過去と忍びと今とヒーロー
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  • 四十五話


    私と相澤先生は他のクラスメイト達が集合する時間よりも早く学校についた。当然だ。教師である相澤先生の時間に合わせて来たのだから、通常の集合時間よりも早いだろう。けれど二人一緒に登校してきたことに、妙な勘繰りをされないという点に関してはよかったことだろう。
    さて、時間があまり余った私は一体何をしていようか。こんなことならもう少し庄左ヱ門と戯れていたかったのに。しかし相澤先生がそれでは警護の意味が無いと譲ってくれなかったのだ。
    とりあえず校内にいて集合時間には集まっていれば好きにしていいらしい。それでも出来るだけ職員室から遠くには行くなと言われてしまったが。ならばやることも特にないのでベンチにでも座って読書でもしようと、持参していた本を開く。
    目で文字を追い始めれば、すぐに本の世界に意識が入り込んでしまい周りの音が消えた。


    ***

    待ちに待った林間合宿の当日。クラスメイト全員が行けることになり、楽しみにしすぎたのか集合時間よりも早くについてしまいました。一時間ほども早く来てしまい、当然のように私の他には誰もいません。このまま教室に篭っているというのも味気なく、せっかく晴れたのだから外で本でも読みましょうか。そういえばとても日当たりが良く、いい場所があると麗日さんたちに聞いたのだと思い出し、そちらに向かう。今はまだ早朝の時間帯ですので日当たり云々は関係ないと思いますが、それでも、そこがどんな所なのか気になっていた私は若干そわそわしながら足を進めました。

    先客がいるということはベンチが見え始めればすぐに分かりましたわ。ですが、それが誰なのかまでは分からず、こんな早い時間に一体誰でしょうかと、私は自然と足音を消し息を潜めて近づきました。
    その人物が分かった瞬間。私は目を見開き固まってしまいました。だってその人物はよくクラスで話題になり、しかし誰も寄せつけようとしない人物でしたから。けれど、そんな彼女がいる事実よりも違うところで私の足はそれ以上進みません。
    すぐ隣にある大木の影に身を潜めながら、その横顔がチラチラと朝日に照らされている。手に持っている本を読むために伏せている黒い瞳が。無表情に座る彼女の表情が。時折吹く風に靡く綺麗な黒髪が。その全てがまるで一枚の絵画のようで、とても神秘的なもののように感じましたわ。私はその光景に言葉を失い、ただ見惚れるのみでした。
    見つめすぎたのか、彼女はふと本から顔を上げ私を見ました。

    「八百万……百……?」

    その綺麗な黒の瞳に私が写り、私の名前を訝しげに彼女が呟いた瞬間、私は言い知れぬ喜びがありましたわ。だって初めて彼女の瞳に写ったのですから。恐らく、彼女の瞳に写ったのは、相澤先生と轟さん、それに件の子供ぐらいではないでしょうか?それと同時に、彼女が私の名前を覚えていたことにも驚きました。

    「お、おはようございますわ」

    なんて言えばわからず、挨拶だけになってしまいました。彼女は相変わらず無表情で何も言わないまま私を見続けています。
    気まずくて、でもここで去ったら彼女がいるからだと思われてしまいます。どうしましょうと考えていると、口を開いたのは意外にも彼女でした。

    「おはよう。こんな朝早くにどうしたの?」

    まさか彼女から話を広げてくれるなんて思ってもいなかったのでつい動揺してしまいましたわ。それに彼女が訝しげに見ていて慌てましたが、驚きました。彼女は必要最低限私たちと話しませんし、自分からは絶対に話しかけてきませんでしたから。
    何も言えないでいる私に眉をひそめ始めた彼女に、慌てて答えます。

    「え!?い、いえ!ちょっと早く来すぎてしまいまして……!」
    「そうなんだ」
    「は、はい!」
    「ここに来たってことは、時間つぶし?」
    「え、ええ。いい場所があると麗日さんたちに教えてもらってたので…!」
    「そっか」

