02
これは夢か幻か。
例えるなら情報の嵐。目に見える不協和音。ザッピングされたテレビ画面。
次元が折り重なるその隙間を縫うように仄華は漂っていた。
彼女は動かなかった。
すでに暗闇の中を、何時間もかけて移動していたからだ。
「せっかく逃げれたのに」
心底悔しそうに呟く彼女は、足場も曖昧な空間を睨みつける。
理不尽な父親の暴力は、唯一の味方だった母を亡き者にした。
母の人柄の良さを知る周囲の人間が、向けられた暴力に仄華が屈服してしまう前に逃がしてくれた。
恩返し出来なかったことが悔やまれるが、遺言書は弁護士と友人に渡し、母の墓参りは離れて暮らす祖母に頼んだ。
自由になるはずだった。
「何しようか…もう少ししたらまた移動してみようかな」
宇宙空間のようなこの次元から脱出を考えていると、視界の彼方に何かが見えた。
状況の変化に光明が差したかと思われた。
しかし、その物体が近づいてくるにつれて、想像は覆された。
人の肉色の粘液を空間に撒き散らし、這いずるように彼女に近づいてきたそれは。
嫌悪感をまとめて煮詰めて多脚にした、忌まわしい巨大な蜘蛛のような姿。
こらえきれない本能からの危険信号に従い、仄華は逃げ出した。
「タタリ神かよーーっ!」
仕組みは分からないが、歩くたびに足下が光る空間。
だが、隠れる場所も、必死に逃げた先に障害物も無い。
あっという間に追いつかれ、触手に掴まれた。
「きゃあっ!ぐ、うぁあああっ!!」
触手の触れている箇所が焼かれてるかのように痛む。
体が宙に持ち上げられ、息苦しさにもがくが抵抗は意味をなさない。
涙が滲む。
(いやだいやだいやだいやだ!こんな、ところで…)
まだ、何もしていない。
あの奴隷のような人生から脱け出せていない。
(たすけて…おかあさん……)
体から力が抜けていく。
意識が闇に覆われる直前、仄華は突如解放された。
「げぇっ、ぇほ!げほっげほっ!ヒュー…ヒュー…」
触手が途中から切れ、底の見えない空間に呑み込まれていく。
見るだけで寒気がする忌わしい存在から隔てるように。
あの夜の闇を思わせる【空間の揺らぎ】が、彼女の眼前に広がっていた。
(な、なんで?)
返答は無い。
この空間で生きている生命体は彼女だけ。
しかし、一度ならず二度までも自分の危機を救ってくれたこの超常現象に。
仄華は安堵した。信用した。そして、またその身を委ねた。
静かに包みこんだ空間の揺らぎは、悍ましく忌まわしい存在から彼女を逃がすと音もなく消えた。
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