰め寄っているが、彼女の発言に対して冷静に突っ込んでいる麗を見れば呆れてしまうと言うものだ。しかしその直後、聞くだけでも痛い、そんな音が再び廊下中に鳴り響いた。


「痛い?」
「いたい……っは! あ、あの、ごめ…」
「…さっきまでの威勢はどうしたの」
「威勢って…」
「…良いよ。合格」
「っ、へ?」
「女にビンタされたのは初めてだからね。しかも年下の」

 唐突に訪れた脳天への痛みに思わずしゃがみ込めば、そんな麗と視線を合わせる様に雲雀も同じ様にしゃがみ込む。そんな彼の顔には既に笑みが戻っており、先程までの苛立ちはないようだ。しかし、彼女は逆にやってしまった、と顔を青ざめており、先ほどまでの余裕は失っていた。先ほどまでの自分はどうかしていたのである。頭を抱えたり、口元に拳を添えて不安を表す、そんな彼女の様子を暫く眺めては、彼はふと立ち上がり、言葉を放った。――未だに苛立ちは残ってるけど、威勢だけは認めてあげよう。戦力にはカウントしてないけどね。

「これからよろしく。日比野麗」

 僕の初めてを奪って行ったんだから、少しくらい期待しても良いでしょ。