Healer
玄関で鍵を開ける音がして振り返った。程なくしてリビングのドアが開き、伺うように章ちゃんが隙間から顔を覗かせる。
『ただいまぁ』
「...あ、びっくりした...」
『まだ起きてたんや。寝てるか思た』
部屋に入りドアを閉めながらそう言って俯き笑う章ちゃんから思わず目を逸らした。心臓がドクリと脈打って鼓動が早くなる。章ちゃんが、泣きはらしたような目をしていたから。
「...ごはん、食べた?」
『うん、大丈夫』
その言葉に頷いたけれど『食べた』ではなく『大丈夫』だったことが気になってちらりと章ちゃんを見遣る。
『シャワー借りるなぁ』
「うん」
ちらりと私を見て笑顔を向けシャワーに向かった章ちゃんの背中を見送り、ソファーに力なく腰を下ろした。
今日は夜にメンバー全員揃って打ち合わせだと言っていたから家に来るなんて言っていなかったし、夕方送ったメッセージに返信もなければまだ読まれてもいない。
最近思い詰めたように考え事をしていたのにも気付いていたし、一週間程前には苛立ったように髪を乱す後姿も見ていた。
...胸が苦しい。痛い。本当に苦しいのは私じゃないはずなのに、章ちゃんの泣きはらした目を見るのが痛い。
私はどうしてあげたらいいんだろうかと考えているうちに、目の奥が熱くなってくるから目を閉じて涙を堪えた。
洗面所から聞こえるドライヤーの音を聞きながらまだ答えが出せずにいた。
今章ちゃんは、鏡の中の自分と向き合いながらどんな気持ちでいるのだろう。来るはずではなかった私の家に帰って来たのにはどんな意味があるんだろう。
ドライヤーの音が止んだからキッチンへ立った。リビングへ入って来た章ちゃんの目はまだ赤みは引いていないけれど、いつも章ちゃんが私にしてくれる事を思い返して声を掛ける。
「何飲むー?」
『んーと...』
「お酒はダメー」
『あは、そうなん?んじゃコーヒー』
あまり食べていない気がするからお酒は禁止したのに、空腹にコーヒーも良くない気がする。...空腹かどうかもわからないけど。
「................。」
『もう何でもええわ!』
返事のない私に笑いながら言った章ちゃんがソファーに腰を下ろした。
「...じゃあ、ミルクティー...」
『あ、ええなそれ』
気を遣わせてどうするの。自分で苦笑いしながら章ちゃんに目を遣れば、口元に笑みが浮かんでいたから少し安堵する。
『あんなぁ、今日な...』
突然“今日”の話が始まったからドキリとした。けれど章ちゃんはスマホを弄っていて、そこで途切れたままの話にモヤモヤする。
「...何、」
『あ、見て。ここ』
運んできたカップとソーサーを章ちゃんの前に置きながらスマホを覗き込めば、山盛りの肉を前にしてピースする章ちゃんが写っていた。その顔は昨日までの章ちゃんと同じで、無理矢理頬を持ち上げるように笑っていたから胸の奥が軋む。
『ここな、今日行ってきてんけどめっちゃ美味しかったから今度行こー』
そう言って私に笑顔を向けた章ちゃんは思ったより普通で、寧ろ昨日までの章ちゃんより、今の写真の章ちゃんより、確実にすっきりして吹っ切れた顔をしていたから、私も頷きながら笑った。
打ち合わせで何があったのかはわからない。けれどその曇りのない笑顔を見る限り、そこで章ちゃんが思いをぶつけることが出来て、更にそれを受け止めてもらうことが出来たんだろうと察した。
『ミルクティーうま』
両手でカップを支えて女の子みたいな仕草でミルクティーを啜る章ちゃんをちらりと見て、私の胸につかえていた塊も少し解れてきているように感じた。
章ちゃんの隣から立ち上がって寝室に入ると、静かにベッドに横になり顔を埋めた。
安堵なのか何なのか、自分でもよくわからない涙が滲んでしまったからここへ逃げて来た。なんで私が泣くんだろう。バカみたい。瞬きを繰り返して涙を引っ込めると、キッチンにカチャ、とカップを置く音がした。
仰向けになると、程なくして寝室を伺うように覗いた章ちゃんと目が合って章ちゃんが笑った。
『どしたん、眠い?』
「んーん」
私の横のスペースに飛び込んで来た章ちゃんがくるりと仰向けになって私を見る。視線が絡むとふにゃりと笑って抱き寄せられた。私の首筋に顔を埋めてぎゅーっと力を込めて抱き締められて息苦しい。けれど黙ったまま抱かれていた。いつもの章ちゃんがしてくれるそれとは違ったから。
キスをすることも指が体を這うこともなく、ただ章ちゃんの腕の中で目を閉じていた。何だか章ちゃんの心の色が見える気がして、もっと感じ取りたいと思った。
また滲んできた涙のわけに答えが出始めていた。
私が踏み込めない部分は当たり前にあるけれど、何があったかどんな辛い気持ちでいたのか知らなくたって、私自身が章ちゃんの帰る場所であった事実が堪らなく幸せだったのだとぼんやりと考える。
...私と同じ。章ちゃんが私の回復の場所であるのと同じように、章ちゃんもまた私を同じように感じてくれているのであれば、これ以上の幸せはないのだから。
「...おかえり」
『えぇ?今?』
「...言ってなかったから」
『そうやった?』
首筋に掛かる弾むような温かい吐息に胸が熱くなる。章ちゃんが笑っていて、よかった。
『ふふ、ただいま』
その言葉を噛み締めるようにまた目を閉じて章ちゃんの背中に腕を回した。すると額を首筋に擦り付け甘えるように私を抱き直すから、今は見えない章ちゃんの笑顔を瞼の裏に浮かべて、また目の奥が熱くなった。
End.
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