    そう言って、彼女は自分が座っていたベンチの真ん中から端に避けました。それが指し示すことは一つなのに、私の頭は行き着かず、目を丸くしてしまいます。

    「座らないの?」
    「!?!す、座りますわ!」

    不思議そうに首を傾げる彼女に何とか答えましたが、上擦った声が出てしまい顔が赤くなってしまいましたわ。けれど彼女はそんなこと気にもとめない様子でまた持っていた本に目を落としてしまいました。それに残念な気持ちになりながらも、おずおずと彼女の隣に座る。

    「………」
    「………」
    「……………」
    「……………」

    当然のような沈黙に、私は開いた本に集中出来ずにいます。隣の彼女はただ黙々と本を読み進めるばかり。
    チラリと。隣の彼女の横顔を盗み見ると、先程よりもまじかに見える伏せられた目がミステリアスな雰囲気をさらに引き立て、私は目を離すことができません。するとさすがに見すぎたのか、彼女が顔を上げこちらを見ました。

    「なに」
    「え!……あの、その」

    いきなりの事で慌ててしまい、上手く言葉が出ません。それでも彼女は急かすことなくじっと黙ったまま私の次の言葉を待っていてくれました。

    「その、ご本!」
    「?これ……?」
    「え、ええ!それって羅生門ですか?」
    「うん」
    「芥川龍之介、お好きなんですか?」
    「別に特に好きでも嫌いでもないよ。ただ家にあったから」
    「そ、そうなんですの……」

    そこで会話が途切れてしまいました。しかし、この沈黙に気まずさなどありませんでしたわ。けれど前までならば気まずくはなくともなんとなく彼女の周りには居づらい空気がありました。今ではそれがないのです。
    私も出した本に目を落とし読み進めます。彼女も読み進めています。会話などありません。けれど、彼女の雰囲気が柔らかくとても居心地のよい空間でした。

    今思えば、何時頃か彼女の雰囲気が変わったのです。最初は周りにいるものを全て拒絶するように寒々としたものでした。けれど、今はそんなものなかったかのようにやんわりとしたものに変わっていました。先程もそうです。前までならば私がすぐに答えなかった時点で興味をなくしたようになりましたし、そもそも世間話なんてしませんでした。何故変わったのか。彼女になにか心境の変化でもあったのでしょうか。何にせよ。私は彼女の一見すると排他的な雰囲気がなくなったことがとても嬉しかったです。


    ***

    それから私達はずっと読書していて、気がついたら集合時間の15分前でした。
    浅間さんは本をしまい込み立ち上がり、私もその後を追うように慌てて立ち上がりました。
    彼女はこちらには見向きもせず歩き出してしまい、私もその後を追います。一つも会話がない状態で少しの居心地の悪さを感じながら、歩いて行きます。

    「あ、あの……!」

    きっとこのまま集合場所に行ったら、別れて今まで通り必要最低限の付き合いになるのでしょう。けれど、それが嫌で。もっと彼女のことを知りたいと思い、私は声をかけました。
    彼女の足は止まり、振り返ります。その瞬間がスローモーションのように感じ、今から言う言葉に緊張で胸が破裂しそうでした。

    「なに」
    「え、と…あの」

    早く言わなければ焦れば焦るほど、言葉は引っかかっているように出てきません。それでも、彼女は急かすことなく先に言ってしまうことなく待ってくれていました。

    「バ、バスで隣に座ってもいいでしょうか!?」

    ああ言ってしまいました。前なら確実に断られているだろう言葉。けれど、今なら受け入れてくれるだろうと意を決して言ってしまった。

    「いいよ」

    少しの間を置いて返された言葉に、一瞬何を言われたのか分からず。ようやく脳が理解すると同時に顔が熱くなるのを自覚しました。そんな私に彼女は眉をひそめながら首をかしげています。

    「来ないの?」
    「行きますわ!」

    私が追いつくのを待ってくれ、隣に並ぶとまた歩きだします。そんな些細なことでも、私は彼女の隣に立てたことが、例え本当の意味ではなかったとしてもとても嬉しかったです。


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