プロローグ


カクリ。傾いでいた身体を起こし前を向く。

一つの節目とされている成人を迎えた彼女は、振袖に包まれた背筋を伸ばす。
記憶のある市長の話はすで終盤─と思っているうちに締めを迎え、結びの言葉が放たれる。
長い拘束時間が終わり、途端に会場は騒がしくなった。

(市長さんの話、ちゃんと聞いてる人ってどれくらいいるのかな。いきなり騒いでかわいそう)

寝ていた自分も勘定に入れた思考に囚われつつ立ち上がる。

大人と認められる年齢。
行動に責任とか権利がどうとか説明されても目に見えるものでも無し。

「実感湧かないな」

(でも。でもこれで)


“自分の願望を叶えられる“



しかし、馳せていた夢への小旅行は瓦解する。
会場で突如悲鳴が上がり、人々が立ち上がり逃げ出したのだ。
一部の人間は危険が迫っているかもしれない状況でスマホやカメラを取り出し録画しを始める。

騒ぎの中心には、人だったモノが倒れていた。

パイプ椅子ごと身体の側面から縦一文字に切断された男性は、身体の中身…臓器や血液を周囲に撒き濡らして沈んでいた。即死なのは明らかだ。
しかし異常な光景はそれだけに止まらない。
二つに分かれ倒れた身体を跨ぐように、夜の闇を思わせる【空間の揺らぎ】があった。
凶器もといその靄にも思える揺らぎは、静かにそこに存在している。
興味本位で近づき触れた人間は、指や腕を落とし悲鳴を上げた。
大きくなる騒ぎ。誰かの嘔吐で起こる湿った音。甲高い悲鳴と足音が響き、あっという間に会場内にから人間はいなくなった。
…ただ一人を除いて。

似淵仄華は、これからは責任ある成人女性、らしい。
自分の想像に笑みがこぼれる。そんな奴は、家族ですらいなかったのに。

日常的なDV・吐かれ続ける暴言に奴隷のような生活。
幼い頃の友人やその親達にひっそりと助けてもらいながら生きてきた。
成人式の前日。友人の家に向かおうとした時には、性的暴力の被害にまで遭うところだったのだ。

限界だ。何度そう思っただろう。

彼女の夢。
それは家族からの逃亡である。

家族の誰にも見つからないところへ。
手の届かないところへ。
夢が叶わないなら、死ぬことさえもすでに決めていた。

絶好のチャンスだった。
あの【空間の揺らぎ】は、彼女の望みを叶える要素を全て備えていた。徐に、彼女は自分の持ち物である扇を帯から抜き取り、放り投げる。
【空間の揺らぎ】は静かにそれを飲み込んだ。破片は落ちていない。

悠然と彼女は歩いた。

第三者がいれば、それは自ら死刑台へと向かう囚人のようでもあり、嬉々としてバージンロードを踏みしめる花嫁にも見えただろう。


「家族(アイツ)から逃げたい。どうか、この世界じゃない場所へ連れて行って」


その空間から返答などは無い。
だが、確かに仄華の願いは叶えられた。

騒ぎを聞きつけ駆けつけた警察が見たのは、揺らぎに飲み込まれ消える彼女の後姿と、真っ二つの死体だった。
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